皆川博子さん、『たまご猫』

 『たまご猫』、皆川博子を読みました。
 
 “猫の形をした虚ろは、次第に深い青みを帯びはじめた。 夕映えが薄闇に侵されるのと、それは符節をあわせていた。 猫の前肢に爪あたりに、一点、紅い色が、夕映えの雫のように残っている。” 25頁

 単行本として出版されたのが1991年の短篇集です。’87年に『花闇』、’88年に『聖女の島』や『二人阿国』が上梓されていることから、皆川世界がより凄味を増していく頃の短篇集…と位置付けていいかもしれません。
 収められている作品は、「たまご猫」「をぐり」「厨子王」「春の滅び」「朱の檻」「おもいで・ララバイ」「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」「雪物語」「水の館」「骨董屋」の10篇です。

 忘れがたい印象を残す秀作ぞろいです。とりわけ、説教浄瑠璃を題材として採り込んだ「をぐり」や「厨子王」の美しさにはうっとり酔いしれました。 
 「をぐり」の登場人物は、老年にさしかかった一組の男女です。どうやら男性の方が女性の家で食事をもてなされながら、二人で会話を交わしているらしい…という場面から始まります。ここで二人の会話の中に“境界の地”という言葉が出て、それが男性の口から「餓鬼阿弥というのを、ご存知ですか」という問いかけを引き出すきっかけとなります。ここのところの文章の流れは、勿体ないような気がしてしまうほど、幽玄なイメージをひき起こす素敵な出だしです。 
 説教浄瑠璃の「をぐり」のことも、その会話の中で語られます。説教浄瑠璃の「をぐり」は、歌舞伎「小栗判官」のもとになった話です。怖くて哀しくて美しい話だなぁ…と思いながら読んでいるうちに、まるで袋の内側と外側を一瞬でひっくり返すみたいにして、説教浄瑠璃「をぐり」の世界が、一組の男女側の「をぐり」の世界に立ち現れてくるような、そんな妖しい逸品となっています。

 また「厨子王」は、皆川作品にしばしばある世にも儚く美しい“姉と弟”ものの作品です。時おり挿入される浄瑠璃の方の「厨子王」の文章をじっくり読んでいると、本文にひそむ残酷さが誤魔化しようもなく滲み出してきて、背すじがぞくりとします。やはり怖ろしい、そして美しい。 
 妖しい魅力という点では、「春の滅び」や「朱の檻」が堪らなく素敵でした。そこには狂気があり退廃があり、覗き込むとくらくらしそう…と思いながらも覗き込まずにはいられない、血で繋がれた女たちの姿がありました…ぞくぞくっ。ラストで奈落に突き落とされる作品もあれば、すくい上げられたように感じる作品もあり、皆川さんの作風が隅々まで行き届いた短篇集でした。
 (2007.11.5)

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