今日で夏休みは最期・・・そして『ありがとう』も最期だ。
閉店が決まってからはさすがにお客さんが増えたようだ。そしてオーラスの今日はさぞかしの賑わいだろう。昨日行ったのは最終日の31日と勘違いしたというトンマな話だが・・・。
「神戸の震災があった時ね、伊勢で寿司屋をしてたんですよ。あの時もそれからの客の落ち込みはひどかった。なんや、外食するような気分になれへんかったんやろね。ひどい売上でやく3か月、それから徐々に持ち直してったかな。そして今回の東北、これもね、やはり同じように客足がバタッと止まった。4月5月6月ときて、そろそろ3か月や、回復するかなと思たけど回復しない。実はね、この店はちょうど3年前に始めたんですよ。石にかじりついても3年は続けようって決心してね。でもね、最初の頃はしんどくってね・・・ああ、こんなとこで店をやらんかったら良かった、なんてね。それが先生や皆さんのおかげでね、お客さんが増えていって少しずつ少しずつ右肩上がりで上昇していって、ああ3年続けようって決心したことは間違いなかったなって・・・そんな時に東北ですよ。でも神戸の時を思い出して3か月したらって・・・それが7月になっても回復しない。そうこうしてるうちに消費税を10%やら15%やらと騒ぎ始めてる・・・こりゃもうアカンと腹をくくりましたよ」
「パラオの話はね、半年ほど前から聞いてはいたんですよ。パラオって国は新しい国でしてね。最初の大統領が中村さんだったか、・・・その人は三重県からパラオに移り住んだ人と現地の女性の間に生まれた人なんですよ。その三重県から移り住んだって人と縁故にな人がいましてね、その方からパラオで店をやらないかって。パラオって聞くと先生は何を思い出しますか? ああ、それね、アントニオ猪木の島ね。あれは独立するにあたってパラオを有名にするために各国の著名人に島を贈ったらしいですよ。後は? そうそう戦争ね、天皇の島? それは僕、知らへんなあ」
パラオのペリリュー島での戦いは芥川賞作家の児島襄が『天皇の島』で描いている。シンちゃん(爽風塾頭)の親父さんに紹介されたのをきっかけに著作を読んだ記憶がある。小田実の『玉砕』でも描かれたそうだが、こっちは読んでない。俺の貧弱な戦記物の履歴では、硫黄島と並んでペリリュー島の戦いが鍾乳洞や洞窟に籠ってアメリカ軍と対峙する戦いの双璧だと思われるる。
「第一次世界大戦でパラオを含めたドイツ領南洋諸島を日本が領国としたんですよね、それまでいろんな国に支配されてたけど、日本の支配がインフラも整えるなど、一番良かったそうで、日本人も島の人たちも分け隔てなく仲良く暮らしてたらしいんですよ。だからね、アメリカ軍がペリリュー島に攻めてきたときも島の村人はいっしょになって戦うと言ったらしい、でもね日本の隊長が『日本陸軍の軍人が土人といっしょに戦えるか! 貴様らは本島へ帰れ!』って怒ったんですよ、それを聞いた村人は裏切られた気持ちでね、本島への船に乗ったんですよ。するとね、浜辺に日本の兵隊たちが全員出てきてね、皆でいっしょに歌った歌を歌いながら手を振って見送ったんです。それを見てね、村人は自分たちを戦闘に巻き込みたくないからあんなふうに言ったんだと気づくんです。第二次世界大戦では唯一、日本軍やアメリカ軍は死んだけど、現地人は一人も死ななかった戦いなんです。・・・そんなことがあり、今でもその当時の村人は生きている人もいて、日本にはとても友好的なんですよね。ペリリュー島の戦いはYou-tubeにあるんですよ・・・何度見ても泣きそうになるんですけどね」
たぶん、これだ・・・。
「そういう日本の兵隊さんたちがいて、今でもその人たちへの感謝を忘れずに、ひいてはそれが日本人に対する友好的な感情に結びついている。僕が第二の人生を送ろうと思っている土地はそんな場所です。やはり、島の産業は観光・・・ダイビングの名所らしいですね。日本人ダイバーもたくさん行ってるようで、ブログなんか見てもね、まだまだ観光産業が未発達で、日本食も粗末なものを出してるんですよ・・・そうそう、隙間が大きいんです。そこに割って入るチャンスは必ずあると・・・。でもね、日本人ダイバーのブログなんかでは、パラオの観光施設の不備なことをけなしてるんですよ、他の国と比べたりしてね。・・・日本人として、昔パラオには立派な日本人がいて、そのおかげで日本人観光客に対しても友好的なことを知ってほしいですね」
この稿、続く。
昨日の『ありがとう』