退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「ホラー映画の歴史の確認と『後世に委ねる気持ち』のなさあるいは男のエロの『限界』」について

2019-01-28 02:00:49 | Weblog
晴れ。やや風が吹く。

「映画の必修科目11 鳥肌ホラー映画100」を読む。

なるほど自分があれこれ観ていることを確認する。
もちろん未見の作品も同様に。

その内容が面白いかと言われると微妙。
「観たこと」とそれを楽しく伝えられるかは別の話。

トッド・ブラウニング「フリークス」(’32)を冒頭に持ってくるあたり
いかにも「若者らしい」と思わざるを得ず。

「魔人ドラキュラ」(’31)や「吸血鬼ノスフェラトゥ」(’22)の紹介もあり。
個人的には「悪魔の追跡」(’75)がなかったのが不満。

あれこれ言い出すとキリがないのでここまでに。
今後もこの世界を愉しむつもりではある。

マル激を観る。

今回は厚労省の統計に関する「インチキ」について。

そもそもわが国には「自分のしたことを後世の判断に委ねる習慣」がなく。
終戦時の「書類の焼却」を思えば明らかで。

なぜかこの件に関する役人の数の縮小も手伝って。
かの省の役人たちの行為は「違法」であることをあらためて。

「合理性=一定の条件で何事かをしてその結果から有効性を判断すること」は何処へ。
「参考資料」をもたらさないこの「伝統」を考えたいもの。

これも「劣化」の現実だと判断しておこう。

神代辰巳「一条さゆり 濡れた欲情」(’72)を観る。

1時間ちょいの長さに驚く。
キュートな伊佐山ひろ子がなぜ一条さゆりに嫉妬するのかも同様に。

「完成された物語と人格」に「飢えていた」のかも。
要は「どう生きたらいいのかわからない=あの人ズルい」ということか。

一条さゆりの魅力を堪能する。
この「エロさ」はかなり「母性」を思わせるような。

公開当時を思えばかなり「スキャンダラス」だったと思われる。
伊佐山ひろ子と白川和子の「レズプレイ」もあり。

「ストリップ」という形での「芸」は今どうなっているのだろう。
誰もが簡単に「リアルなエロ映像」を観られる時代に。

「性」に関する妄想の「新しい世界」を見せられた「衝撃」ゆえの評価かも。
要は「男は女をわかっていない」事実がここでも。

どこまでも「見たいものだけを見る」のだとすれば
やはり「深くて暗い河」は果てしない。
コメント
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