退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「新年を迎えての事実ふたつ」について

2019-01-01 02:00:38 | Weblog
快晴。寒さはそこそこ。

近所のシネコンでブライアン・シンガー「ボヘミアン・ラプソディ」を観る。

クイーンの数々のナンバーは素敵。
ただし映画として面白いかどうかは別の話。

描き方がどこか「軽い」ような。
同じ監督の「ユージャル・サスペクツ」(’95)と比べると何とも。

おそらくこれはいつの時代にも当てはまることなのだけれど
当時大してクイーンを聴いていなかった同世代の「後押し」が相当にありそう。

「小耳にはさんだ懐かしさ」と自らの「歴史」の「正当化」作業というか。
「武勇伝=当時『現役』だったこと」を語りたい人々の心性がなせる業の影響が大きそう。

このあたりを具体的なデータで教えてくれるとありがたいのだけれど。
もちろん自分が間違っていたらその説は撤回するのは当然だとして。

コアなファンが何度も観ているという話もあるので。
少なくとも個人的には乗り切れなかったことだけが「事実」。

帰宅後「年越しそば」を早目に食べて母親に付き合う。

ダウンタウンの番組に笑う彼女はCMの間に紅白にチャンネルを変え。
「こんなの音楽じゃない」といった発言をする。

「自分に認識できないものは排除する」という姿勢。
いわゆる「残念な人」であると言っていい。

とはいえそれだけで切れないのが複雑なところ。
彼女は「人付き合い」ならかなり「いい人」であるのは確か。

要は「普通の人」だということか。
自分が「普通でない人」なので面倒臭いだけ。

「疑いのない前提」に対して議論を吹っかけるほどの「体力」もなく。
「話せばわかるか問題」がここでも。

「経済的な依存」のせいではなのでよろしく。
なるほど「自分の『特殊ルール』」がある模様。

なぜか「彼女のもたらす『理不尽』」を受け止めることに。
これが「愛情」なのかといえばそうでもなく。

たぶん「自分の都合」に過ぎず。
とりあえずそんな風にしか出来ていない「事実」だけが残る。
コメント
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