退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「リベラルとメディアの『限界』」について

2019-01-16 01:56:55 | Weblog
くもり。午後から夕方にかけてパラつく。

「#リパブリック」読了。

全体に「アメリカのリベラルの発想」だという印象。
セレンディピティ・ボタン」というのは面白かったけれど。

要は「自分とは異なる意見もしくは世界」を知れということ。
ただしそこに必要なのは「あすなろ」の心構えかも。

「明日は少しでもマシになりたい」という気持ちがなければ
ひたすら「自分の好きなもの」だけに囲まれていたくなるのも当然。

現在の状況を考えると相当に難しい「前提」があるような。
どうも「リベラルの『悪い癖』」が前面に出ている感じが濃厚。

「分極化=極端に違う考えになること」に関しての「プラスマイナスの指摘」は「正しい」。
「プラス=従来にない広がりのある展開」で「マイナス=過激化」ということで。

ただしそういう「どっちつかずさ」こそ現代人が「受け付けないもの」だったり。
やはり「メンバーが限られる発想」で「多数派」にはなれそうもない。

「多数決」で勝ったことのない身としては大いにうなずくところもありつつ。
「選択肢の多さ」が「めんどくささ」を生み「繭」に閉じこもることに。

その仕組みについては知っておいてもいいかも。

他人に左右されることを減らすためにはそれなりの「自信」が必要。
それを担保するのは「地道な実験と反省」だと思われるが如何。

さらには「謙虚であること」も同時に。
「根拠のない自信」が「先鋭化」をうながすことも知っておきたいもの。

いずれにせよ「そういう考えもあったか」と思わせる存在でありたいところ。
相手を罵倒するという「安易さ」に流れないように。

それとは別に。

たとえばツイッターの「字数が限られている」のは事実。
われわれの言語能力を考えれば少ない文字数で何事かを伝えられるかは相当にあやしく。

「わかりやすさ」のみが優先されることにもなりがちで。
そこで大切な何かを伝えようというのはそもそも「可能」なのかどうか。

むしろ「誤解を生みやすいメディア」であることを確認しよう。
そもそも「大事なこと」を話す時には言葉数が増えるのが普通でもあり。

「少ない文字数」は「さまざまな解釈」を生みやすいことも忘れずに。
さらには「それぞれの常識=前提」がぶつかり合うことも増え。

もちろん「相手の顔やその他の反応」を知ることができないのも確か。
せいぜい「支障のないところ」でやりとりするのが「関の山」ではないのか。

それぞれのメディアの「限界」を踏まえた上で「お付き合い」したいもの。
なぜならわれわれはその「限界」に操られやすい存在だから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする