退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「手紙から再構成された人生とよくある仕事の話あるいは『圧倒的に頼りない自分』が基本であること」について

2019-01-06 03:21:45 | Weblog
くもり。おだやか。

「鷗外歴史文學集 第十一巻」で「北条霞亭(下)」読了。

いろんな医者に診てもらいつつ病状は小康状態だったものの。
突然の悪化により亡くなった模様。

ただしその死因ははっきりとせず。
「脚気」だという見立てがあったのだけれど。

ほぼ「ベジタリアン」であった彼は塩分を控えてまで
自らの病気に対処していたというのに。

260通に及ぶ手紙を「時系列」に並べ直した挙句
さまざまな可能性を考慮し「ある人生の再現」を図った鷗外の情熱よ。

本シリーズもあとわずか。
明日また図書館であらたな一冊を借りてくる予定。

仕事終わりに若い女子の同僚の話に付き合う。

内容は「上司のダメさ」について。
年末からかなりストレスが溜まっていたよう。

ある時期以降それが異様に目立ってきたので大いに同意する。
要は「まともに仕事をしていない」ということ。

元々コミュニケーションに難のあるタイプで
それが現場にもかなり影響してきた次第。

「あんまりミスが多いので話の途中で席に戻っちゃいました」というのに笑う。
「上司のいない新年会」でも開いて彼女の憤懣を「癒す」べきか。

こちらもあれこれ相当キツイ助言をしたのだが「柳に風」。
もうひとりの若い女子も「どうしてわからないんでしょう」と言う。

彼女らに忠告しておく。
曰く「他人に自分と同じ『基準』を想定するのは無駄」と。

「自分なら舌を噛んで死んでるよ」と笑わせて。
「見たいものしか見ないこと」は同時に「見えないものは決して見えないこと」でもある。

「もって他山の石とすべし」とのみ。

それとは別に。

ある種の人々は「めんどくさいもの」はすべて「排除」する。
「現実」を自分の都合よく変えてしまう。

そうした「作業」に慣れてしまうと
ただでさえそのようにしがちな「貧弱な脳による惰性」を変えようがなくなり。

自らが「厄介な存在」であることを忘れ
すべての「原因」を「自分以外のもの」に求めることになり。

かくして「学習能力」が失われ。
「惰性に縛られた自動機械」になるという仕組みにご用心。

自分の判断能力などたかが知れている事実が身に沁みるためには
やはり「素敵なもの」に触れることしかない。

ただし「何が素敵なのか」についても自分の判断に頼るしかないので
それがうまくいくかどうかは残念ながら不明。

繰り返すができれば楽しく。
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