退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『他人の基準』を元に生きることの苦悩あるいは『物事の真偽』とそれがどうでもいい世界に追い込まれる理由」について

2019-01-21 02:13:38 | Weblog
雨のちくもりのち晴れ。吹く風が冷たい。

奥田祥子「『女性活躍』に翻弄される人々」を読む。

「上から規定される『平等』」と「ライフイベント」に揺さぶられ。
「女子の生き難さ」をあらためて。

もっともそれは男子も同様に。

結局「他人の基準を元に生きること」のあやうさが浮き彫りに。
かくも「好きに生きられない理由」を考えたい。

基本は「数字のみを求める企業の理不尽さ」か。
その言い草はまるで「プロレタリア文学」のようだけれど。

「好ましい環境」がなければ作るしかないのだと敢えて言っておく。
誰もが自動的に会社に就職して正社員になるのがいいわけでもなく。

わが国の「普通」は根本的に見直されるべきかも。
「流行」が時代によって異なることも同様に。

相手に「迷惑を掛けまいとすること」が
「コミュニケーション不足」を生むのはつまらないことだったり。

自らの欲望を満たした上で楽しく暮らすためには何が必要なのか。
それが「一番大事なこと」であるのを思い出そう。

そしてそれを妨げているものが何であるのかについても。

マル激を観る。

今回は「真偽確認」をするNGOを立ち上げた楊井人文がゲスト。
本職は弁護士だがこの「仕事」によって収入は減っているとのこと。

基本はいわゆる「フェイクニュース」に関する事実確認。
彼曰く「これですべてが解決するわけではない」と。

われわれは意図しようとしまいと「間違える存在」であること。
そのことをできるだけチェックしようという志が素敵。

もちろんその対象は「事実」についてのみ。
とはいえそれが微妙なケースもあるので「新たな実験」だと思えばいいかも。

すでに何度もウソを繰り返しそれがバレても平然としている輩はいる。
そうした中においてこの試みは「エラいなあ」と思うことしきり。

この「まっとうな仕事」を「最後の砦」として物事の「真偽」を量りたいところ。

「ホントかウソかはどうでもいい」と思っている人々がいる現在
そうした場所に「追い込まれた」のは何故かを考えよう。

そもそも誰もが「『本当』を生きたい」はず。
その実現を妨げたものに関する「カラクリ」に敏感でありたいもの。
コメント
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