本日は、世田谷美術館の「祈り・藤原新也」展に行ってきました。
私は、週に1回はクルマの運転をしないといけないので、車でどこかへ行かなくてはなりません。
その行き先の1つが世田谷美術館になっているため、企画展の度に世田谷美術館へ行っています。
だから、特に内容を選んで見にいっているわけではありません。
今回は写真展でした。
藤原新也という人は、1944年に門司市に生まれ、現在78歳で御健在。今も精力的に活動されているようです。
若いころはインドやアジア各地を旅して写真を撮ったそうで、最初の展示はインドのものになります。
まず最初から、インドの衝撃的な写真が並んでいました。
それは、死者を火葬する風景です。日本ではとても考えられないような情景です。
亡骸を燃やしガンジス川へ流す。人の身体は物体として燃える。燃え残った部分を投げる人。
燃やさずに流された遺体を食べる野犬。
砂の上に散らばっている人間の骨。
それらは、なんと衝撃的で残酷なものだと、最初は目を覆いたくなりましたが、そのうち不思議に、人間も自然界の動物なんだと感じました。
よくカモシカの骨やゾウの骨など、自然に息絶えた動物の骨が山や地面に無造作に残っている画像や映像を見ることがあります。
それに対して何も思わない。動物の生命とはそういうものだと思うだけです。
でも、自分たち「人間」に関しては、その亡骸を決して目にしてはいけないと感じ、ましてやその辺に散らばっているなんてことはあってはならないことだと思っています。
それから、それを見たくないということは、「死」自体を受け入れられない。
人間は自分たちが死ぬことをあってはならないことだと思い、そのことにはできるかぎり触れないように生きている。
でも、人間というのは、他の動物と同じく死ぬものなのだということに気づかされ、これが生物としての人間の姿なのだと感じる。
「寿命とは、切り花の限りある命のようなもの。」
この人の写真には、キャッチコピーのような言葉がついていて、それが一層写真の意味を引き立てます。
人間とは、植物と同じとは思っていたけど、私は「切り花」とは思っていなかった。根のある植物と思っていた。でも、根のない植物なのだ。それだけはかないものなんだと感じました。
インドの写真(50年くらい前のもの)に続いて、東日本大震災の写真や様々な写真が展示されており、感じること、思うこと、色々な刺激がたくさんありました。
とてもではないけど、このまま書き続けると夜が明けても書ききれそうもないので、今日はここまでにしておきます。
生きている人間たち、死んでいく人間たち、社会、街・群れ・・・・あまりにも色々なことがありました。
会場は、写真撮影が許可されていたので、幾つかの作品を撮影してきました。また後日ご紹介したいと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます