山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

国立ハンセン病資料館(3)

2018-02-06 23:57:03 | 旅行・街歩き
なかなか簡潔にまとめることができないのですが、とりあえず忘れないうちに記録しておこうと思います。

資料館を見学してわかったこと。

ハンセン病にかかってしまった人々は、「らい予防法」に基づき、警察等によって、全国各地にある療養所に隔離され、一般社会との往き来が禁止され、一生涯療養所の中で暮らすことになったそうです。

療養所の中には医者や看護婦などの健常者も少しはいますが、症状の軽い人々が、重い人を看護するというような形でした。患部に巻く包帯を洗ったり巻いたりする作業も患者たち自身の仕事でした。
また、療養所の中で病人たちが、農業をしたり、物を作ったり、豚を飼ったりして、生計をたてており、病気の身でありながら、過酷な労働をしなければなりませんでした。
そのため、さらに病気がひどくなります。ハンセン病は、とてもゆっくりと進むもので、この病気によってすぐに死に至るものではないそうですが、栄養が足りず不健康な生活を送ることによって衰弱し、別の病にかかったりして亡くなる人も多かったとのことです。

住まいは、男性は男性、女性は女性の宿舎があり、1つの部屋に何人もが寝るような共同生活でした。
そして、若い男女は、ハンセン病の人同士で結婚することはできましたが、住まいや食事などは、やはり男女別々の建物の中で生活し、夜、寝るときだけ、夫が妻のところに通っていくという風な通い婚であったそうです。女性の部屋には未婚の女性もいるので、そういう人と夫婦が同じ部屋に何人も寝るというような驚くべき状況でした。
そして、もし子供ができれば、その子がまたハンセン病になると考えられていたため、男性は断種(パイプカットでしょうか?)、そして、万が一女性が妊娠してしまった場合は、中絶してしまったそうです。そのため、療養所の中で子供が生まれて育つということは無かったそうです。

外の世界に出るという想定がないので、お金も一般世間の紙幣や硬貨ではなく、療養所の中だけで使う特殊なものが用意されていました。
また、下水も外の世界に流れないで、敷地内に溜めて浸透して行くようにしていました。
それも、外の世界に流すと、らい菌によって汚れるなどといって、一般の人がいやがったからだそそうです。

また、栗生療養所という、群馬のほうの療養所では、反抗的とされた患者が、独居房のような暗く狭い部屋に監禁されていたそうです。窓はわずかな明かりとりが高い所に細くあるだけで、冬でも暖房がなくてマイナス十数℃に冷え込むようなところで、3重の扉によって隔離されており、そこでは多くの患者が凍死してしまったそうです。そんな悲惨な待遇を受けていた人々もいました。

療養所には子供の患者もいるため、学校のようなものもあります。親から離れて暮らしているので、お雛さんや絵本なども用意されていたようです。

療養所の中の人々は、お互いに助け合い、また祭りをしたり文化的な行事などもして、コミュニティーを作って暮らしていました。外の世界に出て楽しむということもあり得ないわけなので、療養所の中ですべてが行われることになります。

その後、時代が流れ、ハンセン病の治療薬も開発され、この病気は治る病気となりましたが「らい予防法」が廃止されなかったので、療養所の中の暮らしはずっと続いていきました。

その後、患者の待遇は改善され、患者が患者の面倒をみるということはなくなったそうです。

そのような中で、音楽・手芸・絵画・陶芸・文学などの活動も生まれ、芸術作品も創作されています。

また、ハンセン病の人たち自身が人権問題に取り組み、活動を初めて、自分たちの意思を表明し、ついに「らい予防法」が廃止に至り、自由の身になったということです。

しかし、長年に続く隔離政策で故郷の地からは離れ暮らすうちに、家族とも離れ離れになり、いきなり一般世間に出て暮らすことも難しいでしょう。
引き続き、療養所であったこの地で暮らし続けている人もいるようです。

多磨全生園では、この場所を史跡として、過去の歴史を忘れぬように保存しているということです。(全国各地にあった療養所も同様にして残されているようです。)

敷地内を見学したかったのですが、夕方になってしまって少ししか見ることができませんでした。

(続く)

国立ハンセン病資料館(2)

2018-02-06 00:36:43 | 旅行・街歩き


入り口には、お遍路さんの親子の銅像がありました。
「ハンセン病」は、昔は「らい病」と言われていて、皮膚や末梢神経が「らい菌」によって侵され、斑紋ができ知覚麻痺も起き、侵された肉体に変形等が起きてしまい醜い姿となり、一生治らない病気とされていました。
ハンセン病になった人は、治療法もなかったので、遺伝的なものであるとか、信仰が足りない等という間違った認識のもとで、お遍路さんになって放浪するようなことも多かったようです。人目に触れずに家の中にひっそりとこもって暮らしている人もあったようです。



このようなハンセン病の人を放置しているのはよくないということで、政府によって昭和6年に「らい予防法」が施行されました。
らい病の感染力は非常に弱いもので、簡単に人から人に移るものではないそうです。
主に乳児がらい病の母親から大量の菌を浴びてしまい感染し、栄養状態などが悪く抵抗力がないとその後発病してしまいます。感染しても、すぐに発病するのではなく、何年も経ってから症状が出るそうです。

発病すると、治療法がなかったので、らい病を撲滅するには、らい菌を持った患者を、世間から隔離して感染しないようにするしかないとされました。
そこで、療養所にすべての「らい患者」を強制収容することになり、家族からも引き離して連れていかれました。
また親から子に移らないように、この法律によって、ハンセン病患者は子供を生まないように断種がされたそうです。

療養所に入った患者は、一生涯そこで暮らすことになります。全国の各所にありますが、多磨全生園もその1つでした。



国立ハンセン病資料館は、かつての療養所である「多磨全生園」の敷地の一角にあり、「ハンセン病療養所」についての状況が、時代を追って展示されていました。
それは、壮絶なものもあり、非人間的なしうちもあり、一方入所者たちのコミュニティーでささやかな楽しみや文化もありました。

今現在、ハンセン病は必ず治る病気で、全生園にハンセン病の治療中の人は居ないそうですが、今もこの地に完治している人が暮らしているということです。
昭和初期から続いていた「らい予防法」が平成8年に廃止された以後は、療養所の人々も、当然自由に出入りできますし、普通に暮らしていることはもちろんです。
しかし、完治したあとも後遺症が残ったり、他の疾患や老化等によって体調が悪い人もいるでしょう。
世間では、長年の隔離政策ゆえに、ハンセン病だった人に対して、今もまだ差別意識が残っているとのことです。

なんかまたもや支離滅裂になってしまい、肝心な資料館の展示について書いていませんが、次の記事で書きたいと思います。