日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

8月も終わります。初秋の風に吹かれて

2018年08月26日 | Weblog


 こんにちは。
 まだ暑い日が続いています。台風20号が去ったあとは、猛暑が身にこたえる週でした。台風が来ると、帰りの心配をして、翌朝は通勤の心配を…と、過ぎ去った後もあれこれ「疲れ」を感じさせるこのごろです。今週はとくに出向先も二度あり、疲れました。

 猛暑…猛暑ということもあって2年先の今頃は東京五輪が行なわれていることを思うと、競技の興味よりも出勤先から帰れるのかなということを考えてしまう週でもありました。いまでも、朝夕の電車通勤は満員の状態で窮屈さを感じているわけです。これに、さらに外国人が五輪に時期にはさらに混雑は増えてくることでしょう。いったい、何をどうしようよしているのか…。

 今週、東京五輪・パラピンピックの大会組織委が「サマータイム制」導入の検討を発表していました。朝2時間早く出て、2時間早く帰ってくる…、ということなのでしょう。しかし、思うほど簡単ではないのでしょう。
 夏の日照時間を考えて、混雑緩和や猛暑を避けるためにとの検討なのでしょうが、この安易さにあきれているのが実情です。これまで欧米70ヵ国で採用されてきたようですが、最近ではこれを撤廃する動きが多くなっているようです。
 何よりも働く人への負担が大きいよいわれています。夏時間のよって睡眠時間が増えるのではなく、少なくなり心臓への負担が大きい…という国内の学会から出されいることをみると「東京五輪」より、自分の生命です。まさに「ご都合」によって検討されているようにも見えます。


 日本の8月は「戦争を考える月」ということが毎年の行事だともいえます。とくに、広島・長崎を戦闘に各地でそれぞれの終戦をむかえる一ヵ月といってもいいと思います。新聞を読んでいたら「8月のジャーナリズム」ということが書かれいました。今年の関心は「平成最後の8月」ということだったようです。「年々かわっていくであろう日本の8月」をどう伝えていくのか問われる月でもあるようです。戦後73年もたつってくると、戦争を語る人も少なくなってきます。生の声で戦争を聞ける時代も長くはないとういうことです。そこで、それぞれの戦争に関する資料館などの役目が多くなってくるようです。

 とはいえ、戦争はある日突然起こるわけではないのでしょう。日々の生活のなかに、戦争という影ができるのではないかと思今う。その影をどう感じて伝えていくのでしょうか。一人ひとりに問いかける8月でもあるのでしょう。
 自分でできることを探すことも大事だと思います。
 本を読むこともその一つだともいえます。




■p150 一八七三年(明治六年)、征韓論をめぐって、政府内部は激しく対立し分裂しました。征韓論の「征韓」は朝鮮半島征伐の意味です。徳川幕府は鎖国政策をとっていましたが、日本と朝鮮はお互いに使節団を交換したり、長崎の出島、朝鮮の草梁(チュリアン)にかぎって、貿易を行いました。徳川時代は、日本と朝鮮の関係は、決して悪くありませんでした。

■p155 東京招魂社は、明治天皇の命令で戦って、戦没した人たちを、天皇の命令で合祀します。天皇に逆らって征討された西郷隆盛を、東京招魂社に祀ることはできません。西郷隆盛は、故郷の城山の地下に永眠しましたが、「西郷はひそかにイギリスの軍艦に乗って薩摩を逃れた」とか「西郷は生きのびて中国にいる」という英雄伝説が生れました。


■p163 私たちは戦争、内戦を問わず、その歴史を考える際に、どうして衝突の原因となった政治的主張の差であるとか、勝ち負けへの経過を戦史的図上演習の概念でとらえがちです。その裏には必ず実利的な経済問題があることをわざと見落とすか、問題にしたがりません。…(略)…。戦争の歴史はきれい事ではありません。戦争の裏には醜い欲望が息づいているのです。経済的理由を根底とした、国益と国営の経済摩擦が大義名分を振りかざした武力行使による解決という形で現れるのです靖国神社は戦争の根底にある経済的欲望を隠蔽し、作られた大義名分だけで戦争を考えさせる愛国心高揚装置だったのです。

■p195 首相が日本国憲法に違反して、靖国神社に公式参拝することは、見すごせない問題ですが、それ以前にも日本側の戦没者というだけで、神様に祀ること自体が、問題だと思います。国家が外国に派兵したり、開戦する理由や動機は決してきれい事ではないからです。その点をよく考えるためにも、韓国や中国と日本の歴史をしっかりと学ぶ必要があります。日本軍によって殺された朝鮮の農民は四万とも五万ともいわれており、とにかく農民軍死傷者数は膨大なものでした。

■p226 日本は「挑戦の独立と内政改革」を大義名分に、日清戦争を始めましたが、朝鮮内政改革はあくまでも建前でした。もともと日本政府は朝鮮の内政改革に関する確固たる方針がなく、反閔妃派の大院君を復活させただけでした。一八九五年(明治二八年)七月六日、閔妃側がクーデターを起こして、大院君と親日派を追放しました。甲申(カブシン)政変以来、日本政府に不信感を抱き嫌悪していた明成(ミョンソン)皇后(閔妃)と国王は、ロシア派になりました…。同年一〇月八日、新任の三浦悟楼公使は、公使館員たちと共謀してクーデターを起こし、日本守備隊の護衛のもとに大院君の王宮に侵入しました。このとき、三浦公使の同行者は俗に大陸浪人といわれた壮士(いわゆるゴロツキ)たちで、彼ら明成皇后を惨殺し、その死屍に石油をかけて焼却しました。(乙木事変)

■p240 戦局は絶望的で勝ち目はまったくありませんでしたが、六月二三日、政府は、国民義勇兵役法を公布して、一五歳以上六〇歳以下の男子、一七歳以上四〇歳以下の女子を国民義勇兵にすることにしました。本土決戦に備え、最後まで戦うことを決めたのです。一九四五年(昭和二〇年)七月二六日、イギリス・アメリカ・中国(中華民国政府)は、日本に対して、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏するよう勧告しました。日本がこの降伏勧告を拒否すると、アメリカは広島・長崎に原爆を投下し、ソ連も日本に宣戦布告をして参戦しました。日本はこれ以上戦争を続けることを諦め、八月一四日、ポツダム宣言を受諾しました。

■p292 靖国神社がある限り、「愛国心に燃えて国を護るために戦死したことは素晴らしいと思います」と解答しないと、高い評価は得られないと思います。「国家というものは、結局なんだかんだとうまいことをいって国民をおだてて、戦争をやらせるものだ。そんな国家より自分の人生や家族を大事にしなさい」という回答を教師はどう評価するのでしょうか?



 地下鉄東西線「九段下」武道館側からおりて坂を歩いていくと靖国通りの右手に大きな鳥居がある。そこがや靖国神社である。都会にこんな大きな神社がるとは驚いていた。すぐ近くには九段会館もある。数々の歴史の舞台になった通りでもあるのだろうと思う。

 8月にはこの神社を軍服姿の人たちがいることもある。首相の靖国公式参拝にアジアの国々が抗議していることもニュースになる季節でもある。ぼくは、なぜこうなってしまうのか、正直なところ本当のところはよく分からなかった。「アジアの国々が抗議をするほどこの神社にはどんな歴史があるのだろう…」と考えているくらいであった。今回読んだ『「靖国神社」問答』(山中恒著)を読んでその意味がわかったような気がした。つまり、神社そのものには、どこにでもある神社とは変わりなないのだが、その歴史的経過があまりにも多くのアジアの人たちを苦しめてきた原因になっていたことが少しずつわかってくるのである。明治から大正、昭和へと歴史の変遷のなかでその重みは国民の生命をものみこんでしまうほどの神社だったというのである。
 いつの時代にも支配者(権力者)の道具ととなるものがあるが、靖国神社はその中でも一級品なのだ思える。さらに、その果たした役割は多くの悲劇をつくったという事実が語られるなかで大きな存在だったということもわかる。

 おそるべき靖国神社である。二度と悲劇を招いてはいけない…、と思えば思うほどこの神社の存在価値を知る必要もあると思う。日本の近・現代の歴史は靖国神社を知れば知るほど理解できるのではないかと思うほどである。この本は、日本の戦争に突入して敗戦まで、軍人や市民を巻き込んだ歴史の入門書でもあるように思えた。いい本だな…と思う。



■p34 「死ぬまでに、四人に一人だが、何人に一人だがはガンになると言われているんだよ。昔の人はガンになる前に死んでいただけで、ガンが増えたのは寿命が延びた証拠なんだ。あなたが肝臓ガンになる可能性があるのと同じで、私のガンがどこかに転移して再発する可能性だってあるんだし、そのときはもうしかたがない。明日は明日で心配しようよ」

■124 思いもよらない展開にまず耳を疑い、それを事実として認識したあとは谷底に突き落とされたようなショックで頭が真っ白になっていました。

p145 それから、過去を悔やんでばかりの毎日です。あのときこういう選択をっしていたら生きていたのではないか、ああいいう行動をとらなければもう少し余命が延びたのではないか。後悔の種はあとからあとから湧いてきます。

p207 今でも妻には申し訳ないことをしたと思っているけれど、人にはその人の器量というものがあります。そのなかで精一杯やってきたのです。要するに人間が小さかったということ、それが自分の限界ということです。つまり、「俺は俺なりにやったんだぜ」ということです。



 毎日まいにちあとは残された命を生きていくだけだ…、と思っている。
 今年の夏は、猛暑で天気のことが気になる日々であった。とくに、天気と人間の気持ちはけっこう身近で、暑さが続いていると「まいったあ」と思う日々になってくる。こんなとき、倉嶋さんならどんなことを考えるのだろうかと思い、本棚の奥から引っ張りだした一冊である。

 購入日をみたら2004年4月と記されていた。14年前のぼくが48歳の時である。この年齢のときなにを思っていたのだろうと思いつつ読みはじめた本でもある。
 倉嶋さんの妻が子を授かった思ったら子宮外妊娠。手術での大量の輸血。その時の輸血によって肝臓ガンになってしまう。医者からの「末期ガン宣告」。妻への後悔ばかり多くなっていく日々…。そして死去。妻がいなくなったとき残ったのはたくさんの後悔ばかりの日々だったともある。そしてうつ病になってしまう。日々襲いくる自殺願望。
 これは、お天気おじさんで有名な倉嶋厚さんの手記でもある。
 やっぱり最愛の人を亡くした絶望感は誰にとっても大きいのだろうと思う。それでも「生きよ」とは誰も言わないし、言ってはくれない。そんな人生のなかでどうしていったらいいのか迷いの多い倉嶋さんの叫びでもあるのだろう。

 14年後の今、ぼくが「生きていればこそ」悲しみも苦しみもある。けれども、「生きていればこそ」新しい出会いの中で亡き人の良さも大きくなる…と思えることだろうか。
 とり合えずい今は、今のぼくがそう思えている。人生で大事なことは、とにかく健康であれ病気であれ、多くの人を送ってきたなかで、生きている自分があることをいま一度感謝するべきだし、それを支えてきてくれた人を思うことだろう。いずれ、ぼく自身も誰かに送ってもらうことなのだろうから…。
 と…、思っているのは勝手な憶測で現実はどうなることだろうと思っている。それでも、考えられるうちは、考え、行動していきたいと決めた一冊でもある。いつも思うのは、世間は冷たいよ…って。自分のことは誰も気にしてはいないのだから、せめて身内は支え合っていこう…と思う。
※『風と雲のことば辞典』倉嶋厚監修(講談社学術文庫)も併せていいと思う。




【新板橋】
 この駅は初めて降りる駅。きっと最初で最後の駅だろうと思う。
 こんな形で降りる駅ではなかたような気がした。齢60歳。調子の悪さを訴えて病院に行った。検査で大腸がんがみつかる。それから、入院、手術、抗がん剤へというながれだった。さすがに、気落ちした様子だった。それからも入退院の繰り返し…。最終的にホスピスでの暮らしを余儀なくされた。そして、3カ月あまりで亡くなった。2年前くらいからのことだった。

 30年ほど前に一緒の野球チームに所属していた。ピッチャーだった彼のボールをいつも眺めていた。チーム唯一のピッチャーで、彼の投げた球の良しあしで当日の試合結果がきまるようなチームだった。それでも、草のにおいがする季節から枯葉がぱらつく季節までシーズン中は休日となれば出かかていた。
 それから、時は流れ野球をチームとしてやるような人がいなくなった。そして解散。かれは仕事の責任者として職場をまとめていたようだった。しかし、そのやりかたがあまりにも強引で、いまでいうパワハラのようだった。職場では完全に浮いていた。それでも働いたのだった。役職定年になって、彼の権力がなくなる否や他の職場に異動願いを出した。

 お通夜から帰り、「人は何とも弱くてなさけないものだなー」と思った。それでも、家族があれば、家族のために頑張るしかないのだろう。
 とはいえ、他人の人生を曲げてしまうほどの保身はつらい現実が待っている。そんなことを日々やっていれば異動願いも仕方がないのだろう。少しずつぼくも、彼からの距離をおくようになった。
 そして、今日。昔のチームメイトが来ていればと…と思ったが誰もいなかった。みんなどこで何をしているのだろうか。それぞれの生き場で頑張っているんだろうか。会いたかった。上司としてではなく、野球チームの一員としてまた会いたいなあと思った彼の最期を一緒に送りたかった。
 とうとう永遠に会えなくなると何となく寂しい気がした。最期くらいは看取ってあげようと出かけたのが「新板橋」だった。もう、この駅には降りることもないだろうと思う。さようなら!…。



 8月も終わりですね。
 毎日、台風に悩まされた日々でもありました。なぜなら、最近の台風は豪雨がすごい。まさにバケツをひっくりかえしたような雨が集中的にふり、傘を持っていても役に立たないほど雨である。あっという間に、降った雨は土砂を崩し、人を水のなかに引きこんで大災害をつくる、という構図である。
 自然にかなうわけがないからただただ避難するだけである。自然に勝とうなどとはしょせん無理なことだということを身にしみた8月もである。

 久しく盆帰りもなく、都会で夏休みであった。知人はハワイだとかいっていたが…。世の中にはブルジョワもいるもんだなーと思った。そういえば、旅行なんてする気にもならないのは経済格差という言葉が示しているような現実だろうと思う。最近、読んだ記事も「健康格差」というものあるそうだ。

 駅のホームに立っていたら、遠くの空に白い雲がきれいでした。(上写真)遠くに見える入道雲が夏の終わりを知らせているように見えます。それぞれの猛烈な暑さのなかどんな夏だったのでしょうか。
 もうすぐ夏も終わりますねー。
 「キケンな暑さ」は少しずつ忘れられだろう。こんな夏でもやっぱり冬の寒さよりずっといいと思う。世間がどうのこうのいうより、自分にとってはどうかが大事な暑さでもあるように思う。暑くても、この季節のよさは誰よりも知っているように思うと、やっぱり夏が好きだ。
 ボチボチ、身辺整理もやっておきたいですね。お盆に行けなかった墓参りも行こうかと思う。それと、山るきも再開しようかと思案中です。

 今週はこの辺で…。
 読んでくれた人、ありがとうございました。