日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

「平成」だろうが「○×」だろうか歴史はつづくだけ。

2019年03月31日 | Weblog



 こんにちは。
 あちこちで桜が咲き始めました。寒さのなかでの花見風景も休日には散歩道でみかけます。
 空には、ヒバリやツバメが鳴き、気持ちよさそうに飛んでいました。地上では、人の出も多くみける多摩川の散歩道でもあります。気のはやい人たちは桜の木の下で宴会を始めている人もみることもあります。季節は春なのでしょうね。

 さて3月最後の日曜日です。昨日から「平成最後の○○…」という言葉がメディアで多く聞こえてきます。昭和が平成にかわったときは、なにかと騒がしい日々でしたが今回も同じように見えます。これで暮らしが良くなるとは思いませんが。
 むしろ4月から値上げが持っている状況のようだ。食糧品では明治、森永などの乳製品が上がり、家庭の台所食品であるコンソメ類など調味料の値上げは待っている。また人手不足を理由に外食なども値上げがある。国民年金の保険料も同じ。
 春がきて入学、引っ越しとお金のかかる季節。値上げはそれぞれの個人の生活を直撃する。こういう現実である。なにがめでたいもんか…。





 月末です。
 「これだけははずせない」と月初めに思っているわりには、いつも大ざっぱになってしまいます。そして、いつも「日々のまとめが大事だな」と猛省する月末です。今回ももれず、ざくうりとしたようになっています。それでも、読んでいるときは楽しく、もう一人の親友の話を聞いているように読んでいます。時間があいている通勤途中の座席で、あるいは眠り薬ではありませんが寝床で(いつの間にかねこんでいますが)読むことが多いようです。読書の極意は、じっとがまん…しかありません。読んでいることがチンプンカンプンであったえいすることもありますが、がまんを通り過ぎると、「こんなことがあるのか。こういうことはあるよね…」と思うことが多々あります。そんなことを考えながら今月も終わったようです。

 読みたい本はあれど、最近は本がやたらと高くて困ってしまいます。ですから、現実には文庫本になるまで待つ日々が多くなりました。本が売れなくなった、読まれなくなった…といいますが本の高騰もあるように思えます。

 さて、今月は、高い値段をみながら文庫本になった本ばかり読んでいました。
 『コンビニ人間』や『毛沢東の大飢饉』は興味はあったのですが、新刊は手がでないほど高いのでずーっと待っていた本でした。図書館で借りて読むときもあるのですが、時間的な制約もありなかなか思うようになりません。いつでも読めるように手元に積んでおくのがいちばんです。




p73 メキシコなんて治安が悪くて人が死にまくってじゃない。それでもお葬式はお祭りなのかね。悲しみは悲しみとして、お祭りなんだよ、とダニエルは言った。

p91 隣にいる勝行は義理の父にあたる。義理、という言葉が親は兄弟に接続されることだけでおもしろいとダニエルは思った。

p136 いったいこのどうでもよいけれども無視できない岩島先生のエピソードを、いつ誰に伝えればいいのか。別にそんなに誰かに伝えたいわけではないけれど、そのどううでもよさゆえにいつか誰かに伝えなければ、これもまた自分の記憶の彼方に忘れ去られて二度と掘り返せなくなるかもしれないと、思う端から岩島先生はどうでもよさに浸食されていく。自分もまた誰かのどうでもよい記憶としてどこかで存在していて、やがて忘れ去られるものと思われている。

 p215 人の死によって日常についたどこか妙な起状を年長者たちは乗りこなしていて、人と死に慣れない若い人は少し遠い場所で状況を持て余している。(解説・津村記久子)



 祖父の葬儀に集まった人たちの物語をかく。家族、親族、友だちが入れ替わりながらお焼香にやってくる。祖父の葬儀場を中心にそれぞれの「いままで生きてきたこと」を語る。「山あいのけむり」重兼芳子著を思い出す。火葬場の仕事を通じて静かに物語が展開される。
「生きる」ということはいったいどういうことなのだろうという日常を語り合う。例えば、ニュースになる殺人事件が起きても自分とは遠い話である。殺人の死は身近なものではない。けれでも、現実は殺人がなくとも、日々は殺人以上に悩んで生きている世の中がある。その日々をたんたんと生きることを覚えさえてくれる。
ぼく自身、葬儀に出席していたときのことを思い出した。地方にちらばった親族が集まる唯一の場として集まる儀式でもある。それは、人が生きている証明を語り合う場所でもあるように思う。毎日、人の死と向き合うことはないことで、今のここにいる自分自身をちょっと深く考えさせる一日となるようだ。「死んでいない者」にこめられた「死」にたいするそれぞれの思いを語り合う人々を描いた小説だった。




p26 なぜコンビニエンスストアではないといけないか、普通の就職先ではだめなのか、私にはわからなかった。ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外でどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった。

p47 人手不足のコンビニは、「可もなく不可もなく、とにかく店員として店に存在する」ということがとても喜ばれることがる。私は泉さんや菅原さんに比べると優秀な店員ではないが、無遅刻無欠勤でとにかく毎日くるということだけでは誰にも負けないため、良い部品として扱われてきた。

p77 ビニール袋の中に、そっと卵を入れる。昨日売ったのと同じ、けれでも違う卵を入れる。「お客様」は、昨日入れたのと同じビニールに同じ箸を入れて同じ小銭を受け取って、同じ朝を微笑んでいる。

p84 あ。私、異物になっている。ぼんやりと私は思った。店を辞めさせられた白羽さんの姿が浮かぶ。次は私の番なのだろうか。正常な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく。

 p105 「そりゃあ、そうですよ。処女のまま中古になった女がいい歳をしてコンビニのアルバイトしているより、男と同棲でもしてくれたほうがずっとまともだって妹さんも思っているよ」


 学生の時のアルバイトから就職活動もせず、今までアルバイトとして働いている。見渡せば周りは、結婚、子どもを育てる主婦となっている人。会話のなかかに、少しのあせりを感じながらその理由を考えている。すでに妹は子育ての真最中でもある。姉でもある主人公のまわりで起きるできごとが展開されていく。


 世の中にはいろいろな小説があるなー、と感心してしまう。だから小説はおもしろいのかもしれない。「コンビニ人間」という小説は題名通りコンビニを舞台としたもの。これは、いまいちばんあたらしい画期的な大発明のような舞台設定のものだろうと思う。
 コンビニといえば、24時間営業が当たり前になっているが、最近では24時間営業にするにも、人材が足りない状況で24時間営業を取りやめたところもある。現実には24時間営業であれば最低でも2交替あるいは、3交替制で体制が必要になってくる。それには、労働者を雇わなければならない。しかし、労働力人口が年々減っていて人手不足で雇用が追いつかない実態となっているのが現実だ(「出入国管理法」を改正して外国人労働者し人手不足を解消しようとしている)。

 主人公の「私」。学生時代からアルバイトの続きを30歳すぎまでやっている。
 できれば、人手不足、賃金、お客とのトラブルなどを避けて生きていきたいようだ。自分の生きていくうえで「わずらわしさ」というものを一切削りりとって生きていければ…とアルバイトを始めたのだろう。アルバイトの人たちが口には出さないが、それぞれの今の場所にいることへのためらいをもって働いている。現実はその愚痴そのものであるのだろう。それさえも、うまくコントロールしようとする「私」。今の人たちはこんな思いで働いているのだろうかと思ってしまう。でも、これは、周囲を見渡せば「ある」ことのようになっているようだ。だから、ちょっとの会話でも避けたいような人が多いようにも思える。生き場の失った人たちがとうとう追い込まれた中で、身の安全を確保するためにとった方法が主人公の「私」の姿なのかもしれない。ここには、低賃金、人手不足、正規社員、派遣労働など、いまかかえていることさえ消してしまおうとする自我があるのかもしれない。裏をかえせば、「追い詰められた」と思わないような価値観があるのだろうと思う。だから、その結果一部に事件を起こした人間が出てきても「無関心」を装うっていられるかもしれない。つくられた「異物」として片づけてしまっている。

 今後、外国人などの労働者が一緒に働くような時代になってくるなか「異物」としての関係ということだけは避けたいものだ。職場のなかにはいろいろな人がいることは理解するなかで、どう協同していくのか考えさせられた一冊でした。主人公のような人が増える世の中になってきたのかなあーと思う。

※ちなみに『コンビニ人間』という本ですが文庫されて100万部を突破したそうです。いかに、この本が、現在のコンビニ店員以外の心境を代表しているかわかるような本です。個人的にはあまり好きではありません。




pⅲ 病気になって感じたこと、考えたこと。勉強したこと、好奇心を掻き立てられたこと。感謝したこと、憤ったこと。医療に携わる人にわかってほしいこと、健康な人にもわかってごしいこと。

p42 臨床研究とはもちろん綿密な計画がなかされ、倫理的にも患者の同意など諸権利が守られる。そして、その成果は今の患者である私たちを大きく助けてくれている。しかし、sこには「死亡」という形で足跡を残す多くの患者が存在する冷厳な現実もまた知ることになった。

p68 薬物は癌細胞、感染した細胞にも作用を及ぼします。望まれるは、正常な細胞に何の作用も及ぼさず、感染した細胞だけ殺す「魔法弾丸」です。

p90 私自身~辛いのは「倦怠感」「重苦しさ」「身の置き場の無さ」など、どう言っていいかわからない。やる気が失われる…家事をなかなかはじめられない。

p104 私たちがん患者も同じだ。がんの勢いに負けないために、化学療法に耐えるために、手術に備えるために、食べなけばならない。

p120 活字やメディアの世界で「死の象徴」とされるものに何が選ばれているのか? 健康な時は意識したことがなかった。しかし、いま映画やドラマの世界で「死の象徴」となっている病気はまぎれもなく「膵臓がん」である。

p153 治療中のがんばる患者、よき家庭人、よき社会人、そのずべてを休める場所として、また休んでから戻っていくときにエネルギーをチャージしてくれるところとして、いま日本に在ってくれることにとても感謝する(マギーズ東京で)

p177 そのときに、誰もが生きにくい世の中だからひときわ生きにくい人たちを産まないということではなくなんとして多くの人が生きやすい社会をつくれないか? と思う。これこそ「きれいごと」と批判を受けると思うが、それでも考えてみたい。

p189 後悔はしない。これまでも目の前の船があれば、目標に到達できるかどうかはわからなくても乗ってみる、という生き方をしようとした。乗ってみなければ見えない風景がある。予想外の場所にも立ち寄れる。船を漕ぐことが人生なのだと思う。

p196 何だが、次は自分だと思うというふうに思うかもしれない。彼女の元気だったことを思い出して辛くなるとか、まあ、いろいろあるけれど、やはり死が怖かったのだ。死を思い出させる花や線香の匂いや黒い服や、そのことがすべて怖かったのだと思う。

p204 死はmこの本の中でも何回か書いてきたように、がんを告知された瞬間から、すぐそこにある。もちろん誰の生にも、死は必ず訪れる。人はただそれを普段はあまり意識せずに生きているだけなのかもしれない。死は誰にでも平等に訪れる。それがいつかは差があるにしても、必ず誰にでも死は訪れる。

p218 怖くて考えなくて、消えてほしい。その存在が消えてほしい。けれども、そこにあるまま、しして受け入れることができないまま、それでいいのではないかと思って、最後まで生きるしかなのだろうか。~人は死ぬまで生き続ける。だから死を受け入れてから死ぬのではなく、ただ死ぬまで生きればいいんだ。

 p225 日本はこれからよりいっそう「単身社会」が進んでいく。一方的に発信するだけでなくて、自分の思いを受信し共感してくれる人たちとわかりあって支援をうけられる社会になればいい。



 最近「がん」という言葉を聞く日が多くなってきました。人の一生は「生老病死」だといいます。人間が避けてとおれない四苦のなかで生きているということを強く感じるようになってきました。
 できれば避けて(考えず)生きていきたいと思うが現実はそうもいかないようです。今、がんは2人に1人の割合で増えているとききます。いったい、どうしてがんになってしまうのか? 疑問はいつも頭のすみにありました。
 それというのも、ここ何年かのあいだに親族や知人の葬儀に出席した際に亡くなられた原因が「がん」ということを聞きます。こうした「同年代の人の死」について遠い未来のことではないのだろうとつくずく考える日々になってきた、ということも事実なのだろうといえるような日々でもあります。
 今月読んだ『〈いのち〉とがん』坂井律子著(岩波新書)は「すい臓がん」に罹った本人からのこれまでの報告のような本。がんの中でもいちばん難しいといわれています。
 この本は、これまでの経験を日々の記録として書かれています。
 読み終えて、生きている間だけでも考えることとして大事にしたいことを伝えている筆者の思いがよかった。




 1958~1962年、中国・毛沢東は中国共産党「大躍進」の下、15年以内にイギリスを追い越すという狂気の沙汰の計画が始まる。ソ連の工業中心から農業と工業の「二本足で歩く」発展をめざした。人々はユートピアを求めて共産主義社会をめざす「人民公社」に組み込まれた。
 その時代の為政者の犠牲者になっていく人々の死をあらゆる場面から調査した一冊。
 この迫力には感心するばかりであった。
 そして、結果として「人災」であることがわかってくる。なんとも人間とは恐ろしいことかと考えさせられる本だった。



【平成であろうがなかろうが、花は咲く】
 今年も桜が満開に咲く休日。ゆっくり近所の公園に散歩に行くと、多くの花見の人がいました。こうしてみていると、桜の花を眺めては「自然の力はすごいもんだなあーと」思います。冬の間は枯れているように休眠をしているかと思うと、春には一気に花も実もある美しさを平等に見せてくれます。ぼくもとりあえず、缶コーヒーでも買って行ってみました。公園では咲く花の美しさを見せてくれていました。

 そういえば、3年ほどまえだろうかなあ、ぼくが定年前の時代。社内の人とこの公園で花見をしたことを思い出しました。それまで、何人かで自分の近所の花見のできるところを探して毎年花見をやろうと約束したものでした。約束通り横浜にも行ったこともありました。宴も盛り上がり、帰りが深夜になった経験もありました。そして今、その約束もいつのまにか解消されてしまい、現在に至っています。せめて、家族でも思いますがねー。

 ちゃんと自然は花を咲かせる約束をしてくれます。それにくらべて、人間はなんとも頼りなく、心もとなく、そのうえ変わりやすいものだろうかと思います。今は、その人たちはどこでどうしているのかも不明です。そんなわけで、今年は、人の花見を見に来ている。ここにきている人の中にも、「来年もしようね…」と約束して終わったところも多かったのかもしれません。
 「人の心と、春の天気」変わりやすいですねー。人と人との関係が自然とのつきあいことよりはるかに難しいか、いまさらのように思う春です。
 せめて変わってほしくない、花の咲く木々、電車の時刻表。それに、自分の健康くらいだろうか。自分に約束できる日々が来月からもつづくといいと思いますが、どうでしょうか。



 「平成最後の…」ということをよく聞いた3月だった。それもそのはず、明日新年号を発表するそうだ。新年号であろうとなかろうと、生活はちっともよくなるわかではあるまい。逆に値上げは続く(いつの間にか強引にと思うほど)。それらと付きあう年金暮らしの人間としてはつらい。人手不足もあるのだろうが、こちらは年金不足でもある。外国人の労働者を雇用するこよがこれまで以上に解禁される4月。そのことによって、私たちの生活が楽になるわけではあるまい。今まで読んいた新聞も値上げを伝えてきた。

 さて新年度とはいえ、新企画を考えていません。続けていくうちに新しいものを見つけてはチャレンジしていくようにしていけたらと思っています。

 春とはいえまだ寒い日があるように、ますます人の心と懐が寒いことに気が重い新年度となりそうだ。「コンビニ人間」を読んで、ますます孤立する人間関係がつくられていくような気がする。高年齢の引きこもりがニュースになっているように、孤立化は進んでいる。それも40代から50代と働き盛りが増えつつあるとのこと。こんな社会になっているのだから、男女の出会いも減少するわけである。さらには、少子化も当然かもしれない。平成から新元号になってもこの解決策はいまだない。あるのは、企業の働き方改革での誠意ある実践であるのかもしれない。本当にやりかやらないか、今後を監視していくことしかない。労働組合の役目は大事だ。

 少しでも解決すべく頑張ってほしいもの。政治の役目は大きくなっている!!。しかし無投票の議員が増えつつあるとの現実も悲しいこと。そんな思いがほんとうに現実になるのはいつになることか。来月は統一選挙の月でもある。政治をかえる一歩になる月にしたいものだ。「新元号」ではなんの解決策にもなりはしない。

 まあ、のんびりいきたいと思います。『マイペース』がこれまでも、これからも私の一番の行動の指針のようになっていきます。


 自分自身でしかできないペースをさがしてはいくしかありません。それが壊れた時が病気になるときだろうと確信しています。4月。新しいスタートでもなく、これかでも、これからも同じスタートです。

来月からは「働き方改革」ってえのを考えていこうと思案中です。そして、山歩きでも始めようかとも…。

 読んでくれた人、ありがとうございました。

 

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