こんにちは。
ひごとに涼しくなってきました。街路地で鳴く虫たちもいちだんと大きく聞こえるような気がします。雨あり、風あり、ときどき雨のなかで季節は冬に向かっているようです。木々の葉も紅葉しては落ち葉になっていっています。
新型コロナ感染も、報道などをみると日ごとに少なくなっていることがわかります。本当にそうなのか、そうでないのか? 心配なとことはあります。
観戦者の数字は単なる数字ではなく、ひとつひとつの数字のなかにはいろいろな物語があるのでしょうから複雑です。多かろうと少なかろうと、一つひとつの中には感染者の苦労があるのでしょう。それが、どんなものなのかもっと報道してほしい気がします。季節は、寒くなると乾燥してくることでもあるのだろうし「第6波」がないということは絶対になくはありません。
季節は、少しずつ寒くなってきました。季節の変わり目は「老い」にとってはいちばんきつい時になってきたように思えます。事実、体の節々が天気予報よりも敏感に天気を予測させてくれるようになっていました。
私の場合、雨が降ろうとしていると、体の節々が痛みが増してきます。さらには気持ちが落ち込むような時が多くなってきたように思えます。今週の忙しさから、週末には体がグッタリとしていました。こんなときは、これまで通り散歩にもでるにもしばらく時間がかかるようになってくるような時もあります。
「これは病気の前ぶれかなー」と思えることもあります。それでも、ゆっくり、自分のペースで動き始めると、じょじょにいつもの動きがよみがえってくることがわかります。
とはいえ、寄る年波には勝てません。いずれ、自分のからだが老いによって動かなくなるのでしょうか。そのときのために「介護保険」はあるのはわかりますが、できれば利用したくはないのでしょう。「自分は大丈夫」と言いきかせても老いは着実にすすんでいるだなーと思います。
記憶もさだかでなくなってくるのでしょうか。
いずれにせよ、生き物はいつか終わるものです。それが、生老病死のなかでどうなっていくのか、「死神」ぞのみ知っていることなのでしょうか。しかし、死神だって好きでそんな名前があったのではにのでしょう。
今週亡くなった柳家小三治さんの落語に「死神」というがあります。家にかえれば妻から金の催促をされ、うまくいかない男が死んでしまおうとしていた時、ひょんなことから死神と知り合いになる。その死神は、男に人の命には寿命がることをいう。死神は男が死んでしまう前に一つの仕事を紹介します。その、仕事というのは、病にふせっている人の病気をなおすことでした。その仕事によって男、一夜にして大金を手にいれます。その結果、大金をもとに夢のような贅沢な生活を送ることができます。あるとき、仕事をすべく病人の枕元にいた死神は仕事を紹介してくれた死神でした。その病人は寿命がつきるはずであったものを、男の策略によって直ります。ところが、死神は、怒ってしまいます。
男は、大金をもらいさらに自分の寿命をもっと長くしたいという欲求がでてきました。しかし、これまでの贅沢によって、自分の寿命がわかるローソクの長さがいまにも消えそうな、小さな炎をあげていた自分のローソクをみてぼう然とします。
自分の人生を不相応な形で手元においても、その人の人生ではないのですから後悔ばかり残るという話なのでしょうか。生命には、順番があって、いずれ誰かが消えていき、その代わりに誰かが誕生する・・・という繰り返しです。さらにいえば、自分の命は誰がの命が削られて、誰かの命は自分の命を削っているようなところあるのだろうと思います。
それに逆らっているということは、本来の命の大切さ(?)が消えていくようにも思えます。
病気であれ、事故であれ、寿命であれ、その人の人生最期に思うことは何でしょうか。ただ、突然できあがるものではないのでしょう。一夜にしてできるものでもないのでしょうか。落語の「死神」にはそんな戒めのような噺だと思います。
寒くなってきました。
2カ月ぶりの散髪屋さんからの帰り道は、雨模様でした。傘をさす姿も雨の冷たさと一緒になんとなく寒さを避けるような足どりに写ります。
文房具屋さんには来年のカレンダーやら手帳などもありました。いよいよ今年も年末にむかって突き進んでいくように見えます。
アルバイトという雇用形態も来月をもって更新になるのでしょうか。不安定な日々です。でも65歳すぎての雇用ですから仕方がないのでしょうか。少しずつ仕事からも離れる計画も必要なのかもしれません。
そして、衆議院が解散しました。来週には「告示」がって月末には「投票」の予定です。コロナ禍のなかどうなるのか思っていましたが、感染者数も少なって、ここで一気に与党が賭けにでたような感じがします。
とはいえ、あいかわらずのばらまき政策というか、うまいことを言って政権維持を続けていくような様子でもあります。一つに「分配と成長」という岸田首相が所信表明ではえらくいいことを言っていました。ところが翌日には「成長があって分配」になっていました。まったく、いいことを言っていても信じられない状況は、昔も今も同じようです。
ルソーの「社会契約論」に「イギリス人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙するあいだだけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何ものでもなくなる。自由であるこの短い期間に、彼らが自由をどう用いているかを見れば、自由を失うのも当然と思われる。」ということを思い出します。選挙期間中は、国民に深々と頭をさげる国会議員がいざ当選してしまうと、国民の声など無視して次々に法案をつくって、税金を使っていくこれまでのことを思えば、「納得」の名言だと思います。事実、これまでの報道っされてきた「コロナ対策」「桜をみる会」「森友問題」「公文書改ざん」などは野党に一つも説明していません。けっきょく、本当のところは「やぶの中」状態です。これでは、本当に国民の税金の使い道が不明になっていくのも時間の問題でしょうか。
まさに、こうなならいために真剣に有権者の一票を考える時間になればと思います。
10月も終わりの声が大きくなってくると、仕事も忙しくなってきます。
来週は、月刊誌の締め切りもあり、週末にはマンションの総会もあります。なんとも疲れる週になりそうです。それでも、今月で理事もおわりホッとしています。
ほとんど管理会社まかせの理事会でもありました。本当のところこれでは、あまりいい理事会とはいえないのは反省するところです。なにか、引き継ぎに残せるテーマをさがして終わりにしようとしたいものです。
今週はこんなところで失礼します。
読んでくれた人、ありがとうございました。