日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

はやいと思いつつ・・・2月が終わりました・・・

2021年02月28日 | Weblog

 こんにちは。
 寒さはまだまだ続いています。ときどき温かさがあると思うと花粉の季節でもあるので、温かさがうれしいのですが、一方では花粉症の季節となり、やや不安な季節でもあります。そしてコロナ禍のなか、クシャミは肩身のせまい通勤電車の中です。桜でも種類によっては満開で咲き始めている木もあります。
 多摩川の散歩の途中、ヒバリの声もきくことがありました。少しずつ春が近づいているのでしょうか。

 さて今週は「緊急事態宣言解除」のニュースを多くききました。それにしても、宣言解除をしても商店などの自粛などをやることには変わりはないのですから、あわてて解除をすることもないのではと思います。解除すれば、東京五輪もやりやすくなるとは思えますが、その一方で感染拡大の不安は消えないのでしょう。事実、感染者の数はあるのですから「油断」は禁物ではないかと思います。


 今月は「読書週間」でもないのに結構本を読んでいました。こんなことはめずらしいことでしょう。やはりコロナ禍のなかで出かけることがなくなった分、本で紛らわしているのでしょうか・・・。
 休日、本屋さんに立ち寄ることが多いのですがこれまで以上に混んでいます。これまで並んだこともなかったのにですが、最近では並んでいることが多い日々です。とはいえ、本が高いですねー。こうなると、どうしても、文庫本になるのを待って買う習慣になっています。だから、負け惜しみではありませんが、〇〇賞作品とかはあまり興味がなくなったように思えます。
 これからどれだけの本が読めるかはわかりませんが、できるだぇ近くに本がある生活は持ちたいとおもっています。
 さて今月は、コロナ禍でしょうか読む本がたくさんありました。


 山形の田舎から出てきて、小説家になるまでどれほどの本を読んで調べたのだろうかという気がする。一冊の本を書き上げるために多くの本を資料として求め、調べ分析して小説の一説に入れていく作業をどれおほどやったのだろうということを考えてしまった。気がつけば、13万冊という膨大な本が自分の身の周りに集まってきてしまった・・・というお話なのだろう。
 正直「本は読まなくても死なない」。けれでも、人生を一歩楽しくしてくれる道具であることを気づかさせてくれた一冊だったと思う。

p98 いわばこれは、僕と本との新婚旅行なんです(笑)。こうして一回撫で回してやると、やっと自分の本になったという気がする。本も他人行儀じゃなくて、僕に向かって轟いてくれるようになるんですね・・・。

p125 こうやって、本が人の手から手へ渡っていくとおもしろいことがいろいろ起りますね。本はそのたび新しい読者を迎えて生き返る。いい本というのは、寿命がとっても長い。繰り返し繰り返し、集められたり、散ったりしながらそのたびのその人の文脈の中に組み込まれていく。いろんな知恵が、本という形に纏められ、逆にこんどは人間がそれをうまく次世代に伝えていく道具となる。

p135 少し前までは、見たこと聞いたこと面白いことを人に話したいという、人間が本来持っている欲求を素直に出すこができる状況と時間があったんですね。いまはそれをテレビが代行しているようなところがあります。

p137 日本の学校教育は、どこかで根本的に間違ったんじゃないでしょうか。むずかしいことばかありやらせ、文章を読む、書くということを嫌いにさせているんじゃないか。日本語に対する抵抗感を知らないうちに植えつけられているのではないか。

p176 いっくり読みたいときはゆっくり読める。あるいは、この先どうなるのかと心が急ぐ時は、どんどんページを繰っていく。これは電子ブックにはないんです。「ページ風を立てる」という言葉がありますが、これは電子ブックはどうやってもできない。特に小説にいたっては流れというものがあります。それは電子ブックだと見えないんですね。


 「絶滅危惧個人商店」という題名に興味を持ち読んだ一冊である。
 この本がおもしろいと思うのは、絶滅危惧にちかいほどの商店がなぜ今まで生き残っているのかを店の人に聞いてレポートしていることだった。近所には近くで便利なコンビニや専門店のチェーン店ができているにも関わらずである。本を読んでみれば、多くの人たちが昭和の人たちでお店の地域の人たちとの関わりが商売のなかで語られている。その話を聞いて思い浮かぶのは「信頼感」ということなのだろうと思う。企業で言えば「信用」だろうか。
 私の利用する散髪屋さんもその意味においては「信用」は大きい。なぜなら、坐っているだけで安心して任せておけるということだろう。それは一朝一夕にできたものではない、ということもあるのだろう。
 商売はそんなことが大事だと思わせる。
 今年からNHK大河ドラマで渋沢栄一も物語が放送されている。その渋沢栄一も商売を信用をもとに大きくしていったとのだろう。そんなことを思うと、これまで培ってきた信用【信頼)をおけるお店がどれだけあるのだろうと思う。

p100 「今、デジタルだけど、(自分たちの世代は)そんなものねー、時代ね、鉱石ラジオに『お~、聞こえる、聞こえる』ってびっくりしたんだから。生業ちゅうのは変化していくてもんだ。


 
p29 彼らは青春のやり場を求めている。健康な肉体と精神を持っていればいりほど、よごれた社会生活は見ていられなくなるだろう。彼らのけがれない心と身をまもともぶつけていっても悔いのない、青年の場は、今や日本のどこを捜しても見当たらないと、彼らは考え、最後の安住地を求めて行くのではないだろうか。戦後、登山人口が急増していく原因は、とごれた社会生活への不満が大きな要因をなしていると私は考える。殺人、強盗、汚職、誘かい、交通地獄、悲惨きわまる大量殺人事件、それらの社会不安に輪をかけたように、テレビからピストルの音と女の悲鳴がとびだしてくる。物価問題にしろ、住宅問題にしろ、なにひとつとして不安でないものはない。

p34 冬山の天気は変わりやすいですね、といった人がいる。これはあまりに適切なことばとはいえない。冬山の天気は悪い方に安定しているいったほうがいい。冬山は冬中ずっと天気が悪いのだ。人間が近づくことを夏まで許されないものだと考えれば間違いない。

p40 国電の窓からコブシが見える。吉祥寺の本宿小学校のコブシ、阿佐ヶ谷のプールの近くのコブシ、中野駅の北高台に見えるコブシなど、毎年のおなじみが最近、植えられるものより、切られていくものの方が多い。淋しいかぎりである。

p172 渋谷蓉子さんは大井川町の出身で女子美大を卒業したばかりで目下花嫁修業中であるが、大学時代から山が好きで、特に南アルプスについて隅から隅まで熟知しているということであった。

p254 「山へ持って行った弁当の残りはお土産として持ち帰って来い」というものだった。つまり、山ではなかなることがあるかもしれないから、弁当だけは離さず、そして常に余裕を以って持参せよということだった。


 これまでも、これからもあまり話題にのらない「ウンコ」の話である。毎日、排泄を繰り返し生活していることには暗黙の了解なのである。そして、ときに自分の健康状態を考える目に見える大事なものだということも忘れている日々でもある。
 私の子どもの頃、農家にとってはウンコは捨てるのではなく肥料として畑にまいたものだった。化学肥料はお金を出せなければならず、お金もなかったのだろうと思う。畑に肥料してしてある形を眺めているだが、その肥料で育てられた野菜が朝晩のおかずになってしまうと、肥料のことなど忘れて食べていたと思う。

 最近では、ウンコが身近になっている時は一年の一度の健康診断のとき検便として提出するときぐらいだろう。自分の健康をいちはやく確認できるはずのものがどうして今日までそれほど話題にならなかったのだろうとこの本を読むと納得することができたように思う。要は、生活の形が変わったからだろうか。さらには、トイレ産業があまりにもトイレをきれいなものだという幻想をうえつけ、そのことによって利益をえるようになったという企業ぐるみの政策があるように思う。つまり「きれいは儲かる」といことなのだと。
 『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか』はそのこと詳しく書いている。
 企業の利益誘導の政策がどれほど、ウンコを汚いものしてしまったかということがわかるような一冊だと思う。

p9 子どものにとって、ウンコは一番初めに会う、いちばん身近な「自分」であり、「他者」である。きっと、その「身近さ」となるのは「得体の知れなさ」が、子どもを「ウンコ」に惹きつけてやまないのではないかと考える。

p11 ウンコは汚物に生れるのではない。汚物になるのだ、と。そして現在、もはやウンコは汚物とさえ意識される間もなく、一瞬で水に流され、次の瞬間には目の前から見えなくなり、その存在はまるで無かったかのように、忘れられてしまう。

p21 それでは、ウンコはいつから、誰によって、なぜ汚い物と認識されるようになったのだろうか。ウンコは古今東西、昔から今に至るまでずっと変わらず汚い物ではないのだとすれば、いったいどのようなプロセスと歴史的変遷を経て、「汚物」へと変容したのだろうか。なぜウンコは汚物と呼ばれるようになったのか、どういう点で汚れているのか――。

p36 考えてみると当たり前のことであるが、ウンコをすることは古今東西、老若男女、富める人も貧しい人も、生きている以上「必ずする」行為である。つまり、ウンコをすることは世界共通なのである。・・・一方、それを受けとめるトイレはここ東西、老若男女その形状も歴史も位置づけも様々である。

p69 「肥」を「育」と見るということは、つまるところ「いのち」を育むものとして、人びとがウンコの認識していたということになるだろう。「有用」であるというばかりではなく、生きとし生けるもののつながり、そして生と死とつばぐひとつの「環」の中にウンコを位置づける耕す人びとの考え方が「単なる物とそてだけでなく精神的な係わりの深さ」

p138 ・・・世の中に水洗トイレが普及し、便所の臭いが身近なものでなくなっていく時代と連動しているように思えてならない。生きることから「におい」が削ぎと落されていく過程で、他人や動物、ついには自分の「におい」まで私たちはいつの間にか嫌悪感を抱くようになり、「消臭」や「無臭」を追い求める現代社会では、それが過度ともいえる様相を呈している。

p168 かつて糞尿を下肥として利用していた時代と比べて、私たちが食べるもの、トイレや台所から下水道に流すものの中には、様々な物資が混入するようになった。

p190 一九七三年と二〇二〇年二起きた二度のトイレットペーパー騒動には共通点もあったが、私たちはその決定的な相違点も目のあたりにした。

p193 しかし、その歴史を振り返ると、ウンコは中世には「畏怖」され、「信仰」され、近世、近代には「重宝」され、「売買」され「利用」され、近代、現代には「汚物」と名づけられ「処理」され「嫌悪」され、その結果「排除」され、そして「忘却」されつつ、今日に至る。
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 ちょうど今月でコロナ禍一年である。去年の今ごろは、東京五輪を開催するのか、延期するのかすったもんだして月にむかっていたころだろう。地元の桜まつりやお祭りがことごとく中止になった月がはじまったときでもあったように思う。

 とはいえ、自然は着実に裏切らず花を咲かせ、春のかおりをつたえてくれてるように思う。それを人間に求めるのと、あの手この手の利権がからみひとすじなわではいかないのが現実なのだろうか。あげくの果てに、人に隠れて「自粛」を呼びかけている政治家がお忍びで宴会をやっていたりする。最近では、首相の息子が父の威厳をつかって、官僚に接待攻勢をやっていたと報道もされて、それはすべて発覚されて問題になっている始末である。
 人は利権に引き付けられて忖度し、いつかその中心に自分が「される側」に夢見て生きているように見える。花に集まる虫は、その日の命をひたすら守るために生きている。そして、花から花へ受粉を繰り返し実をつかせる・・・。こう思うと虫のほうがよほどまともだと思うことがある。


 バタバタと過ぎていった2月だった。
 思えば、コロナ禍になって一年。ようやくワクチンができて、医療関係者や高齢者などから接種することになった。それでも、すべての人にいきわたることはできないと思う。散髪屋さんでの話で「若い人はあいらめたほうがいい」とまでも言っているのを聞いたのは記憶に新しいことだ。
 私もきっとそう思っている。結局、ワクチンも格差が反映して自分のところにまわってくるころになって、病院で診察するように「接種料金」が取られるのではないかという思いもある。
 
 そろそろ東京五輪の話題もコロナ禍のなかで議題になってくるのだろうか。
 やっても「無観客」がいいとこかもしれません。やはり、やることにはちょっとムリがあるように思えます。世界中の選手が一堂に東京にきたらどうなるのだろうか・・・。だいたい来るのは選手だけでなく、スタッフや報道・・・その何倍の人がいるようになることを思うと「やっちゃいけない」とも思いますが・・・ね。
 緊急事態宣言も解除が出る都市はこれからも、大変なことには変わりはないのでしょう。さらに、コロナ禍で多くの失業者が出ていることなど、少しでも仕事に再度挑戦すできる保障をつくっていくことが東京五輪よりも先行すべく対ではないのでしょうか。
 読んでくれた人、ありがとうございました。