日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

少し、温かくなってきました。

2021年02月21日 | Weblog

 こんにちは。
 毎日が少しずつ温かくなってきました。多摩川の散歩道の河津桜が何本かは花をつけはじめていました。コロナ禍でもなかでも自然は季節をつげる形になっているようになっています。
 先週、東北地方で起きた地震の影響はいまだの「余震」という形で続いているようです。思えば、コロナも自然現象の一つなのでしょうか。その発生を人間が出る時期を早めたようにも思えます。急いで、ワクチンが世界で利用し始めてきました。
 国民がすべてが受けることはできないのでしょう。ワクチン接種も始まったばかり、感染症に対する対応がいま始まったばかりといえるのではないのでしょうか。




 建物の経年劣化があるように、取り付けれた機器にも劣化が続いています。「インターホンが壊れました!」という声が聞こえてきました。インターホンを修理すべく連絡はするが、「現在は生産がストップし、さらには会社がつぶれました」という返事。こんなときは、新しい会社をさがして、インターホンを発注しなければなりません。管理会社に連絡して、担当のものが休日に検査のためやってきました。管理会社も専門家されていて、こういう場合は「建築技術部・計画修繕課」という肩書の人と一緒に専門家がチェックをするためにやってきました。10~20分ほど、分解してなかをみたり、つながるのかのチェックをして帰っていきました。その担当の人がいうには「インターホンはカラーのディスプレイになります」との返答でありました。まだ、いつその工事をするのかは未定であるが、あそらく近い将来に始まるのではないかと思われます。

 とはいえ、都会というところはなんとも不便なところなのだろうかと思えた。人と人が会うのことがこれほど不便なこととはインターホンが壊れて初めて知ったようなところありました。
 いつも心に自動ロックをかけているような生活。いつになったら鍵のいらない人たちとめぐり会えるのだろうか。


 今週、先週の仕事の愚痴があったように、とても忙しかった。再雇用者としては「表彰」されてもおかしくないくらいなのだろうか…と自画自賛!。まさに、お客のミスを穴埋めするための仕事だったようなところがある。それも、時間内でである。そんな時は「亀の甲より年の功」である。与えられた材料をふんだんに生かし(手抜きもあり)ページをうめていく雑誌つくりはけっこう楽しくもあった。自分の手抜き加減が後世の人々にどう評価されるかもしれないなどと思う余裕さえないなかでの仕事だった。
 でも、ときどき思うことがある。こんな数十ページにも満たない雑誌でも自分の想像がきっと入っているのだろうと思うことでつながっているのだろうと…。何十年かあと、誰かが「あの資料」というときにどこかの図書館で利用するかもしれないなーと思う。作家さんたちは、自分の連載記事をたまったらきっとこの雑誌をまとめて一冊の本として出すことだろう。

 そんなことを終わって考えた週だった。
 忙しくても、自分の関わった証拠が保存されていることが担保として仕事をしているのだろう。いつの間にか自分の思いまで(手抜き・いい加減さも)一緒に残ることになるのだろう。再雇用となって5年目の春。この繰り返しはいつまでつづくことだろうと思う。
 仕事に対する人の思ひは人それぞれである。できるなら、最後は形あるものにして残すことができる仕事でよかったと思う。だいたい私は、口べただかろうできたことだということも反映している。それでも、人を口でだます仕事よりまだいいと思える。昨年、生命保険に入ってものを解約した。それというのも、担当者の口ぐるまにのって、気がついたら担当者はさっさと定年して辞めていった。後任が、保険の話をしに来た。そのとき、きいていたものとは全然ちがっていた。あー、あとのまつり・・・・「騙された」と思った。これでも仕事である。当の本人はすでに職場を去ったあとだった・・・などいう経験を思い出す。元金もくずれて解約したのだった。誰にでもあるような話だろう。けれども、本人にとっては、これで人生の設計図が崩れれてしまうということも多々あることだと思う。証拠が残ってしまう仕事。
 
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 2ヵ月おきに散髪にいった帰り道。散歩のつもりで西荻窪から井の頭まで歩くようになった。天気のいい日にはなるべく遠まわりを楽しみながらいくようになった。冬がちょっと休んでいるような日曜日。
 風がなくなれば日向は温かくなっていくることに体も動き出すというのも、人間も動物の本能なのかもしれない。これも、人間が自然の一部のなかで生きているとう証なのだろう思う。

 とはいえ、去年からコロナ禍での日々である。「少しが自粛、不要不急のお出かけ」というスローガンが常に聞こえてきそうだ。それでも、半年先の東京五輪より、自分たちの今日の楽しみであるのだろうと思う。だいたい、このご時世で東京五輪などと言っているのは、関係者くらいではないのだろうか。各国の代表選手たちもろくに練習などできていないのではないのだろうか。代表を選ぶための競技会さえできないなかで、まったく「東京五輪・・・」とはオカシイと思えてしまうこの頃だ。

 それに拍車をかけたのが森会長の「女性蔑視発言」だったように思う。結局、東京五輪がコロナ禍で危ぶまれているなか、焦ってしまったのだろうか「つい、ポロット・・・」本音がでしまったように思う。それでも、立場がその言葉の重要性をニュースにしてしまったのだろう。大問題になり、あげくの果てに、更迭されて後任の女性の橋本聖子議員が後任されたという顛末である。人はどこかで本音をいいたがっているのだろう。
 これまでの与党の国会議員がお忍びで「自粛」を口にしながら、自分たちはちゃっかり、豪遊していたこともニュースになったことも記憶に新しい。一部は議員をやめることになった。それでもいすわる理由をなにやかやでこじつけて辞めずにいるのも日本の政治状況(ほとんど有権者を馬鹿にしている)なのだろう。

 こんなことを思い出しながら歩く。井の頭公園でボートをこぎながら楽しんでいる人たちのたくさんいることもわかるような気がする。「自粛」という中で「政治家がやていることを思えば、自分たちだって楽しんで何が悪い」と思うだろう。それが当然であるのかもしれない。そんな人たちのなかの人たちの中にも、私も「東京五輪なんてどうでもいい」と思っている人が多いのだろうと思えている。むしろ、これから始まるプロのスポーツイベントちゃんとやることの方がよほど大事で身近なスポーツの楽しみ方なのだろう。
 まずは身近なスポーツを楽しむ理由がもっと大事になってくる春になってくるのだろう。


 これからの日々は、温かさがあったり、寒さがもどったりとなっていくのだろうか。とはいえ、まだまだ寒さは続くようです。先週末、東北地地方を襲った地震の余震は続いているとも聞きます。そしていまでもコロナ禍のなかです。
 最近は少しずつ都内でのコロナ感染者が減ってきていいます。事実、感染者の人数のうえでは少なくななっているように見えます。そんななか、緊急事態宣言も解除するような動きも活発になってきれいます。
 本当にそれでいいのかと思う・・・という気がしますが・・・。解除に先だってなによりもするべきことがあるのではないかと思う。人間はよく忘れる。とくにいやな記憶は忘れたい、そんなことはないのだろうか、これまでのことをふり返ると歴史は流れてきたようです。
 以前、菅首相が「新型コロナウイルスに打ち勝った証として東京で五輪・パラリンピック 開催」といったことを思い出した。それはあまりにも謙虚さを失った言葉と思えて、ほんとうにそんなこといえるのかな? とも思えました。なんせウイルスは人類の歴史よりも古い時代から生きてきた生き物です。そして、これまでの人類をつくってきたウイルスに対して傲慢でおこがしくもあるように聞こえましたが。そう思いませんか・・・。
 オリンピック開催で都内の感染者数が増えることだけは繰り返してはならないのだと思えます。

 今週はこの辺で失礼します。来週はちょっとゆっくりできそうです。
 とはいえ油断大敵!ボチボチいきます。
 読んでくれた人、ありがとうございました。