こんにちは。はやくも10日間の連休がはじまりました。盆暮れでさえこんなに長い休みは学校時代の夏休みや冬休みいらいのことでしょうか。仕事をするようになっては、身内の忌引きが結婚以来の休みともいえるのではないのでしょうか。いずれにせよ、働くようになってから、用事がない休みは初めてだといっていいでしょうか。過ごし方によっては、薬にも毒にもなる10連休をどうすごしているのでしょうか。
さて、ぼくの場合といえば当面は今まで出来なかったことを一つずつやる日々でもあります。その一つに「山歩き」がありました。休日を利用していつもの高尾山にいってきました。連休ということもあって混雑するのだろうと考えていたのですが、実際のとこrそれほどの混雑もなくゆっくり歩くことができました。この時期のいちばんのお目当ては、なんといっても花を見つけられることがよかったですよ。
さて、そのほかにやることといえば身の周りの資料整理(役にたつとは思われないけれど)もあります。まあ、ガラクタかなー。ニュースの記事などもありました。10日間という日々ではたいしたことができないいと思います。それでも、目の前のできることから始めるしかないようです。
ヒトリシズカ(センリョウ科)高さ10~30㎝の多年草。
イカリソウ(メギ科)
ムラサキマムシグサ(サトイモ科)
※花の名前参照『高尾山 花と木の図鑑』(菱山忠三郎著・主婦の友社)より
「1カ月に一度は山歩きをやりたい・・・」と思っているうちに月日は過ぎとうとう春になってしまったように思う。せめて、春の連休には実行したいと思っていて、やっと行くことができたという一日でもあった。昨日の雨もあり「どうかな」心配していた。でも、そのおかげで陣馬高原からの富士山や丹沢方面の残雪がとても美しかった。
この時期山るきのお目当ては景色よりも、春を待っていた花たちを見るのも楽しみでもありました。山道を歩いていると、道脇にけなげに咲いた花がたくまさしを見せる季節でもありました。この時期をのがすと、おそらくもう一年間はおめにかかれない花もあります。(写真)
若いころは、はやく登って頂上で料理をしてうまい昼ごはんが目的だったようだった日々から、今では人知れず、一年を耐え抜いた植物の美しい姿を見に出かけるようになったように思う。その分、歩きながら道脇の草むらを眺めるのでどうしてもゆっくりなってしまうので、できるだけ早く出かけるのが原則になってしまうようになった。早起きは苦にはならない。この時期は、日の出も早いのでうれしいことにもなっている。
年々、山歩きをする目的も少しずつ変わっていくようだ。高い山にいくのも楽しい山歩きになる。ただ、体力が高度差についていけないことを受けとめることも大事に思う。事実、今日、「北アルプスで遭難」というニュースも流れている。
※「山岳遭難 4人死亡」(朝日29日)富山県と岐阜県の堺の北ノ俣岳(2662m)、富山県の雷鳥沢(2560m)、長野県の槍ヶ岳(約2800m)、唐松岳の八方尾根付近(約2500m)で遭難者があいついで発生している。みんな死亡が確認されている。
4月がきたと思いきやもう月末という思いです。初旬は長い間いっしょに仕事をしてきた知人の訃報だった。中旬では、出向先では尊敬する編集長が倒れて、即検査、そして入院をしてしまいました。人間の寿命がいつなのか、どこでなのかとうことを考えた日々でもありました。生命あるものはいつかは息絶えて死を迎えるものだとは覚えていてます。それにしてもこうもたて続けに周辺で起きていると、自分にもどかで「寿命のシグナル」がどこかで小さく鳴りはじめてくるころではないのだろうか、といことを感じています。まさに『平家物語』の冒頭「諸行無常」の世界でもありますか。
p31 喧嘩なら相撲取りともやって見せるが、こんな大僧を四十人前へ並べて、只一枚の舌をたたいて恐縮させる手際はない。
p35 おれは何事にもよらず長く心配しようと思っても心配できない男だ。教場のしくじりが生徒にどんな影響を与えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を呈するかまるで無頓着であった。
p38 冗談も度を過ごせばいたずらだ。焼餅の黒焦のようなもので誰も誉め手はない。田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押して行っても構わないという了見だろう。
p52 おれは勇気がある割合に智慧が足りない。こんな時にはどうしたらいいかさっぱりわからない。わからないけれども、決して負ける積りはない。
p67 「どうせ経験には乏しい筈です。履歴書にもかいときましたが二十三年四カ月ですから」
p179 (坊ちゃんいわく、四国の不浄の地を去った後)その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。 月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日におれを呼んで坊ちゃん後生だから清が死んだら、坊ちゃんの御寺へ埋めて下さい。御墓なかで坊ちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。
短気でケンカ早くて、誰にた新潮社文庫案内よりいしても見栄をはらず馬鹿がつくほど正直な坊ちゃん。こういう人間は世の中にはなじめずはじきだされることが多いだろう。それでも、一つひとつ坊ちゃんの理屈をならべれば知識などよりはるかに大切な味わいのある人間だ。世間という中にあっては生きづらさもある。それを支え、励まし応援してくれる人が清なのだと思う。そして坊ちゃんも清ほどできた人間はいない、と語る。四国の赴任先で教養のある人間に囲まれていく日々。生徒や「狸」「赤シャツ」「野だいこ」とあだ名をつけたな人間たちの中での生活は、まさに今の社会の今をうつしだしているかのように見える。
人はそれぞれ置かれた時代や場所によって、その時代の人間に変わっていくことを強要されている。それがいかにも「大切だと」というように時代も一緒に追いかけていく。追いつくことを励まされ、応援され追い着き着地点につこうとする。そうして変わっていくことが、あたりまえであるかのように時代は励ましている。だけれども、それがその人の本当の姿のかは別であるのだろう。自分自身を置き去り、忘れたところで気づかされてくれる人が、それが唯一無二の親友なのではないかと思う。身のまわりにそんな人はいるのだろうか。ケンカ友だちであれ、幼なじみであれ、家族であれ。自分のまわりにいる人間で、清のようなやさしい人はいるのだろうか、そしてそんな人に気づいているのだろうか…。誰かの思いをいつでも持ち続けたいという人がいるのだろうか。そう考えると無鉄砲な坊ちゃんは幸せな人だったのかもしれないと思う。
【内容】熊本の高等学校を卒業して、東京の大学に入学した小川三四郎は、見る物聞く物の総てが目新しい世界の中で、自由気儘な都会の女性里見美禰子に出会い、彼女に強く惹かれてゆく……。青春の一時期において誰もが経験する、学問、友情、恋愛への不安や戸惑いを、三四郎の恋愛から失恋に至る過程の中に描いて『それから』『門』に続く三部作の序曲をなす作品である。(新潮社文庫案内より)
p15 元来あの女は何だろう。あんな女が世の中に居るものだろうか。女と云うものは、ああ落付いて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか。大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するに行けるところまで行ってみなかったから、見当も付かない。
p106「この空を見ていると、そう考える。―君、女に惚れたことがあるのか」三四郎は即答ができなかった。
p190 三四郎が広田の家に来るには色々な意味がある。一つは、この人の生活にその他が普通とものと変わっている。ことに自分の性情とは全く容れないところがある。そこで三四郎はどうしたらああなるのだろうと云う好奇心から参考の為め研究に来る。次にこの人の前に出ると呑気になる。世の中の競争が余りに苦にならない。野々宮さんも広田先生と同じく世外の趣にあるが、世外の功名心の為めに、流俗の嗜欲を遠ざけているかのように思われる。
p247 三四郎は思い切って、この間国元へ三十円の不足を請求した。充分な学資を月々貰っていながら、ただ不足だからと云って請求する訳にはいかない。三四郎はあまる嘘を吐いた事のない男だから。請求の理由に至って困却した。
p260 下宿の二階へ上って、自分の室に這入って、坐ってみると、やっぱり風の音がする。三四郎はこう云う風の音を聞く度に、運命という字を思い出す。ごうと鳴って来る度に竦みたくなる。自分ながら決して強い男とは思ってはいない。考えると上京以来自分の運命は大概与次郎の為に製られている。
読み終えて考えたことは、青春時代ってというのは「いつも誰かの(女性)のことを笑顔を求めて暮らしていた」ということだろう。とはいえ、個人的にそうであっても他はしらないが・・・。それでもいつでもどこでも女性はいた。あるときは、それが理由であったり、あるときは励みでもあったりした。失恋もするが、それでもまた、新しいめぐり合いを求めて動きまわっていたように思う。こと、青春時代には「めんどう」などとは思わなかった。小説「三四郎」も表面では冷静を装っていても、心の中はいつも女性の影があったような小説である。
時代は変わる。28日の「天声人語」(朝日新聞)を読んでいたら、今の恋愛観のことを書いていた。日本の近代化には恋愛は必要だと説いた福沢諭吉を紹介し、さらには芥川龍之介、林芙美子、竹久夢二などの言葉を載せていた。そして今。内閣府が数年前、20代と30代の男女に「恋人を欲しいですか」と尋ねたところ、欲しくないと答えたのが4割もいたという。最も多い理由うは「恋愛が面倒」だとか。新聞ならぬ、ぼくもこれには驚いてしまう。いったいどうなっているんだ・・・、とも思えた。男性にとっては女性の存在は、どれだけ力になっているのか、もったいない。「原始、女性は太陽だった」ではないか。これは極端すぎると思うが、「非正規社員」が増える理由の一つもあるように思えてくるが。これからの三四郎はいったいどこへいくのだろうかと思うのだった。