日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

暑中お見舞い申しあげます!

2013年07月14日 | Weblog


 こんにちは。
 毎日、猛暑がつづいています。体調に十分気をつけて、と自分に命じて過ごした一週間でもありました。
 関東甲信地方9日、山梨県甲州市の勝沼で39.1度、東京都心では35.4度と猛烈な暑さです。気象庁が統計してきた1947年以降初めての猛暑日が3日間続いたのは初めてだそうです。厳しい暑さは週末まで続いていますね……。

 さて、今週は参議院選挙も中盤戦、各党首は舌戦を全国で繰り広げているの週でした。わたしの応援したい某政党党首もがんばていました。
 それにしても、原発再稼働の合唱はなりをひそめませんね。
 これも政権をとった自民党の経済一辺倒のおかげでしょうか。『強い経済』ならなにをしてもいいのかと思いますが。

 この『強い経済』のうらにはTPP参加ももちろんあるのでしょう。
 TPPに参加するのはいったなぜか?という疑問がずーっとありました。これは結局ところアメリカの経済政策の一環として日本の農業、医療、教育などあらゆる分野の経済を開放しろ…ということなですね。
 車や食料品など関税を撤廃しろということなのでしょう。すべての分野で関税を撤廃すれば貿易の自由化がもっとすすみ、競争によって安い食料品や医薬品が消費者の手にはいりいいではないか……ということなのでしょう。
 しかし、ことの本質はちがうようです。
 いま、関税があることによって、食の安全が守られ、医薬品なども安全が保たれているのだそうです。これが、なくなれば、今のアメリカのように一部の金持ちしか安全な食料や医薬品がつかえなくなってしまうそうです。
 まして、医療制度までかわってしまうと、結局、今アメリカで起こっている保険会社と契約できていない人は、高い医療費によって医療を受けられなくなるようです。今の日本の保健制度や憲法はたいへん優秀で世界にほこれる制度のようです。(高齢化がすすむ日本では、変える必要はないようです)

詳細はこちらで
「TPPで暮らしはどうなる?」岩波書店



などなど……
選挙に入ってあれも、これも問題だらけですねえ。
いえることは、今の自民党政権でやろうとしていることは過去に引き戻すことなのでしょうね……。相変わらず沖縄の基地は沖縄の意思は無視されていて、アメリカ意向がつよし、経済は結局、大企業が生き残る政策で、中小の一部がそのおこぼれにすがっていくようなものに思えるし、最たるものは原発再稼働でしょう。電力会社は一様に政治の力を期待している様子。



 終末の御茶ノ水……
 その橋の上には駅に行く人で列をなしていた。行けども行けどもときれることがない人の波……。これから、友をさそってビアガーデン、もしくはデート、さらには家路に向かうのだろうか。終末は、働いている人にとっては、やっと一息いれらる日でもある。まして、夕暮れとあっては、残りの仕事をかたづけて……というところだろう。

 終末にゆっくりと、自分の好きな場所に立っていることは理想だろう。会社の帰り道。自分で立てた計画を実行するべく、やってきた駅は神保町。今日はお気に入りの映画をみて帰ろうとしたが、なんともおばかな自分がでてしまった。上映開始日を間違えた。明日なのだ、と。
 終末はそんなことも許せてしまう(自分には甘く……)のだ。

 藤沢周平作の『橋ものがたり』という作品が思いだされる。
 橋を渡り終えたとき、ふと一息いれた。その、男女の一息の思い入れをとてもうまく書いている。橋が人と人を気持ちを運ぶ受け渡しを演じている。

 そんなこんなの週末の橋の上。行き交う人の心の中はどんな気持ちで流れていくのだろう。都会の橋はものとものを運ぶ流通の手段としての橋のような大きさはなく、行き交う人と人の気持ちを運ぶくらいの身近な距離の橋が多い。
 ここ、お茶の水は神田川の上に橋がある。今日の疲れを橋の向こう側において、ほっとした気持ちがこちらに運ばれてくる……、そんな情景が小さな橋がつなげているように見えた。
 さて、橋を渡って何を伝えようとしているのでしょうか。

 それにつけても、今年の笹子トンネルで大規模な天井板崩落事故が起きて以来、日本全国の橋の老朽化が問題にされているよです。これは、ロマンどころかミステリーになってしまいますね。


夕暮れに

終末の橋のうえ
夕日をあびて家路に帰っていく
やっと
暑い週末にほっとし、
ほほをつっぱらせた緊張の糸がゆるむ時間(とき)
やさしい微笑が行き交う

君は笑っているだろうか
熱に
破壊に
むかった7月
無関心と差別に生きた
戦争という傷跡

再び8月がやってくる
死者とともに生きる月
いつ終わるかわからない命を背負って
失われた人間としてのほこりや知恵を
死者によって気づかされていく月

ものであれ、時間であれ、空間であれ
その時代の生きた人たちによって
明日を信じて生きていくあかしを気づかせてくれる
そして生きた人間をとりもどす

平和という気持ちがつくることのむずかしく
戦争という過去に学んだ今
死に行くものが帰ってくるお盆

何を伝えにくるのだろうか
そして、
私は何を伝えることができるだろうか




 今週、神田で会社帰りに映画をみようとしたら初日が翌日だと小さく書いてあったのを帰りの電車の中で発見……。なんともおばかなこと。
 12日(金曜日)はみることもできず帰りました。
ここであきらめたら二度と見られないかと思い、日曜日行ってきました。
リベンジです。



映画なんて久しぶりでした。
世の中にはきっと、いい作品が五万とあるのでしょうが、現在私の問題意識のなかにある映画は『爆心・長崎の空』でした。せっかく、みるのですから自分にとっても何か今を感じるものを……と思い出かけた一日でした。

内容と感想は……
1945年8月長崎に落ちた原爆の後遺症に悩む二つの家族を通して、なんでもない私たちに「生きる意味」を問いかけるものではなかったと思います。二つの家族に起こる、それぞれの死を通して、原爆が落ちた長崎に生きる人間としてどんな生を送ってきたかを問い直す映画でもありました。
「明日にも死ぬかもしれない生を背負って生きている」という人間ドラマでもありました。
それぞれの生のなかにくれまでの死が多くたずさわっているとうことを覚えた映画でもありました。それが、1945年以降、モノ、時間、場所、人間など私たちに語っていることを聞き、明日を信じられるものをつくっていく大切さみたいなものを強く感じました。また、それらがより人間らしくしてくれるメッセージを私たちに発信していることを覚えた映画でした。

日々生活するなかで私たちは「戦争」を知識として記憶に残しています。それをある時期(特に8月日本)。おおやけに式典などをやります。しかし、大事なことは、それぞれの人間の記憶のなかにそれぞれの戦争の記憶をよみがえらす時が必要だと思います。それが、何であれ個人の大事なものを保障していくことが式典より大切なことだと思います。

撮影場所も長崎とあって、私の好きな場所でもありました。また、俳優もよかったと思います。

それにつけても、私の後ろの座席のおばちゃんたちが元気だったこと……。うるさい、と注意もされていましたが、とても素敵な仲間のように思えました。年をとって、あんな関係で映画をつれそってみに来る仲間がいることは人生において大事なことだと思います。みな、それぞれ他人がいて自分がいるのですから……。


<映画データ>
解説
芥川賞作家で長崎原爆資料館館長も務める小説家・青来有一の連作短編集「爆心」を映画化。母を亡くした子と、子を亡くした母がめぐり合い、悲しみを共有しながら生きていくことに希望を見出していく姿を描く。ごく平凡な日々を送っていた女子大生・門田清水は、ある日突然、母が他界。些細なケンカをしたまま母に謝ることができなかった清水は、後悔の念にかられる。一方、代々カトリックを信仰する家庭に生まれ育った高森砂織は、まもなく娘の一周忌を迎えようとしていたが、悲しみを忘れることができない。そんなある日、砂織は新たに妊娠していることが発覚する。清水と砂織はやがて浦上天主堂近くで偶然知り合い、心を通わせていく。祖父母が被ばく体験をもつ、被ばく3世という役どころでもある清水役に北乃きい、砂織役に稲森いずみ。故・黒木和雄監督の愛弟子で「誰がために」「火垂るの墓」を手がけた日向寺太郎監督がメガホンをとった。
スタッフ

監督/ 日向寺太郎 製作/鈴木ワタル プロデューサー/沢田慶
原作/青来有一 脚本/原田裕文 撮影/川上皓市 照明/川井稔
録音/橋本泰夫 美術/丸尾知行 装飾/吉村昌悟 編集/川島章正
音楽/小曽根真 主題歌/小柳ゆき 助監督/松尾崇 制作担当/中村哲也
衣装/宮本茉莉 スタイリスト/宮本茉莉 ヘアメイク/前田美沙子 スチール/遠崎智宏 キャスト/北乃きい 門田清水 稲森いずみ 高森砂織 柳楽優弥 廣瀬勇一 北条隆博 山口光太 渡辺美奈代 門田晶子 佐野史郎 門田守和 杉本哲太 高森博好 宮下順子 高森瀧江 池脇千鶴 高森美穂子  石橋蓮司 高森良一

作品データ
製作年 2013年/製作国 日本/配給 パル企画 上映時間 98分 映倫区分Gオフィシャルサイト




 今週も暑い日が続きました。
 おそらく、梅雨もはやくあけた分、その分だけ暑さもちょっと長引いていくのではないかと思われます。
 さて、今週、職場の「個人面談」なるものがあった。これは、夏季一時金(微々たる金額)にこれまでの成果に理由をつけて個人評価金額に差をつける面談があった。
 毎年のこととはいえ、いつもこの時間だけ理不尽な理由によって、いやな思いが残る一日でもあった。上司によって、減額する理由を何点か述べられ、その内容に納得するなかみでないことに反論し、さらに、あきらめとも、なさけなさに拍車がかかり、疲れる時間が過ぎていった週でもあった。

 人は最終的には「好き、嫌い」で評価しているように思える。同じ仕事をしていて、一方がミスしても、もう片方が上司に可愛がれれば一方は評価は低くなる…という仕組み。それが、この採点の弱点でもある。だが、誰かが、誰かを評価しなくては皆同じになってしまう。そのために、どうしても個人の感情が評価に私情がはいることとなる。
 よく、刑事番組で身内や友人、師弟関係など私情がはいりこむ事件にはその関係者は事件からはずす、という場面があるが、これはまとをえた理由だと思う。

 私の場合の評価、同じラインの場合、低い方にいつもなっている。やっぱり、低い査定がつねについて回ってくるのだった。
 ここには「なぜ?」はない。言ったら上司のいい加減なところが吐露してしまう。さらにはその評価のばかさ加減がわかってもしまう。そんなこんなで、理不尽という言葉をオブラートに包んで終了する。

 誰にも許す、許せない許容範囲がある。
 私の場合、これは範囲内になってくるのが恒例になってしまった。なぜなら、評価する上司の弱さもわかっているので追及したところで「できない」ことを怒りで固めてしまうだけだとも思えた。「できないことはできない」と大きな声で恫喝されて終わりなのだ。世の中にこんな人たちは五万といるだろう。

 面談後、思ったことは、負け惜しみにきこえるが、自分の気持ちをまげてまで上司のごきげんをうかがうほどにはなりたくないと…。
 そんなことをしていたら、ロボットと同じだ。職場の人間のなかでそんな人たちをみるにつけ、批判はしない。
 それにつけても、こんな人たちがいずれ、会社の上役になっていくのはなんの変化もないし期待もないということで、悲しいと思うのだ。
 だから、私は嫌われるのだろうし、査定は低い。これは、もう仕事のなかみでの話しではない。生き方の問題だろうと思う。
 「近親憎悪」という言葉がある。
 たぶん、相手の嫌なところがやたらと目につくということは、自分も同じ嫌な部分を持っているからで、それを見せ付けられているようで嫌なのだ。あの人とは一緒にされたくない、名の人には負けたくないと似た者同士は競いあう…(「たましいの場所」早川義夫著・ちくま文庫)

 世のなか嫌いな人、好きな人は誰でも思っている。それが、年配者の女でであろうと若者の男であろうといる。
 でも、大事なことは、その人といて落ち着けるし、楽しいと思うことが大事だと思う。ということは、やっぱり、好きな人になる。それよりも人生で大事な話し相手とおいえると思う。
 そいつとなら、どんな苦労も頑張ってできる人なのだと思う。そんな思いが年々、消えていくような面接だった。

 今、そんな人は会社内では数えるほどしかいない。それは、それでいいと思う。私は大衆をもっている政治家でもなく、人の命を救う重大な仕事している医者や弁護士でもないのだから。その日一日を、自分が、悪い成果ですといわれても納得する日々を送れればと思っている。
 正直なところ、誰しも他人にはよく思われたいと思うのが人情だろう……。
 そして、査定もAランクで…となっていれば、なにも考えずに過ぎてしまうものだろう。そうはいっても、他人のお世辞をして、自己嫌悪になってはたまらない……なあとも思う。そんな人と話しても、きっとつまらないし、感動しないだろうなあ、と思う。

まだまだ暑い日がつづきそうです。
くれぐれも体調を崩さないように暮らをお送りください。
今週はグチのオンパレードでした。
*読んでくださった方、ありがとうございました。