
こんにちは。
朝夕は寒くなってきました。それもそのはずでもう12月にはいっていきます。なんだかんだといううちに新型コロナウイルスと共に年を越しそうです。それも、少しも減速することもない様子で12月の突入となっていきそうです。まだ、身近な人に感染者はでていませんが、このままだと他人様の心配をするどころが、自分のことや家族の感染が心配になってしまう気持ちになります。とくに高齢者の感染は多くなってきたとも聞きます。
とはいえ、やれることは決まっているのです。その繰り返しの日々しかないのでしょうか。日々、蜜を避け、マスクをして、手洗いうがいに気をつけながら仕事に行く日々でしょう。最近になって、テレビニュースの最後に、2月ごろと新型コロナウイルスへの注意喚起が同じことを聞いていることに気づきます。他にできることはないのでしょうかね。
さて今週は、サッカーアルゼンチン代表であったマラドーナさんが亡くなったというニュースが驚きでした。それも60歳という若さです。アルゼンチンでは、国民的英雄でしょうから、大きな悲しみに暮れていることでしょう。マラドーナのプレースタイルは、体が小さいながら、全身でサッカーをしている印象の強い選手でした。やはり「神の子」にふさわしいプレーヤーであったことは確かです。
私にとって好きな選手は、マンチェスター・ユナイテッドの選手だったジョージ・ベストやブラジルのペレ、ドイツのゲルトミュラー、フォクツ、ベッケンバウアーが上げられます。それ以後の選手のことはよくわからないというところが正直なところです。私は、「ダイヤモンドサッカー」を見ていた世代ですから・・・。


今月は、これまでためておいた本を読んでいたように思う。これまで新書はたまるばかりで、これではきっと全部は読めないのだろうなー思う日々になっているように思う。いつの間にか、世の中は、コロナ禍であっても、もすごいスピードで進んでいるように見える。それも、本当のことはまったく知らされず、にである。人類は、100年に一度の災難に遭っている。それでも、人類は最後に残るであろういう予言のなかに生きているように思える。事実、人類はこれまで、大きな疫病の災難を乗り切ってきた歴史がある。
昔は医療や体制がととのっていなかったために多くの死者をだしてしまった歴史もその事実だろう。それでも、いまのような環境でなかったことは幸いであったいうことがいえるだと思う。
今日の地球環境とウイルスは一緒に生きてきた存在だろう。その時代にかなったウイルスが出てきて、人類に危機のメッセージを送っているようにも思える。今回の新型コロナも同様、いまの時代にかなったウイルスなのだろう。では、なぜそうのうようなウイルスが出てきてしまうのか本当のところは、あまり詳細に語られずになっているのも世のなかの常識になってしまっているようにも思える。それをつきとめるには、日々流れるニュースや新聞では上っ面だけがいわれるだけだろう。

今回読んだ『人新世「資本論」』という本は、これまでの地球環境のあり方から世界中で起きている異常気象の原因を資本主義の経済成長によって起こされていることを述べている。そして、今の世界は「人新世=人間が経済活動によって地球を破壊する」という段階であることを指摘している。
いわれてみれば、今の新型コロナも地球規模でこれまで以上に温暖化によって、地球規模でのそれぞれの国や地域の季節が壊されいる状況になってきている。例えば、熊が民家に多く見られたり、アフリカでは大量のバッタが繁殖して作物を食べつくして、食糧不足を起こしている。新型コロナでは、都市から人を避難させようしたりしている。さらには紛争によって多くの難民が国境をこえて避難している状況がつくられている。そんななかで、今回のノーベル平和賞受賞にWFP(世界食糧計画)が選ばれたの意義は大きいことからもわかるような気がする。
その背景のなかでこれまでの状況を著者はすべての経済活動によって起きていることを指摘している。資本主義経済の自由競争によって人々は競争を強いられ、貧しくなれば住む場所もなくなり、医療さえ受けられなくなる。産業革命以降の資本主義から比べれば今は、比較のならないほどに地球規模にすすんでいいる。そのなかで出てきたことは地球温暖化という現実だともいう。
1%の富裕層が何億人分のエネルギーを使うのが現実となっている。
その世界の様子をいちはやく気がつかせたのはマルクスの「資本論」の内容だというこも興味深いことだ。いまの世界のあり方を100年前に論じていたこと・・・に驚きである。
そして、まさに今その論考が実践される時期にきていることが気づかされる本でもある。
本当に資本主義経済で恩恵を受けいるのは、1%の富裕層であって、最終的には人類はどこへ避難するところもなくなると。「持続可能な社会」というが、これはマルクスの「宗教はアヘン」といっていいったたように、本来人類が進むべきではないとも指摘していることにも興味深い。
日本の労働者はコロナ禍で多くの失業者が出ている。とくに、感染予防などで移動の自粛などによって観光業や旅行会社などは多い。非正規労働者に至っては、「使い捨て」状態であることが伝えられ、まさに資本主義そのもののであることがわかる。それらに向けての政治の貧困さが指摘され、すべてそのつけが弱者にいっていることは明らかになっている。そんななかで労働者政策として、「日本型」働き方「ジョブ型」に移行しようとする計画も持ち出されている。
日々、本質をずらす幻想がいつまで続くのだろうか。
この本を読んでみると、コロナ禍以後の過ごし方・働き方を考える選択肢としてあるのではないかと思えた一冊だった。
「僕たちは今、地球規模の病気にかかっているところだ。数々の真実が浮かびあがりつつあるが、そのいずれも流行の終焉とともに消えてなくなるだろう。」
『コロナの時代の僕ら』パオロ・ジュルダーノ(早川書房)

■p6 気候危機の原因までさかのぼる必要がある。その原因の鍵を握るのが、資本主義にほかならない。なぜなら二酸化炭素の排出量が大きく増え始めたのは、産業革命以降つまり資本主義が本格的に始動して以来ことだからだ。
■p28 帝国的生活様式とは要するに、グローバル・ンースにおける大量生産・大量消費型の社会のことだ。それは先進国に暮らす私たちのとっては、豊かな生活を実現してくれる。その結果、帝国的生活様式は望まなく、魅力的なものとしてグローバル・サウスの地域や社会集団から収奪して、さらに私たちの豊かな生活の代償を押しつける構造が存在する。
支配階級は肩を叩きあって、互いの見事な対応ぶり、真面目な働きぶり、犠牲的行動を褒め讃えるだろう。自分が批判的になりそうな危機は訪れると、権力者という輩はにわかに団結し、チームワークに目覚めるのだ。
一方、僕らはきっとぼんやりとしてしまって、とにかく一切をなかったことにしたがるに違いない。到来するのは闇夜のようであり、また忘却の始まりである。
■p32 資本主義による収奪の対象は周辺部の労働力だけでなく、地球環境全体なのだ。資源、エネルギー、食糧も先進国との「不等価交換」によって、グローバル・サウスから奪われていくのである。資本主義は、自然もまた単なる道具として扱う資本主義は自然もまた単なる略奪の対象とみなす。このことが本書の基本的主張・・・。
■p33 ……例えば熱帯雨林を農園として切り拓いた結果、土壌侵食が起き、肥料、農薬が河川に流出して、川魚から減少しているのだ。この地域の人々は川魚が減少しているのだ。この地域の人々は、川魚からたんぱく質を取っていたができなくなり、お金が以前よりも必要となった。その結果、金銭を目当てに野生動物、とりわけオランウータンやトラなど絶滅危惧種の違法取引に手を染めるようになったのだ。
……中核部での廉価で、便利な生活の背後には、周辺部からの労働力の搾取だけでなく、資源の収奪とそれに伴う環境負荷の推しつけ欠かせないのである。
■p34 先進国と人々は単に「転嫁」に対する「無知」を強制されるだけではない。自らの生活を豊かにしてくれる、帝国的生活様式を望ましいものとして積極的に内面化するようになっていくのである。人々は無知の状態と欲望するようになり、真実を直視することを恐れる。「知らない」から「知りたくない」に変わっていくのだ。
……帝国的生活様式は一層強固なものとなり、危機的対応は未来へと先延ばしされていく。それによって、私たち一人ひとりが、この不公正に加担することになる。だが、その報いがついに気候危機として中核部に忍びよってきている。(オランダの誤謬)。
■p36 ……人類の経済活動が全地球を覆ってしまった「人新世」とは、そのような収奪と転嫁を行なうための外部が消尽した時代だといってもいい。(採取主義)
■p81 世界の富裕層のトップ10%が二酸化炭素の半分を排出しているという。プライベートジェットやスポーツカーを乗り回し、大豪邸を何軒も所有するトップ0.1%の人々は極めて深刻な負荷を環境に与えている。他方で下から50%の人々は、全体のわずか10%しか二酸化炭素を排出していないのにかかわらず、気候変動の影響に彼らが最初に晒される。
p90 電気自動車の生産、その原料の採掘でも石油燃料が使用され、二酸化炭素は排出される。さらに、電気自動車のせいで増大する電力消費量を補うために、ますます多くの太陽パネルや風が発電の設置のが必要となり、そのための資源が採掘され、発電装置の製造でさらなる二酸化炭素が排出される。(ジェヴォンズのパラドックス)
■p108 要するに、生産や分配をどのように組織し、社会的リソースをどのように配置するかで、社会繁栄は大きく変わる。いくら経済成長してもその成果を一部の人々が独占し、再分配を行わないなら、大勢の人々は、潜在能力を実現できず、不幸になっていく。
■p117 資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。その過程では、環境への負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間から収奪を行ってきた。この過程では。マルクスが言うように「際限のない」運動である。(惨事便乗型資本主義)
■p235 資本主義は絶えず欠乏を生み出すシステムである。
■p238 ……囲い込みよって、このコモンズでは徹底的に解体され、排他的な私的所有に転化されなければならなかった。
■p274 要するに自然的「限界」は単にそこに存在しているわけではない。限界はあくまでも私たちがどのような社会を望むかによって、設定される「社会慣行的」なものである。限界の設定は、経済的、社会的、そして倫理的な決断を伴う政治的過程の産物なのだ。

以前、NHKの海外ドラマシリーズで「モース警部」という刑事ドラマをやっていた。英国のドラマで落ち着いていて、ゆっくり事件を解決していく光景が好きだった。やはり、推理・探偵ドラマはシャーロック・ホームズを生んだ英国ならではと思えたドラマだった。
事件はオックスフォードで起きた殺人事件。犯人を追うというより、それぞれの刑事や関係者の日々の生活がおざなりにならずよかった。途中で「殺人事件を捜査しているの?」と思うほどゆっくりしていた。
あわてず、怒らず・・・そして犯人を納得させていく。そして逮捕。
犯人であっても人間であるという視点がちゃんとあって、その動機を考えて犯人の立場をいつも考えるモース警部がよかった。


今年5月ごろから、遠くへいくことより身近なところを歩きまわる休日である。まだまだ、都心の23区よりは、自然が多いことに感謝している。通勤時間にはめっぽうかっかるのが難点だが、休日になればどれだけ植物や虫を多く見られることかと思う。最近では少しずつ、このあたりでも都心化している。木々の向こうに目をやれば高層マンションが頭をだしている光景もみられるようになった。住んでいる人には、うらみはないのだが建ち並ぶビルをみていると、夕焼けや朝焼けもどこかへ行ってしまうのだろうと思う。
家々の下にはそれぞれの人生がある。やっとまともに住めるようになった環境が、こともなげに遠くの景色まで変えてしまう速さである。
写真家・今森光彦さん は、自分たちの住む地域の変容の中、そこに住む写真を撮っている。何十年もの間に住むのは人間だけじゃなくて虫や花が里山をつくってくれるようになるという。そこに景色を求めて、生態系は出来上がってくるものらしい。だから、壊されてしまうと人間以外の生物はいなくなっていく。そののまま放置していくと、人間の暮らしの中にひずみができてしまう。土地はそこに住む生物によっても人は生きていることを確認しなければいくない時代になっているのだろうと思う。そんな景色が人と人を結びつけるものであるのでは、と思う。人間だけがどえほどいい暮らしをしても、美しい景色はないのかもしれないということを言っているのではと思う。人それぞれ、落ち着ける景色が脳にインプットされているらしい。その景色をどこかでなつかしく思える人でありたいと思う。
いったいどこへいけというのだろうか、人類は・・・。

来週は12月に入ります。早いものですね。もう一年も終わりになっていました。どうにか、毎週、更新もできました。今年最初のページを見ていたら、なぜか昨日のことのように思い出されるページに記憶がよみがえってきました。
今年は、「コロナに始まり、コロナで終わる一年」になるのでしょうか。”百年に一度の災難”と聞きますがまだ、トンネルのなかのようです。ここ四半世紀で地球の様子も、とりわけ日本は災害の多い時期だったようです。阪神淡路大震災から灰がし日本大震災、福島第一原発事故、大阪府北部地震 、熊本地震そして昨年の台風19号における河川洪水など、たくさんの災害にみまわれたことが記憶に新しいところだと思います。そして、今年は新型コロナウイルス感染です。
どこまで人類は痛いめに遭わないといけないのでしょうか。地球規模で俯瞰すればさらに多くの災害(アフリカのバッタ大繁殖)あるのでしょう。いまは地球という惑星の変換期なのでしょうか。そして人類がの大転換期なのでしょうか・・・。
そこにきて経済グローバル化。人・モノ・カネの移動も国々の覇権を競って戦争やら開発やらということで環境も時間経過とともにかわっていくのがこのごろです。その結果「地球温暖化」がでてきたのでしょう。人類は、それでも南北間や国境を越えて紛争をしている状況。人類のほとんどが望む結果になっていないということが「今」なのでしょう。
考えてみれば、私が生まれて半世紀以上も前には、今のような状況は誰が考えたでしょうか。緑が多くて、人々があつまって唾を飛ばしあいながらも日々を送っていた時代。いつもの瞬間が光があふれ、まっすぐ一本道を駆けていくような景色や環境がありました。それが今では、それは本やどこかの国の放送でしか見られなくなりました。こころのなかの「原風景」だったのでしょう。今ではそれさえも、遺伝子組み換えは、大きく農村の風景を変えたことでしょうか。
いつの間にか人類は、欲望かきたてる世界へと進んでいったようです。それも、今日を送れるだけのエネルギー以上の欲望を貯めこんできたようです。その結果、労働者はいつの間にか、自分が描く以上の労働状態や生活苦に巻き込まれてきたのでしょう。それが資本主義であることさえ考える余裕がないほどの日々を送ることになってしまったのでしょう。その結果、地球温暖化がうまれたこともつきつめて考える時間もないほどの労働実態、雇用形態をつくられるなかで今日をむかえていることということなのでしょうか。
そしてとうとう、今年はコロナウイルス蔓延です。ここでも、これまでに作り上げられた経済格差のなかで犠牲の多くが、つきつめれば低所得者層に犠牲が強いられているようになっています。
そして2020年12月が始まります。人類がこれまでの反省をどこまでできるのかということが、これからの地球の運命を決定する時代になってくるのではないかと思います。米国では、一国強化主義のトランプ政権がバイデン政権に変化していくようになったことが、小さいですがうれしい変化でした。
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個人的には少しもいいことがコロナでなかったように思います。それでも、老人になってもどうにか「五体満足?」で感染もせず、生きていることに感謝しなくては・・・と思います。
最近、仕事のメールで末尾に「生き延びよう!」というメッセージありました。これまでにないメッセージに驚きましたが、考えてみれば「こうなるのか」とい気持ちもありますか・・・。
読者の皆さには2020年はどんな年だったのでしょうか。私にとっては、2020年は最悪の年でありました。まあ、身近な人たちが亡くなったりすることもありましたがあらためて「こんなにも日本の政治がいいかげん」だったとは、コロナ感染の年に知ったこともあります。そして、資本主義の世の中というのはこんなにも残酷だったということを身近感じた年でもありました。知ればしるほど、地球の危険は秒読み段階のようにも思えました。

とはいえ、それで「生き延びよう!」という言葉が冗談ではなくなってきた年末にもなってきたことも事実でしょうか。
さて、今年の更新は今日で終わりです。来月は「開店休業」状態になります。再雇用で忙しさは、正規社員よりもないのですが、気忙しさは同じです。
とはいえ、まだ12月があります。今年もいろんなことがあったはずなのですが、思い返せば、「コロナに始まりコロナで終わり」そうです。それでも、そのコロナがまだ身近なところでの感染者がないということが救いなのでしょうか。皆さんのところではどうでしょうか?。都会は地方とちがい感染のリスクは高い日常です。若い人以上にリスクの高さを認識し生活することぐらいです。
最近、都知事の政府が「GoToキャンペーン」について話されて、65歳以上の高齢者に自粛を呼びかける報道がされました。「何とバカなこと言っている」とも思いました。感染でいちばん危険なのは高齢者なのはわかりなすが、感染させるいちばんの理由は『移動』であることを忘れているのでしょうか。ここは高齢者ではなく、若い人の感染させない行動が大事なのでは思います。すでに、老人は、今年は身も心も自粛ムード一色なのです。そんなこともわかってか、わかってないのか、意識的に経済活動の中心である若者の自粛を呼びかけていないことに不満がつのります。
そんな気がします。
一年読んでくださった皆様ありがとうございました。読んでいて「誤字・脱字」が多いこともあったと思います。そんなところはご容赦をお願いします。
来年は、知人・友人とコロナを気にせず飲みにいける年になるといいですね。
また、元気であれば2021年から始まります。一年間ありがとうございました。
それにしても、ここにきてコロナ感染が増えています。「病院が逼迫」という見出しがよく見かけます。これには、これまでの医療に対する政治の対応の怠慢という人災がつくりあげたものだと思いますが・・・。
それはお元気で・・・。ありがとうございました。