池内紀著『すごいトシヨリBOOK トシをとると楽しみがふえる』
2017年8月15日・毎日新聞社刊
自分自身が年寄りでありながら、自分では意外と看過していることが多いようだ。
私自身、老いを自覚したのは、75歳の後半に至ってからであった。
「後期高齢者」の制度が始まったのは、私がちょうど75歳になった年である。
制度上の問題であるとしても、高齢者を前期と後期に区分するとは………と、いささか不快に感じるほど、前半はまだ元気があった。が、75歳の後半になるころから、少しずつ様子が変わってきた。私は、まさに後期高齢者であると感じるようになった。
老い方は、随分個人差のあるものだろう。
が、私の場合、来し方をふり返ってみると、そのあたりから、否応無く老いを感じる身となったのである。
それ以来、明らかに人生の下り坂を急下降している感じである。
79歳の春、帯状疱疹を患い、一段と老いは加速した。
83歳の春ころから、日々体に違和感を覚え、もう余生は長くはないと、身辺整理をした。(究極の片づけは終わっていないのだけれど。)
その年の暮れには、今お世話になっている施設への入居を決断した。
生活の拠点は家におきながら、やや半々、少しばかり家にいる日数が多いという歳月を二年間送ってきた。
そして、今、86歳の日々を歩んでいる。いつが終着駅とも分からぬままに。
池内紀さんは、1940年生まれでいらっしゃるから、私に比べれば、まだお若い。
本の副題に、<トシをとると楽しみがふえる>とある。遊び心で、老いを眺められるゆとりをお持ちである。
この本を出版されたのは、作者77歳の時である。
人生、それからの下りが大変なような気もする。
この本には、私自身の老いからくる日々の体験、そして、施設で暮らしておられる様々な人の老いの実態を見ながら、日ごろ感じていることなども、たくさん書いてあった。人によって、みな個性が違うように、老いの姿や形も違っている。しかし、似ているところ、共通項も実に多い。
本を読みつつ、私のことが書かれいると感じる場面もたくさんあった。
老いの姿には、確かに類似点が多いのだろう。
<われわれ年寄りは、自分の責任で老いを考えて、自分の考えを持って老いていきたいものです。>という筆者の意見は尤も(もっとも)と思いつつ、老いは、自分の考えを持てなくする 非情な一面を持っているのだとも思う。
その意味からすれば、(当然のことだが)この本は老いつつも、自分の考えを持てる人に向かって発信されているといえる。
<群れるのをやめて、一人ひとりが過去を背負い、一人ひとりが自分の老いを迎えるのが本来であって、群れて、集まって、はしゃいで、というのは老いの尊厳に対する侮蔑ではないか。>
<群れるのをやめて、一人ひとりが自立する。そうすれば、何かしらのプラスが生まれるんじゃないか。>
その通りだと考えるし、私自身は群れることが苦手であるが、群れて世話してもらわないと24時間を過ごせない老人が増えているのも、現実である。
<老化早見表>が、三角形で表してある。
底辺にカテゴリ3、順次上に向かって、カテゴリ2と進み、カテゴリ1で頂点を極め、<忘却忘却症>となっている。
カテゴリ3になれば、自己判断力をなくしてしまうのであろう。そこまでは登りつめてはいないつもりだが、カテゴリ2では、当てはまるものがいろいろある。年相応の認知症は、十分深まっている。
<死というのは恵みであり、古いものが新しいものと入れ替わる非常に大切な変わり目のようなもの。>
そういうふうに死を受け止めれば、死もまた楽し(!?)。
引用と感想は、これくらいにしておく。
作者の趣味であるイラストで、過去の思い出を記されたページもあり、老境にあるものにとっても、考えたり笑いつつ楽しんだりできる本であった。
2017年8月15日・毎日新聞社刊
自分自身が年寄りでありながら、自分では意外と看過していることが多いようだ。
私自身、老いを自覚したのは、75歳の後半に至ってからであった。
「後期高齢者」の制度が始まったのは、私がちょうど75歳になった年である。
制度上の問題であるとしても、高齢者を前期と後期に区分するとは………と、いささか不快に感じるほど、前半はまだ元気があった。が、75歳の後半になるころから、少しずつ様子が変わってきた。私は、まさに後期高齢者であると感じるようになった。
老い方は、随分個人差のあるものだろう。
が、私の場合、来し方をふり返ってみると、そのあたりから、否応無く老いを感じる身となったのである。
それ以来、明らかに人生の下り坂を急下降している感じである。
79歳の春、帯状疱疹を患い、一段と老いは加速した。
83歳の春ころから、日々体に違和感を覚え、もう余生は長くはないと、身辺整理をした。(究極の片づけは終わっていないのだけれど。)
その年の暮れには、今お世話になっている施設への入居を決断した。
生活の拠点は家におきながら、やや半々、少しばかり家にいる日数が多いという歳月を二年間送ってきた。
そして、今、86歳の日々を歩んでいる。いつが終着駅とも分からぬままに。
池内紀さんは、1940年生まれでいらっしゃるから、私に比べれば、まだお若い。
本の副題に、<トシをとると楽しみがふえる>とある。遊び心で、老いを眺められるゆとりをお持ちである。
この本を出版されたのは、作者77歳の時である。
人生、それからの下りが大変なような気もする。
この本には、私自身の老いからくる日々の体験、そして、施設で暮らしておられる様々な人の老いの実態を見ながら、日ごろ感じていることなども、たくさん書いてあった。人によって、みな個性が違うように、老いの姿や形も違っている。しかし、似ているところ、共通項も実に多い。
本を読みつつ、私のことが書かれいると感じる場面もたくさんあった。
老いの姿には、確かに類似点が多いのだろう。
<われわれ年寄りは、自分の責任で老いを考えて、自分の考えを持って老いていきたいものです。>という筆者の意見は尤も(もっとも)と思いつつ、老いは、自分の考えを持てなくする 非情な一面を持っているのだとも思う。
その意味からすれば、(当然のことだが)この本は老いつつも、自分の考えを持てる人に向かって発信されているといえる。
<群れるのをやめて、一人ひとりが過去を背負い、一人ひとりが自分の老いを迎えるのが本来であって、群れて、集まって、はしゃいで、というのは老いの尊厳に対する侮蔑ではないか。>
<群れるのをやめて、一人ひとりが自立する。そうすれば、何かしらのプラスが生まれるんじゃないか。>
その通りだと考えるし、私自身は群れることが苦手であるが、群れて世話してもらわないと24時間を過ごせない老人が増えているのも、現実である。
<老化早見表>が、三角形で表してある。
底辺にカテゴリ3、順次上に向かって、カテゴリ2と進み、カテゴリ1で頂点を極め、<忘却忘却症>となっている。
カテゴリ3になれば、自己判断力をなくしてしまうのであろう。そこまでは登りつめてはいないつもりだが、カテゴリ2では、当てはまるものがいろいろある。年相応の認知症は、十分深まっている。
<死というのは恵みであり、古いものが新しいものと入れ替わる非常に大切な変わり目のようなもの。>
そういうふうに死を受け止めれば、死もまた楽し(!?)。
引用と感想は、これくらいにしておく。
作者の趣味であるイラストで、過去の思い出を記されたページもあり、老境にあるものにとっても、考えたり笑いつつ楽しんだりできる本であった。
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