『現代の詩人 7 茨木のり子』には、代表的な詩以外に、4篇の散文が載っている。
その一つに、「美しい言葉とは」と題した文章がある。
読み始める前に、その課題を私自身に投げかけ、私ならなんと答えるだろうと、まず考えてみた。
老化した頭には、これぞという主張もうまくまとまらないまま、詩人の考え方にすがる思いで、提示された内容を読んでしまった。自分では、うまく言えないことを、さすがに詩人は私の心の底の方にある思いを、うまく代弁してくれたかの如く、次のように書いている。ポイントだけ、まとめておくことにする。
第一に、その人なりの発見を持った言葉は美しいと思う。どんな些細なことであっても。
第二に、正確な言葉は美しい。正確さへのせめて近似値に近づこうとしている言葉は美しい。研究論文であっても、描写であっても、認識であっても。
第三に、体験の組織化ということがある。これは人間の言葉を、言葉たらしめる一番大切な要素に思われる。
骨子だけを抜き書きすれば、以上のようになる。実際の文中には、具体例を挙げながら、説得力のある内容に仕上げている。
これだけではもの足りないので、私が読みつつ、アンダーラインを引いた部分も、書き抜くことにする。
※ 美しい日本語に対する発言や考察が、ひどく乏しいのは、どういうことなのだろう。まずいものを食べたときは「まずい、まずい」と大騒ぎするが、おいしいものの通過するときは、割りにけろりとしているように、美しいことばというものは、生活の隅々で意識されず、ひっそりと息づき、光り、掬いがたいものであるためか。
それとも美しい言葉とはどんなものか? というイメージが、私たちにきわめて貧しいためなのだろうか。
※ いつまでも忘れられない言葉は、美しい言葉である――二つは殆んど同義語のように私には感じられてならない。忘れられないというのは、よくもわるくも一人の人間のまぎれもない実在を確認したということを意味するのかもしれない。たとえこちらの胸に棘のように突きささっているものであっても。
また、人間の弱さや弱点を隠さなかった言葉は、おおむね忘れがたいし、こちらの胸にしみとおる。
※ 言葉とは、その人間に固有のもので、とうてい切離すことができないものではなかろうか。
美しい言葉だと聴いて、そっくりそのまま真似してみても、その人と同じ美しさを維持することは絶対に出来ない。…略…「文は人なり」と同じように「言葉は人なり」で、人格の反映以外のなにものでもない。普遍的に美しい言葉などというものはあるのだろうか。非常に疑わしいのである。
※ いにしえより、これだけの記録愛好癖を持った民の言葉が、力強さやずしりとした重みに欠けているのは、体験の組みたてに、自他の体験の組織化に大いなる欠陥があったのだとしか思われない。
※ この詩(石垣りんの「崖」)は戦後十五年の時点で書かれたことがわかるが、美しくも凄味のある言葉を生んだのは、戦後まもなく公開されたサイパン島玉砕の記録映画(アメリカ側による)をたぶん、石垣りんが見てのち、十五年近くもそのショックを持続させてきたことと、その体験をみずからの暮しの周囲のなかで、たえず組みたてたり、ほぐしたりしながら或る日動かしがたく結晶化させたものだからだろうと思う。
私もこの実写記録を見た。…略…ただ私はこの体験をうまく組みたてられなかったから尚のこと「崖」という詩に感動するのである。
[補足 石垣りんの「崖」詩
戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。
美徳やら義務やら体裁やら
何やら。
火だの男だのに追いつめられて。
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)
それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。 ]
※ この詩を読むと、体験の組織化だけでなしに、「発見」「表現の正確さ」をも兼ねそなえていることがわかる。この詩に限らず私がはたと立止まってしまった美しい言葉たちは、おおむねこの三つの要素が重なりあっている場合が多い。
ふつう一般の日常会話もそうだが、また、文学作品についても当てはまることだろうと思う。すくなくとも私はそうである。発見のない、表現の不正確な、体験の組織化の果たされていない作品は読むに耐えない。
以上、心に焼きつけておきたい表現を書き抜いた。
ものを書いていく上で、一番難しいのは、第三の点であろう。そのことを心して、少しでもましな文章を記してゆきたいと思う。
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