ぶらぶら人生

心の呟き

Oさんとのお別れ

2016-09-11 | 身辺雑記
昨朝、資源ゴミを出した後、再びベッドへもどり、いつものように新聞を読んだ。
朝日新聞<オピニオン&フォーラム> 命の値段 
  高額のがん治療薬をめぐり、薬剤費や医療費のあり方が議論されている。
  治せる病気は治したいけれど、負担には限りがある。治療や延命にかける費用の「適正」額は存在する
  のか。

という問題についての意見が掲載されていた。
(相良暁<「安く創薬」を目指す時代に> 土井丈朗<費用対効果 指標が必要> 田村恵子<治療 生き方から考えて>
記事内容は、上記3人の提言であった。(< >の中は、見出し語)


がん患者や高齢者の増える中、課題はいろいろだな、と思いつつ記事を読み終えたところへ、電話の呼び出し音が鳴った。
Oさん宅からであった。
<母が、昨夜、亡くなりました>と。

95歳のOさんは、お盆過ぎから食欲が減り、次第に衰弱され、9日の9時40分に、安らかに息を引き取られたという。
暑い夏をどうしていらっしゃるのだろう? と、夏の日々、幾度も思いながら、私自身の調子もすぐれず、もう少し涼しくなったら…と、思っていた矢先の訃報であった。
その知らせに接し、心に去来した思いは、春先からお見舞いに行きたいと思いながら、果たし得なかったことへの悔いであった。

昨年の暮れ、奇(く)しくも、Oさんの誕生日〔12月25日・95歳〕にお見舞いし、言葉を交わした。
それが最後となろうなどとは、微塵も考えていなかった。

しかし、訪問した日は、体調がすぐれず、自室のベッドで休んでおられた。
看護師の話では、微熱があるとのことだった。

それでも、私の姿を見ると、身を起こそうとされた。
それを制し、ベッドに休んでもらった。
体調に悪影響があってはいけないと考え、長居はせずにお別れした。


昭和48年(1973年)にOさんを知り、それ以来、公私にわたってお世話になった。
特に、父が病んだ時には、住み込みで両親をみていただいた。
そのお蔭で、私は勤めを続けることができたのだった。

(が、私自身、公私の生活に疲れ、平成元年に定年を待たずに辞職し、老いた父母と生活を共にした。
 母は平成4年に、父は6年に他界した。)

父母亡きあとも、Oさんは、季節の美味佳肴(ワカメ・栗・サザエなどなど)を、毎年、届けてくださった。

「海がきれいだから」と誘われ、Oさん宅へ出かけ、家裏の丘から海を眺めた日もある。
水仙公園まで、一緒に歩いたことも、数度におよんだ。
Oさん宅には花が多く、花見にも、よく誘ってくださった。
お茶を飲みながら、Oさん宅でも、私の家でも、よく話した。

そのOさんとのお別れである。
寂しく哀しいことだが、施設へ入居なさった時点で、いずれお別れのときが来るだろう、とは思っていた。
健康に自信のない私が先かもしれないと思う日もあったが、一回り年上のOさんの方が、それが順当であるかのように、先に逝かれた。

昨日の10時過ぎ、弔問に出かけた。
Oさんは、すでに棺の中の人となり、永遠の眠りについておられた。
天寿を全うされ、安らかな最期であったことを伺い、安堵した。

Oさん宅に向かう途次、ツクツクホーシの声を聞いた。
S寺の裏山で鳴く法師蝉であった。

法師蝉は、夏の終焉を告げる蝉であり、その声は元来、哀愁を帯びているのだが、昨日はいっそうもの悲しく、ふと涙ぐんでしまった。
Oさんとの永訣が、そうさせたのであろう。


S寺と裏山、そして空と雲(9月10日)



今夕、6時からS寺で営まれた通夜に出かけ、お別れをしてきた。
お寺さんの話で、初めて知ることが多かった。
私がOさんにお会いした1973年以前のことについては、全く知らなかった。
ご主人の事故死のことも、勿論Oさんのお父上のこと、子息子女の人数なども。

Oさんも私も、噂話などを好むタイプではなかった。
個人の哀しみに触れるような話は避けていたように思う。

一体、何を話していたのだろう?
句作をなさっていたので、言葉や草花の話などは、よくした。
優しい人だったが、いわゆる<~ぶる>ところが全くなかった。
気働きのできる人でもあった。
例えば、栗をプレゼントしてくださるときも、茹で栗にするものとは別に、栗ご飯合用には、皮むきして持ってきてくださるのだった。
皮むきを億劫がる、私の性(さが)を見通して。

S寺の草取りによく行かれることは、聞いていた。
(それが信仰と深く関わることとは、考えていなかったけれど。)

わが家の庭の草取りも、よく手伝ってくださった。
「ごめんなさい。草だらけの庭にして…」
と、言えば、
「お母さまは、草一本生やさない方でしたが…」
と、笑っておられた。
<几帳面な母はそうだったろうな>と、同意したものだ。
一方で、私のいい加減さを非難されているわけではないのだった。
<母は母>、<私は私>と、Oさんも思っておられ、私もそう思っていた。

ただ一つだけ、Oさんに関連して、苦い思いをしたことがある。
(それについても、ここに書くことで、忘れてしまいたいと思う。)

昭和から平成の初めには、現在のような介護制度がなかった。
(タブレットで調べてみると、その制度は2000年4月から始まったとのこと。)

当時、病臥の母を老齢の父が世話し、私は勤めに出ていた。
父に外出の用があるときには、Oさんに母をみていただいていた。
その父が突然病臥して以来、Oさんに、過大な負担をかけることになってしまったのだ。

親しい人だからと言って、<ただ働き>していただくことなど、できるはずもない。
お礼をどうすればいいかを考え、賃金の標準について、派遣会社に電話して尋ねた。
住み込みで24時間お手伝いしていただく場合と日当について。

その賃金で、仕事を引き受けていただけるかどうかをOさんに相談し、承諾していただいた。
既述したように、一時は、家に住み込んでいただいた。
Oさん一人では大変なので、もう一人、今は亡きSさんにも、お手伝いをお願いしていた。
そんな状況が、幾年か続いた。

あれは、いつのことであっただろうか。
(この夏、私自身の店じまいを思い立ち、過去の日記帳をすべて処理してしまったので、確かめようもないのだが…。)

比較的近い場所に(町内は違うけれど)、父の同級生のOGさん(年齢は父より2歳上と聞いていた)夫妻が住んでおられた。
その方が亡くなられたとき、父に代わって、私が弔問に出かけた。
私は、その夫妻と言葉を交わしたことはなく、OG未亡人と話すのも、その時が初めてだった。
(腰を直角に曲げ、杖を突いて歩いておられる姿は、よく見かけていたのだが…)

お悔やみを言って、辞去しようとしたときだった。
いきなり、
「Oさんを、ただ働きさせるなんて、非常識ではありません?」
と、言われたのだ。
私は言葉を失い、唖然とした。

     …………

Oさんから聞かれたのであれば、対応のしようもあった。
が、そうではなく、K美容院で、聞いた話だと言われた。

その帰途、私は、ことの成り行きを考えた。
<なるほど!>と、思い当たる節があった。

実は、Oさんから、幾日か前に、
「たくさんのお手当ていただいていること、人にはもらっていないことにしておいても、いいでしょうか」
と、私の意向を質(ただ)されたことがあったのだ。

給金のことが世間に知れ、扶養手当が打ち切られると困るので…、という理由からであった。
まだ、ご子息が現役で、働いておられる時期であった。
私の家でのお手伝いは、期限を定かにできない仕事である。
私は、困惑することもなく、簡単に承諾した。

それが原因で、後に、OGさんに非難されることになろうなどとは、つゆ知らず。
田舎の美容院では、いろいろな噂話(あること、ないこと)が、飛び交うのかもしれない。

K美容院で、Oさんが、ちらっと、
<お手伝いはしているけど、お金はもらっていない>と、もらされたのでは…?
(私と口合わせ済みのこととして。)

それを真に受けられた美容師さんが、OGさんに語られたとしか思えない。
さらに、いろいろな人にも、同様の、あり得ない話が、真実めいて伝えられたのかもしれない。(これは、あくまでも推測。)
以来、<田舎は嫌だ>と思う気持が、ますます強くなった。

夏目漱石『草枕』冒頭の心境である。
 <山路を登りながら、こう考えた。……とかくに人の世は住みにくい。 …」>

 (かといって、引っ越す元気もないのが現実である。
  ひっそりと、人とのかかわりを少なくして、生きるしかないという心境である。)

謂れのない中傷を受けたのは、昭和の末年か、平成の初めころの話である。
Oさんを責める気持ちなど、微塵もない。
だから、OGさんから非難されたことを、Oさんには伝えていない。
OGさんも、とっくに亡き人である。

しかし、私の心の奥には、小さなシミとして残っている。
(この際、可能なことなら、完全に忘れてしまいたい。)

 (現在、介護制度とは無関係に、人のお世話になる場合、いくらの給金が必要なのだろう?
  私が派遣会社に尋ねた当時は、24時間勤務が1万円、昼間だけなら7千円か8千円であった。
  OさんやSさんには、その金額をお礼として渡していた。
  私が支払える金額ではなかったので、父の了承のもと、父の預金を下して支払っていた。)


Oさんも他界され、いつも心にかけてくださる人の存在が、年々少なくなってゆく。
自立して、生き永らえていることに感謝しつつも、寂しさは募るばかりである。
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秋の野草

2016-09-11 | 身辺雑記

Oさんの宅への道を、久しぶりに歩いた。
たくさんの葛の花に出合うことができた。
しかし、足場が悪く、近づいての撮影はできなかった。

サフランに似た花とツユクサも見かけた。







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小・中・地区民運動会(9月10日)

2016-09-11 | 身辺雑記
昨日は、居間にいる私の耳に、絶え間なく、マイクで放送される音声が届いた。
内容までは分からないけれど、進行係の声であろう。

中学校の校庭では、小・中・地区民合同の運動会が行われているのだった。
比較的涼しい、秋日和の好天に恵まれて。

6時の号砲で目覚め、資源ゴミを出すため起き出した。

朝の大気が、秋めいてきた。
近所の人に出会い、
「涼しくなりましたね」
と、挨拶すると、
「寒いくらい」
と、返事が返った。
確かに、ひんやりとした朝であった。

見上げた空には、うろこ雲があった。
雲量は、やや多めである。
が、運動会に支障はないだろうと、朝の空を眺めた。

(午後の3時前から、完全な曇り空となった。
 しかし、運動会は、無事終了したようだ。)








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