ぶらぶら人生

心の呟き

花は咲けども

2010-03-05 | 散歩道
 曇り日だが暖かい。
 北浜から土田の浜に向かって歩く。
 見事に花をつけた梅の木を見つけた。(写真①)

 土田海岸を背にして坂を上ると、廃屋の前に、数本の桜の木があり、毎年、他の桜に先立って花をつける。
 今年も、早々に開花していた。(写真②)
 花の後、見事な桜桃をつける木である。

 また、北浜から土田に抜ける道には、例年どおり大根の花が咲いていた。(写真③)
 
 年年歳歳、花は、ほぼ時期を違わず、同じ地に咲く。
 が、人は、そうはいかない。
 私は今日、かなり鬱屈した哀しい思いで、時を刻んだ。
 散歩に出かけたのも、それを紛らすためでった。
 
 
            ①

            ②

            ③


  昨夜、ローカルニュースで、知己の交通事故が報じられた。
 学生時代の同期生の名前が告げられ、大事故の現場が、画面に生々しく映し出されたのである。住所、氏名、年齢から、他の人であろうはずがない。
 心の中で間違いであってくれと念じる気持ちがあり、すぐにはニュースの事実を受け入れ難かった。しかし、報道に誤りはなかった。
 
 すでに起こったことは、どうにもならない。
 にも拘らず、昨夜来、心の均衡を失し、平静であろうとしても、知己の人生に起こった不幸の周辺を巡ってしまうのだ。
 一寸先は闇!
 
 知己は、一命を取り留めているとのことだが、助手席のご主人は事故後に亡くなられたと報道された。
 恢復に向かったとしても、知己の未来に、今までどおりの日常は再び戻らないいう事実が、やりきれない。
 賀状にも、<今年こそは、会ってお話しましょう>と、綴ったのだが、その可能性は、覚束なくなってしまった。
 私自身のことも含め、いよいよ明日のことは分からない。
 「白骨の御文書」の一節、<我やさき、人やさき、けふともしらずあすともしらず…>を呟き、無常のはかなさを感じずにはいられない。

 それでも、私は私の今日を生きるしかないのだけれど。
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ウミウだろうか

2010-03-05 | 散歩道
 北浜に向かっているとき、遥かな砂浜に黒い鳥の姿を見かけた。
 カラスかしら? カラスにしては大きすぎる、と目を凝らす。
 羽を広げて佇んでいる。
 近づくにつれ、カラスでないことは歴然とした。
 ウミウだろうか?
 群れをなさずにいる、一羽の鳥。
 何を考え、あのポーズをとっているのやら?
 と、思っているうちに羽を畳んだ。
 後ろから近づく私の存在など、全く意に介さぬふうであった。
 大自然の一点景として、実に悠然としている。
 

             

             
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土筆の坊やと鶯の初音

2010-03-05 | 散歩道
 昼過ぎ、散歩に出かけた。
 途中、学校帰りの小学生と一緒になった。
 物怖じすることなく、よく話し相手になってくれる二年生の男の子だった。

 「土筆の坊や、もう出てるかしら?」
 「出ているよ」
 「どこで、見つけたの?」
 「中学校の前、たくさんあったよ」

 そんな単純な会話をし、小学生の家近くで別れた。

 もう春の陽気である。
 先日来、そろそろ土筆の季節ではあるまいかと思っていた。
 私は、土筆を見つけるのが下手である。
 毎年、やっと見つけた頃には、すでに長けた土筆となっていることが多い。
 ところが、今日は、道路脇の草地に、今年の土筆を見つけることができた。
 一本、二本とまばらに生えていた。(写真)
 頼りなげではあったが、地上に、春を告げる使者を見つけて、嬉しくなった。 

            

 今日は、<土筆の記念日>に併せ、<鶯の初音記念日>ともなった。
 北浜に向かって歩いているとき、木立の中で囀る鶯の声を聞いた。
 思わず足を止め、耳を澄ました。
 海辺の丘の、藪を住処にしている鶯が、幾羽かいるらしい。
 その声は、絶え間なく耳に届いた。

 家の近くで、鶯の鳴き始めるのも遠くないだろう。

 (3月7日追記
 昨日、山口に行くため、朝、駅に向かった。その途次、中学校の裏山から、鶯のさえずりが聞こえてきた。
 海辺の山にも、国道脇の山にも、鶯の季節が訪れたのだ。
 もうすう、家の庭にもやってきて、私を喜ばしてくれるだろう。)
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