過去のブログを確かめてみると、草花舎で久しぶりに、S寺のGさんに会ってお話したのは、3月9日であった。
仏事のあれこれについて、お話を伺ったあと、仏教や人の生死を話題とした。
そのとき、『納棺夫日記』を読んだ感想を聞かせてくださった。
<筆者が、納棺夫としての私的体験を書いた部分はともかく、親鸞の捕らえ方、浄土真宗に対する考え方には肯けるものがあった>
といった内容だった。
映画<おくりびと>が、アカデミー賞を受けて話題となり、同時に、主演の本木雅弘さんが、15年前にこの本と出会い感動したことが、映画製作の背景にあることも話題となった。
私は浄土真宗の門徒ではあるが、信仰もいい加減だし、教義についても、それを窮めたことがない。ただ人間の生き方について考えるときには、今までに何度か、ひとりでに宗教や哲学などの本を繙いてきた。が、結局、その難解さに躓き、生半可な読書に終わることが多かった。関心はありながら、納得のゆく理解はできないままに……。
このたび、Gさんの話を聞いたとき、青木新門著の『納棺夫日記』を読んでみようと思った。その親鸞観に触れてみたくて。
早速、パソコンで調べ注文した。
<おくりびと>のDVDも、少し待てば入手できるというので、『納棺夫日記』と一緒に届けてもらうことにした。
先日、本とDVDを入手した。(写真①)
早速、青木新門著『納棺夫日記』<増補改訂版>(文春文庫)を読み、<おくりびと>も見た。
『納棺夫日記』は、第一章 みぞれの季節 第二章 人の死いろいろ 第三章 ひかりといのち からなっている。 さらに<『納棺夫日記』を著して>の章が増補されている。
第一、二章は、青木新門氏自身の体験に基づいて書かれ、私小説的要素が強い。小説というには、その構成力が弱く、どちらかといえば随想的である。ただ、納棺夫(おくりびと)としての体験があったからこそ、死生観は深く追求され、宗教についても多くの書を読んで考え、親鸞の説く教えについても、窮められている。
第三章の<ひかりといのち>に、その論考は詳述されている。そして、それは読者に、なるほどと肯かせる内容となっている。
元来、宗教に関する表現は、それ自体難解である。小説やエッセイを読むと同じようには読み難い。しかし、この本では、その難解さが、筆者の理解を介して、私の心にも届くように書いてあるのだ。
難解なことを、自らの言葉で人に説き聞かせるのは、容易なことではない。よほど理解が深くなければ、いっそう迷路に導くことになる。その点、青木氏の宗教観、死生観は、徹底した理解や洞察に基づいて築き上げられたものである。だから、人の心に届くのだ。
S寺のGさんが、確かな親鸞観だと言われた理由もそこにあるのだろう。
今まで読んだ宗教書の中では、最も心になじむ本であった。
一読して、なるほどと少しは親鸞や浄土真宗が分かったような気にさせられたけれど、私の視界が急に開けたわけではない。親鸞の説くところの奥義が、そんなに簡単に理解できるものではないだろうし、分かったような気になること自体が、不遜なことでもあろう。
今後、この本の第三章は、再読三読することになるかもしれない。
生きているかぎり、避けて通れない生き方を問いかける書でもあるから。
映画<おくりびと>は、納棺夫(おくりびと)を職業とする人を通し、人間の生き方や生死に目を向け、その特異な視点で描かれた新鮮な映画であった。しみじみと生と死を、改めて考えさせてくれる映画である。
私は、映画通ではなく、見方・感じ方はひどく狭隘で、私的である。
客観的に評することなどできないが、心に深い感銘を残す作品であった。大きな賞を受けたこととは関わりなく……。
舞台となった山形の風景が美しく、その雪景色など静謐な世界にも魅了された。心情的にも、情景的にも、日本らしさが存分描かれていた。
子供の頃には、死は不可思議で怖い現象であった。墓所も、無気味であった。(今の子どもたちは、どのように感じているいるのだろうか?)
大人になった今はまるで違う。死は、忌み嫌う対象ではなくなった。
この変化はなんだろう?
単に年をとったということなのか、死を自分なりに受け止められる大人になったということなのだろうか?
ただ、死に至るプロセスにどんな苦痛が課せられるのか、そのはかり知れないことを思うと、臆病な私はやはり憂鬱な気分だし、どうぞいじめないで、生を終わらせて欲しいと念じてしまう。
友人から電話があり、今日また、知己の訃報に接した。そう親しくしていた人ではないが、ひと時職場が一緒だった。私より若く、私より格段に元気そうな人であった。幽明界を異にした知己の、死化粧の施された顔を想像しようとしても、20余年前の元気な顔しか思い描けない。
今朝も、<悲しみ>欄を見たはずだがと思いながら、畳んで片付けた今日の新聞を取り出して、改めて知己の死を確認した。
そういえば、私は最近、年齢だけに目を向けていることが多いように思う。
私の年齢を基準に、同年の死には人ごとならぬ思いを抱き、年下の死には、若い人なのにと悼みを深くし、私より年長の人が、数の上では断然多数を占めるのを見て、わずかに安堵の念を抱いたりして……。
新聞に記載された死没の年齢から、老少不定の常なることに思いを馳せるに留まり、あまり名前は見ていなかったのだ。そこで今朝も、知己の名前を、見落としてしまったらしい。
あらゆる死別は、今後、出会い得る可能性が完全に奪われることである。
それが悲しい。
①
裏庭の鉢に、今年も、<チオノドクサ>の花が咲いた。(写真②)
球根が、少しずつ増えていそうな気がする。
②
仏事のあれこれについて、お話を伺ったあと、仏教や人の生死を話題とした。
そのとき、『納棺夫日記』を読んだ感想を聞かせてくださった。
<筆者が、納棺夫としての私的体験を書いた部分はともかく、親鸞の捕らえ方、浄土真宗に対する考え方には肯けるものがあった>
といった内容だった。
映画<おくりびと>が、アカデミー賞を受けて話題となり、同時に、主演の本木雅弘さんが、15年前にこの本と出会い感動したことが、映画製作の背景にあることも話題となった。
私は浄土真宗の門徒ではあるが、信仰もいい加減だし、教義についても、それを窮めたことがない。ただ人間の生き方について考えるときには、今までに何度か、ひとりでに宗教や哲学などの本を繙いてきた。が、結局、その難解さに躓き、生半可な読書に終わることが多かった。関心はありながら、納得のゆく理解はできないままに……。
このたび、Gさんの話を聞いたとき、青木新門著の『納棺夫日記』を読んでみようと思った。その親鸞観に触れてみたくて。
早速、パソコンで調べ注文した。
<おくりびと>のDVDも、少し待てば入手できるというので、『納棺夫日記』と一緒に届けてもらうことにした。
先日、本とDVDを入手した。(写真①)
早速、青木新門著『納棺夫日記』<増補改訂版>(文春文庫)を読み、<おくりびと>も見た。
『納棺夫日記』は、第一章 みぞれの季節 第二章 人の死いろいろ 第三章 ひかりといのち からなっている。 さらに<『納棺夫日記』を著して>の章が増補されている。
第一、二章は、青木新門氏自身の体験に基づいて書かれ、私小説的要素が強い。小説というには、その構成力が弱く、どちらかといえば随想的である。ただ、納棺夫(おくりびと)としての体験があったからこそ、死生観は深く追求され、宗教についても多くの書を読んで考え、親鸞の説く教えについても、窮められている。
第三章の<ひかりといのち>に、その論考は詳述されている。そして、それは読者に、なるほどと肯かせる内容となっている。
元来、宗教に関する表現は、それ自体難解である。小説やエッセイを読むと同じようには読み難い。しかし、この本では、その難解さが、筆者の理解を介して、私の心にも届くように書いてあるのだ。
難解なことを、自らの言葉で人に説き聞かせるのは、容易なことではない。よほど理解が深くなければ、いっそう迷路に導くことになる。その点、青木氏の宗教観、死生観は、徹底した理解や洞察に基づいて築き上げられたものである。だから、人の心に届くのだ。
S寺のGさんが、確かな親鸞観だと言われた理由もそこにあるのだろう。
今まで読んだ宗教書の中では、最も心になじむ本であった。
一読して、なるほどと少しは親鸞や浄土真宗が分かったような気にさせられたけれど、私の視界が急に開けたわけではない。親鸞の説くところの奥義が、そんなに簡単に理解できるものではないだろうし、分かったような気になること自体が、不遜なことでもあろう。
今後、この本の第三章は、再読三読することになるかもしれない。
生きているかぎり、避けて通れない生き方を問いかける書でもあるから。
映画<おくりびと>は、納棺夫(おくりびと)を職業とする人を通し、人間の生き方や生死に目を向け、その特異な視点で描かれた新鮮な映画であった。しみじみと生と死を、改めて考えさせてくれる映画である。
私は、映画通ではなく、見方・感じ方はひどく狭隘で、私的である。
客観的に評することなどできないが、心に深い感銘を残す作品であった。大きな賞を受けたこととは関わりなく……。
舞台となった山形の風景が美しく、その雪景色など静謐な世界にも魅了された。心情的にも、情景的にも、日本らしさが存分描かれていた。
子供の頃には、死は不可思議で怖い現象であった。墓所も、無気味であった。(今の子どもたちは、どのように感じているいるのだろうか?)
大人になった今はまるで違う。死は、忌み嫌う対象ではなくなった。
この変化はなんだろう?
単に年をとったということなのか、死を自分なりに受け止められる大人になったということなのだろうか?
ただ、死に至るプロセスにどんな苦痛が課せられるのか、そのはかり知れないことを思うと、臆病な私はやはり憂鬱な気分だし、どうぞいじめないで、生を終わらせて欲しいと念じてしまう。
友人から電話があり、今日また、知己の訃報に接した。そう親しくしていた人ではないが、ひと時職場が一緒だった。私より若く、私より格段に元気そうな人であった。幽明界を異にした知己の、死化粧の施された顔を想像しようとしても、20余年前の元気な顔しか思い描けない。
今朝も、<悲しみ>欄を見たはずだがと思いながら、畳んで片付けた今日の新聞を取り出して、改めて知己の死を確認した。
そういえば、私は最近、年齢だけに目を向けていることが多いように思う。
私の年齢を基準に、同年の死には人ごとならぬ思いを抱き、年下の死には、若い人なのにと悼みを深くし、私より年長の人が、数の上では断然多数を占めるのを見て、わずかに安堵の念を抱いたりして……。
新聞に記載された死没の年齢から、老少不定の常なることに思いを馳せるに留まり、あまり名前は見ていなかったのだ。そこで今朝も、知己の名前を、見落としてしまったらしい。
あらゆる死別は、今後、出会い得る可能性が完全に奪われることである。
それが悲しい。
①
裏庭の鉢に、今年も、<チオノドクサ>の花が咲いた。(写真②)
球根が、少しずつ増えていそうな気がする。
②