ぶらぶら人生

心の呟き

写真で綴る古都の旅 4 (常照寺)

2009-04-14 | 旅日記
 4月7日の午前中、洛北にある常照寺を訪れた。
 京都駅前からバスで四条大宮までゆき、さらにバスを乗り継いで。
 常照寺については、ガイドブックは次のように記している。
 <日蓮宗の寺院。元和2年(1616)、本阿弥光悦の寄進により、日乾上人を開基として創建された。名妓・吉野太夫ゆかりの地としても知られており、彼女の寄進した吉野門と呼ばれる山門が有名。>
 と。写真①は、その山門である。
 吉野太夫は、才色兼備の人だったようだ。
 <吉野は和歌、連歌、俳句、書、茶湯、香道、音曲、囲碁、双六と諸芸に秀で、その美貌は唐の国まで喧伝された>と、受付でもらったパンフレットに記されている。
 今でも、太夫を偲ぶお祭「太夫道中」が行われているという。
 境内(写真②)には桜の古木もあったが、前日の醍醐寺や清水寺の人出とは比較にならず、ひっそりとした趣であった。その静かな佇まいも、古都の一面として、味わい深さを覚えた。

 翌8日の朝、NHKの地方番組で、常照寺が紹介されていた。
 静かに桜を愛でたい人には、この古刹は訪れる値打ちがある。

 (京都には、他に似た名前の「常照皇寺」(臨済宗 天龍寺派)というお寺もあり、国の天然記念物に指定された「九重桜」(4月中旬)が特に有名らしい。そのほか枝垂桜の古木や「御車返しの桜」と呼ばれる桜などもあるようだ。
 京都のガイドブックには紹介がなく、パソコンで知ることができた。
 そこに行くには、かなりの時間がかかりそうである。)

      ①

                 ②
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写真で綴る古都の旅 3 (円山公園を経て清水寺へ)

2009-04-14 | 旅日記
 醍醐寺見学の後、駅近くで軽い昼食をとった。その後、醍醐寺駅から東山駅まで地下鉄に乗って、昨年も歩いたコースを散策した。
 円山公園の枝垂桜も見てきた。(写真②)
 この京の名桜も、年々、老いを深めつつあるようだ。旅から帰った後、11日(土)の朝日新聞<be on Saturday>に、桜の記事が出ていた。
 「先代の桜が枯れ、1949年に当代に植え替えたのは父の第15代藤右衛門さんだ。」
 と、そこには記されていた。
 その植え替えから60年が経っているのだ。
 私の若き時代に見た円山公園の桜は、桜の美を象徴する崇高な美しさを秘めていた。私の老いと共に、この桜も花の数が減ったらしく、天空に黒々とした幹が目立っている。
 それでも、この桜に今年も会えたことに、なぜともなく安堵する思いであった。
 そういえば、過日の<天声人語>に、「桜に会いに行く」と「桜を見に行く」について書いてあった。一本の桜には「会いに行く」という語がふさわしく、並木など群生の桜には「見に行く」というのが似つかわしいと……。
 まさに、円山公園の桜に、私は会ってきたという思いである。
 現在の桜守、佐野藤右衛門さんは、第16代ということらしい。その屋敷前には、立派な枝垂桜があると、その写真を、既述の<be on Saturday>に紹介していた。
 観桜の価値がありそうである。
 また、民放のテレビ画面では、この桜守にお会いした。年齢を尋ねられ、
 「21歳!」
 と、若やかに応えておられた。還暦から勘定しての年齢である。お気も若そうであった。私もその流儀でゆこうか。そうすれば、私はまだ乙女である。

 昨年訪れた高台寺には寄らず、二年坂に向かった。そこで今年も、「御衣黄桜」にお目にかかれた。(写真③)
 花色が変わっている。薄緑色から黄色に、そしてピンクになって、やがて花ごと落花するという。
 昨年も、今年と同じ花色であった。ほぼ同じ時期に訪れているのだから、当然である。
 三年坂(産寧坂)で、昨年は探し損ねた「竹久夢二 寓居の跡」と記された碑に出会った。(写真④)
 竹久夢二がここに暮らしたのがいつのことか、詳しいことは知らないが、当時は今のように観光客のひっきりなしに行き交う道ではなかったであろう。
 <七味家本舗>で、京の七味を求める友人に付き合った後、喫茶店<忘我亭>に入った。昨年も、その名と雰囲気に惹かれて入ったお店である。

 まだ夕方には間があるので、清水寺にも立ち寄った。
 折から、<開山堂特別御開帳>が行われており、次回の御開帳は20余年先といわれ、<命のあるうちにはもう拝めないのか>と内心で思い、参拝者の後に従った。が、今、み仏のお姿が浮かんでこない。靴を脱いで、お堂を廻った印象のみが鮮明で……。

 京の桜にめぐり合うことを目的とした旅であったが、古都には歳月を生き続けた古木が多く、歩みを緩めては、永く風雪に耐え抜いた老樹の、威厳に満ちた姿に、幾度息を呑んだか知れない。
 写真①は、青蓮院(粟田御所)の前を通りかかったとき、目にした楠の大樹。

 醍醐寺の人の多さには触れたが、午後歩いたコースにも、人の波は絶えない。
 どこからこんなに多くの人が集まってくるのかと不思議なほどだ。
 清水寺からタクシーで祇園に出た。
 繁華街をそぞろ歩き、友人に導かれて<錦市場>に入った。
 小路の両側に並ぶお店の、その食材の豊富なこと!
 鮮度のいい魚介類、新鮮な野菜や果物、さらには乾物、お惣菜に至るまで、その品数の多いこと! 私の生活の周辺を思い出し、ちょっと羨ましくなった。

 「今、西に向かって歩いているのね」
 方向音痴の私が、珍しく方角を言い当てた。
 私の土地勘の悪さをよく知っている友人は、
 「よく分かったね」
 と、感心する。
 「あそこに、お日様があるもの」
 小路の彼方を指さした。
 その先には、春の落日が傾いていたのである。
 日の沈む姿を見れば、私にも方向の判断はできる。
 なんだ、そんなことだったのかと友人に言われ、ふたりで笑った。

 その市場の中にあるお寿司屋で夕食をとり、ホテルへ引き返したのだった。

      ①

                 ②

      ③

                 ④
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写真で綴る古都の旅 2 (醍醐寺)

2009-04-14 | 旅日記
 4月6日、いつか訪れたいと思っていた醍醐寺に出かけた。
 醍醐寺の桜は、比較的花期が早いと聞いていたが、幸いなことに花を十分楽しむことができた。
 
 醍醐寺へは、地下鉄の醍醐寺駅前からバスがピストン輸送されている。立錐の余地もない乗客を乗せて、バスは走る。
 醍醐寺の人気は格別のようだ。今回訪れた場所では一番の人出だった。

 私は、奥村土牛の「醍醐」という絵に接して以来、醍醐の桜に会いたいと思い続けてきた。その後、テレビで醍醐寺そのものを紹介する番組を見て、豊臣秀吉によって再建(1598年)されたという三宝院や、秀吉の設計になるお庭を見たいとも思っていた。
 それが今回かなったのだった。
 桜の季節は、連日人に溢れ、874年に弘法大師の孫弟子理源大師・聖宝によって創建されたという古寺と、精神的に対峙することはできなかった。それを求めるなら、最も参拝者の少ない季節を選ぶしかなさそうだ。
  
 今回は桜を愛で、お庭や五重塔など建物の外観を人ごみの中で眺めるに留まった。それでも念願の一部はかなった思いである。

 樹下に佇み、花を眺め、シャッターを切った順番に、幾枚かの写真を記念に留めておくことにする。花見を好んだ秀吉の時代から、ずっと生き続けている桜があるのかどうか?

      ①

                ②

      ③

                ④

      ⑤

                 ⑥

      ⑦

                 ⑧

      ⑨

                 ⑩

 この桜(写真⑩)の木を仰ぎ見ながら、茶屋でお抹茶をいただいた。この木に限らず、桜の古木は、黒々とした幹が、淡い花の色彩と対照的である。

      ⑪
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