脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

エクソシストとオリーヴのコミュニティ

2015-06-21 | Weblog

最近子供を入会させるにあたって英語を教えてほしいと言う依頼がいくつかある。英語は共通語で小学5年生の時から授業があるので、そのアドバンテージをとるためであると思うのだが、わたし自身受験生や大人に教えた経験はあるが小学生のような子供には教えたことがないので、現在教科書選びをしている段階である。

話はうちのクラブの話であるが、私がDQNと判断する人間は入会させないのにはきちんとした理由がある。私がDQNと言うのはずれた感覚を持った大人のことである。ずれたような大人は日常の行動や交友関係に問題がある。教育には疎い、本を読まなくては同じようなレベルで集まるし、ましてや交友関係が悪ければまともな人間などまわりには集まってこないであろう。私自身日ごろからギャンブルや酒など誘惑が多くトラブルになりやすい場所をさけているのは、健全性を保ち誰もがここに来ても安心できるような雰囲気にしたいからだ。類は友を呼ぶという言葉があるが責任者が学問を無視してたら、同じような仲間が集まってくる、自分たちの通用する言葉や常識で会話し、その世界が正しいと思い、俺はこう思うといったらそれが一つの主張になるのだが、客観的に考えることができない、勉強もしない本もまともに読まないそんなとぼしい考え方で俺はこう思うなんて勘違いも甚だしい、ずれた感覚を持った大人の集まりとは実にこういう人たちの集まりで、こういう大人が集まるとそれはやがて子供に悪影響をおよぼす。あの川崎の事件などはその少年たちの背後にこういった大人たちの存在があったと思う。コミュニティというのは子供や人にとって大事な存在である。どういうコミュニティに自分は属するかと言うことはすべての人たちにとって重要なことであり、私はここを社会人もそうだが、子供も何もかも忘れて楽しんで、ここに来たら癒されるような気持ちになる、そんな場にしたいと思っている。自慢ではないが私は時々そういう専門の機関から助けを求められたり、相談されたりしたこともあったのでアルコール依存症やDVやネグレクトの犠牲にあった子供たちを見てきている。私の見解では人を受け入れてその人を癒すというのは個人の力では限界がある。限界があるからこそそのコミュニティが大事であって、そのコミュニティをどういうコミュニティにしていくかということが問題である。

話はエクソシストの話になるが、エクソシストと言うのは悪魔祓い師のことでイタリーなどのヨーロッパでは実際盛んにおこなわれているそうで、キャソリックの総本山のバチカンではエクソシズムと言う学問もあるようだ。ただこのエクソシスト悪魔と戦う時に重要なのはその戦う前に身を清めるということで彼らは断食などの行為によって身を清めてから悪魔祓いに臨むらしい。ずれた考え方と言うのはいわゆる人間の娯楽や快楽からそのほとんどがくるであろう。まともな本を読まない、新聞を読まない教養がない人間は刺激だけで物事を解釈する。漫画や映像がまさにそうであるが、そういう映像や漫画のような刺激の世界がコミュニティを健全に導く上で正しい礎となり指針となるか疑問である。それよりもやはり悪しきものをさけて知恵や教養にたよるほうがきちんとした礎を築き健全性を保ち、誰でも安心して入ってこれる雰囲気を持つことができる。そういう意味で私は弱い人間であるからできるだけ誘惑が多いところは避け、極端に刺激を求めない生活をしている。

ここは進学校に通っている子供もいるし親も比較的教育に熱心である。たぶんボクシングは受験のアドバンテージや体を動かさなくてはいけないということでここを選んでくれたのだろう。その期待に応えてなるべくいい影響を与えるようにスポーツを競技することの楽しさと人と交わることの貴重さを教え、少なくとも決して試合に出たいとか言うようにはさせてはいけないと思っている。

 

 


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