脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

視聴者側のメディア論

2015-06-17 | Weblog

少し前にあるボクサーのパフォーマンスがやりすぎだということが話題になった。彼らだけではなく格闘家と言うのは自分を追い込むためにわざと挑発するようなことを言って相手をけしかけるようであるが、しかしそのパフォーマンスも行き過ぎると不快に思った視聴者から疑問の声があがり時にはボクサーのようにバッシングをうけるであろう。おそらく挑発するボクサーにはボクサーなりの理由はあると思う。ここで特にそいつらをバッシングする気はないが、しかしそれを放映するメディアには問題がある。よくメディアとかマスコミと言う言葉を耳にする。最近ではメディア論などと言う学問が台頭してきているが、しかし日本の場合特にメディア論と言う時それを使う側からしか語られていないがもう少しそれを受け取る側の立場に立った語られる必要もあるだろう。テレビに出てる奴よりも視聴者のほうが当然多いし、見る側の権利と言うものがある。教育上悪い態度や不快極まりない態度など誰も見たくないだろうし、教育を否定するような発言や行動や態度に子供がわるい影響をうけないとは言い難いであろう。事実現実分析への影響を明らかにするための分析の研究結果として、テレビは現実社会に対して暴力シーンが多く描かれているいるが、視聴者の現実認識について分析するとテレビの視聴時間が長い人は暴力に巻き込まれる頻度がより高く見積もる必要があることが指摘されている。おそらく学校教育をまともにうけてないような格闘家にメディアの影響を考えろと言っても無駄、そいつらをバッシングしても意味がない。たぶんそんなこと理解できないし、そういうとかえってくる答えはいやなら見なくてはいいという答えだと思うのだが、子供に与える悪い影響や女性にたいする不安感を与えておいて格闘技のパフォーマンスだと片づけられたのではたまったものではない。日本におけるメディア論はそれを放映する側からしか語られていない、何のイデオロギーもない目立つだけのパフォーマンスをただのうけねらいで放映するメディアの倫理観と道徳観の欠如、メディアは未来に対する影響を考えて報道しなくてはいけない、メディア論はどう報道するかと言うことだけではなく、どう報道されるか視聴者側からも語られる必要がある。

話はスポーツクラブの話になるが弱者をいたわれないスポーツクラブはダメだ。私はそれしかできないのにそれができるからとでかい顔をするような奴らが中心になってジムを牛耳るようなクラブにしたくない。はっきり言ってスポーツしかできないというのははずかしいことであって自慢できることではない。むしろひっそりとトレーニングしているような人たちに気をつかえるかが大事なことで、うちではなるべく女性や子供を優先している。女性や子供あるいは気の弱い人にとって悪影響だと思うことは排除するし、そういう人たちが不快を感じたりこわがったりするような奴は決して入会させない。しかしクラブによってはその親玉が怖がられるような雰囲気をわざと出しているから不思議なもので、こういう輩を見るとこいつら話し合いで解決できないのか言葉があるだろと思ってしまうが、たぶん自信がないからそういう威嚇でおどしているのだろう。弱者と言うのはもの言えぬ存在である。弱者と言うと力関係をイメージするが、もちろんそれもあるが、それは誰でも環境によっては物言えぬ存在になりうるからで、特にこういう格闘技のジムにはじめて来るということは誰でもそういう存在になりうるということであり、そういう存在をつくらないのが私のポリシーである。

 

 

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