脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

木曜日の憂鬱

2015-06-22 | Weblog

私は毎週木曜日は憂鬱である。それは毎週木曜日は語学の活用をおぼえるテストがあって1年間ずっとこのテストが3科目あってたいへんな思いをしたからである。特にコイネーの変化は複雑で覚えるのがたいへんであった。古代の人間ってこんな複雑な言葉をつかっていたのと思うぐらいたいへんなもので、それらに比べたら英語なんてpiece of cakeだ、英語を習得したければ他の語学特にフランス語やドイツ語などのヨーロッパ圏の言葉を学ぶことをすすめる、そうすれば英語が楽に思えてくる。実は古代の言葉には順番はない。どういうことかと言うと英語のようにs v oやs v o oのようなかたちがなく、とにかく単語が並ぶということだ。さらに人称名詞は使わない、なぜなら動詞にすでに人称が含まれているからで、あえて人称を使うとそれは強調文となるのだが古代の言葉は単純でかつややこしい。

よく自信をつけるというがはたして本当に格闘技やスポーツで自信がつくかどうかは疑問である。よく人は強くなるために格闘技をするというが、格闘技をやってて本当に強くなるとは思えないし、たいていの人間は理想的なことを言ったり大風呂敷をひろげて自分の通用する世界だけでほえているだけだ。強さを求めることが人間の目的ではない。ニーチェを読むとあたかも強者として生きることが正しいことのように書かれているが、しかしそれは単なる理想論であって本人もそのことはわかっていただろうと思う。人間は弱い、弱いからこそその弱さを認めることが大事なことだ。そしてその弱さを認めることができるからこそ、同情と言う意味ではないが他者の弱さを気遣うことができる、人間とはすなわちそういうものではないかと思っている。弱いくせにほえている人間ほどみじめなものはない、私は人間が一番自然体でいられることが理想であると考えているが、自然体でいられるためにはまず自分の弱さを認めることである。しらじらしくも人を威嚇するような恰好をしたり、エラそうなことを言うような人間は自然体で生きているわけではなく、常にまわりのことを気にしてビクビクして生きている。そういうみっともない生き方だけはしたくないというのが私の哲学である。スポーツの競技においてもそれしかできないような軍団がわがもの顔で会場をたむろし、人を威嚇するような話や態度をとることに非常に不快感を感じている。いちいち会場に入ったり出たりするたびにあいさつ、特にさらに親玉が入ってきたらチワッスチワッスとあいさつするが、そんな状況で落ち着いていられるはずはない。靴がそろってないことぐらいでおこる人間がいるが、そんなものは出たり入ったりした時にそうなったかもしれないのだから、いちいち呼び出して小さい権威を見せつけるのではなく自分で整頓してやればいいだろう。こういうしょうむない茶番劇をやるよりもまわりをくつろがせてやろうとなぜしないのか不思議である。

粗暴でバカそうな奴らがラスト30ファイトー頑張れとか和製英語で叫んでいるのを聞くと偏差値30代だい、もっとがんばれーと聞こえてしまう。

 

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