脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

日本のミッション系の大学はなぜ左寄りか?

2015-06-11 | Weblog

うちの会員の高校生が英字新聞を購読している。長文読解になれるのと時事英語をおぼえるためだと言っていたが、英字新聞と言うのは日本のことだけではなく民族や宗教の問題と言った日本ではあまりとりあげられない事柄を記事にしているので読む価値はある。少なくとも倫理観にかけた内容の記事をのせる、小さいスケールでしか物事をみることができない地方の新聞社よりもベターであると思っている。日本人は宗教や民族の問題に関して疎すぎる。世界で問題になっているのは宗教や民族の問題であるのだが、しかし日本人はそういうことを学ぶ機会がないのかそういうことには疎いようである。確かにロールズなどの近代哲学は宗教を理解していなくても理解できるし、私が昔読んで感銘をうけたノーム・チョムスキーの「現代世界で起こったこと」と言う本は単にキリスト教の二元論的な善か悪の問題ではなく、利害関係においてそれが善となり悪となるかということをテロリズムと防衛と言う言葉を用いて説明しているが、しかしそういった概論的な事柄を知っていても対話や議論はできない。なぜなら人が考えることのほとんどはその人が持っていたり影響を受けている宗教的な概念があるからであり、哲学にしてもそのほとんどがキリスト教かあるいはそれを否定する立場であるかと言っても過言ではないが、このことをしっかりと理解し踏まえておかなければグローバルスタンダードでは議論できないのだ。例えば脳死や尊厳死そして陪審員の問題はどこに基準をおくかということで、私は日本のそういった事柄のとらえ方は彼ら彼女らに比べて感情的で独特であると解釈しているが、やはりそれは彼ら彼女らのように裁く基準がない、それは宗教的な違いであると思っている。話は前に会員と話をしていた時の話であるが、ミッション系の大学を出た人に対して、ミッション系は左だと言ったら、ある会員がいやアメリカではキリスト教系は右だと言ったのだが、確かにそうだ本来ならばキリスト教と言うか国と言うのは神が与えた嗣業であるのだから自分の国を愛するというのが本当で現在イスラエルを巡って内戦が続いているのはまさにそれ、神が与えた嗣業の地であるから自分たちは当然そこに住むべきであるという解釈から来ている。しかし日本の場合は少し勝手が違う。じゃあなぜ日本のミッション系は左寄りなのか、それは彼ら彼女らが日本政府によって宗教弾圧をうけてきた歴史があるからである。第j二次世界大戦当時日本は天皇を中心とする大日本帝国であった、当時の考えでは天皇が神でありそれを否定したり、ほかに神を堂々と主張するものは弾圧の対象となっていて、その弾圧の対象となったのが共産党(別の意味もあるが)とキリスト教徒でそれは彼ら彼女らに言わせてみればひどい弾圧であったらしい。実際に投獄された人間もいてその様子はあまりのこってはいないが獄中書簡などに記されている。調べたらわかるがたいていのキリスト教のグループは独自の戦責告白をもっている。もうそういうことは時代錯誤でむしろあやまる必要があるのかと言うことにさえなっているのだが、自分たちはアジア諸国に対して罪をおかしたなんて堂々と書いているグループもある。むしろこんなことを書くと日本での布教活動のさまたげになるのではないかと疑っているが、しかしそんなことよりもその弾圧のうらみは強くそれが思想的にそういうかたちでのこっているのだろう。宗教を知ると世界が見えてくる。哲学もそうだが例えば何かについて批判しているような文章を見てああこれはキリスト教を非難しているんだろうであるとか、そういうものが見えるとその当時の状況と言うものがよりよく理解できるのではないかと思っている。しかし宗教を知るということは信心するということとは別、さらに信心と信仰も違うと理解しているが、だいぶ前あるキリスト教徒の学生が第二次世界大戦が勃発しようとした時にあるミニスターの集団が戦争を避けるようにアメリカに働きかける計画があったが、その計画は政府によってつぶされてしまった、しかしもしそれが実現していたら少なくとも日本は戦争にまきこまれなかったと都市伝説みたいなことを本気で言っていたが、しかし宗教を知るということはこういう狭い考え方にとらわれることではなく、何事も客観的な目で見てその考え方や何を信じているかと言うことをよく知り、その宗教がもたらす弊害とそして有益を日常的な問題においても深く考察することが大事なことである。

 

 

 


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