脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

言葉をみがけ

2015-06-28 | Weblog

運動系の親玉は自分の子飼いには親でも言わないようなエラそうなことは言えるが、しかし海外に行くと何も言えない内弁慶が多い。クレームをつけるときでも相手に向かって言うのではなく通訳にむかってすごい剣幕でまくしたてるのだが、そういう姿を見ると本当に情けない。しかしそういう内弁慶であっても自分のテリトリーだと思いっきり威厳たっぷりにふるまうのだが、なぜそういう指導者は威厳を保とうとするのかわからない。能力のない人間が威厳を保とうとしてもそれは所詮張子の虎だ、みっともない奴になるとその威嚇がしぐさや言葉づかいそして恰好にでている。私の親しいコーチはそういう人間たちとは全くちがうタイプである。知的でどなったり吠えたりまた言葉の使い方も慎重で無知さゆえにバカなことを言うというようなことはない、それこそインテリ系にも尊敬される人間である。彼がよく言うのはリングを降りたらジェントルマンであれと言うことだが、彼いわくボクシングと言うのは暴力なのだからそれを扱う人間はまともでなければダメだだから頭を磨けということである。よく運動系の奴らは礼儀と言うがたぶん彼ら彼女らの言う礼儀ってただでかい声であいさつできたり先輩に服従するようなことぐらいで、はっきり言ってこういうことは中身がないただのパフォーマンスである。礼儀と言うのは言葉と深くかかわっている、私は日本語を正しく話し敬語を正しくつかうことが礼儀正しさにつながってくる、すなわち正しい言葉を話すことが礼儀正しく生きることだと思っているがどうであろうか?特に我々ぐらいの年齢になると言葉を知らないと恥ずかしい思いをする、話していてボキャブラリーが少ない、同じようなことしか言えない、いかにも理想的で立派なことを言っていてもつっこんだらぶれるような考え方ではまともな人間はついてこない、そういうあさはかな考えかたに追従するのはたかだか知れている。親玉が言葉を知らないとその群れの質が悪くなる、スポーツの集団と言うのは暴走族ややくざもどきの群れではないのだからもう少し群れの質を上げるために指導者は言葉を磨くことは不可欠なことで、アホなヒエラルキーを維持するためのあいさつや服従は必要ない、むしろ人の顔色を見るような人間を生み出す弊害であると思っている。だいぶ前にあるサッカー選手の話す英語が話題になった。英国では話す英語でその人の知的レベルや地位的なものがわかるそうで、そのサッカー選手が話す英語がひくい英語であるということを指摘されたと思うのだが、英語圏あるいはヨーロッパではその人間の地位や身分そして知的レベルをはかるのはその人がどういう言葉を使うかと言うことであり(そういうことに厳しいわりにはミススペリングが多いが)、そのことは日本よりもはっきりとした区別があるように思える(だいぶ前にあるハリウッドスターが自分はいつも辞書を持ち歩いていて、ひまがあればその辞書を見て言葉をおぼえていると言ったが、まさにそれは自分は言葉を知らないから恥をかかないようにと言うことだと思う)。日本人は恥を知る民族だと言われているが、こんなことを言ったら恥ずかしいとか言葉を知らなければ人前で話すのはみっともないというようなことは思わないのだろうか?同じようなレベルで同じような人間で固まっていたらそういうことは感じることはないのだろうが、しかしもう少し視野を広げて自分のレベルをよく考えてもっと研鑽することも大事なことだ。格闘技をする人間は目立ちたがり屋が多い、常にどうしたらかっこよくみられるかと言うことを考えていると思うのだが、かっこよく思われたかったら南米の鳥のように真だった恰好をしたり人から注目されようと奇抜なことを言って勝負しないで、言葉を磨いて母国語を知的な言葉を用いてきれいに流ちょうに話すというように知性をみがいて人と差をつければまわりからも見直されると思うのだが、少なくとも私はそのほうが今やっていることの付加価値をもたらすと思っている。

 


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