脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

頭の中身はワンピース

2012-10-05 | Weblog
私の好きな言葉に「Man is what he reads 」人間は何を読むかである。という言葉がある。すなわち人間はどういう本を読むかによって決まると意味であるが、本を読むと言うことは生きていくうえで大事なことである。
前にも言ったが人間は本を読むことで頭の中が耕され、考え方やイマジネーション能力が広がる。ワンピースしか読まない奴は頭の中身がワンピースだし、漫画しか読まないと言うような奴は、その次元でしかものごとを考えることができない。
だいぶ前の話であるが少し調子のいい男がいた。本当かうそか結構適当なことを言っていたのだが、少し話すぐらいならいいのだが、根拠もあまりないことを適当にでっちあげて話すので、少し胡散臭い奴だと思っていた。
その人間がこういうことを言っていた。それはアフリカ人は時間にルーズだから待ち合わせをしても遅れてくる。だから1時間遅れていくぐらいがいい。
しかし相手もそのことを予想してさらに一時間遅れてくると言うようなことを、おもしろおかしく言っていたが、そもそもアフリカ人ってアフリカをひとくくりにすること自体おかしいことだ。アフリカと言う国は家父長制が多いので時間にルーズかどうかと言うとそうではないと思うし、ハワイだったらハワイタイムという時間があって遅れてくることは実際にあるが、しかし私自身アフリカタイムなんて言うことは聞いたことがない。
おそらくアフリカイコール、未開の地と言う短絡的な発想が、そのようなでたらめをみちびきだしたのだろう。しかしこういうことは少し教養のある人間であるならば何をでたらめをいっているのだといいかげんなことがわかるのだが、しかしその次元がひくいとそういうでたらめでも本当のことになってしまう。
おそらくそういうでたらめをまに受けて「あっはっはっアフリカ人て時間にルーズなんだ」と言う風になってしまうのだが、前に指導する人間はある程度教養を養わなければならないと言ったのは、子供と言うのは純粋で、そういうでたらめや少々次元の低い事でも、そのまま信じてしまう危険はあるからである。
私がよく子供にあいさつを義務付けるなら、まずそれをさせる奴が正しい日本語をつかえと言うのは、あいさつをさせたらその延長に礼儀と言うものが求められ、礼儀と言うのは当然正しい言葉遣いが要求されるからである。
でかいこえであいさつをさせるだけでは、中途半端だし意味がない。
体育会の犯罪は上下関係をはっきりさせるためだけに、礼儀と言う言葉を都合よく使っているからである。
もし本当にそこで礼儀と言うものを教育するのならば、自らも正しい日本語を身につけて、日本語を正しく使わせる必要があると思うのだが、おそらくそういう教育を徹底したら部員の学力も上がるし、そういう問題もおこりにくくなると思う。

韓国は礼儀において言葉遣いを非常に大事にする。
敬語を正しく使うことはもちろん。特に軍隊ではハムニダ体という「です」「ます」調の言葉を徹底して使うらしいが、そういう礼儀をもとめられたら運動系のクラブはほとんど失格、すでにあいさつからしてブーっ。
よくバカがあいさつと言ってチワーッスと言うような言葉をつかうが、しかしいくらでかい声言おうが「チワーッス」なんて国語的におかしいことをむこうで言ったら間違いなくぶちのめされる。それだけ言葉にほこりを持っている。だから正しい言葉を使うことが求められるのだ。

人間と言うのは共同体において成長する。すなわち自分がどういう共同体とかかわるかが、自分を成長させるうえで重要なことだと思うのだが、特に小中学生ぐらいの子供は付き合う相手もそうだが、そういう大事な時期には指導者をよく考えて選ぶ必要もあると思う。
私から言わせると、同じようなレヴェルでかたまって評価するような軍団はうさんくさい。
語学力がゼロで本も読まないような人間がかたまるような集団は、はっきりいって考えかたがせまく、その考え方にひろがりがもてないまさに村社会である。
しったかぶりや浅はかな知識で知ったようなことを言うが、しかしそういう言葉には広がりがない。聞いてもああそうですかとうんちく程度で出てくる内容も漫画や三流雑誌の雑学程度のようなもので、そういう村社会が子供に対していい影響を与えるとは思えない。
本当に博学な人の話は本をだくさん深く読んでいて、知識も豊富なので話に広がりがもてるので、建設的に会話ができるので、非常に興味深く刺激をうける。
私の見解ではそういう社会的にしっかりした人や教養のある人が、その責任者をどう評価しているかと言うことは重要なことである。
ボクサーになると言うのなら関係ないが、もしこれからの社会に出て何かをするのならば、その集団の人間が「勉強しませーん」「本など読みませーん」「語学にはまったく興味がありませーん」という雰囲気ならば、あまりいい影響を与えてくれることはないだろう。
私自身の見解としては、子供に勉強ができないから、したくないからボクシングに逃げると言うようなことはさせたくない。
おそらくこういう世界は、そういうわるい見本になる奴が多いと思う。
笑い話だがこういう奴に限って、ボクシングをやることが人生と向き合うことだと思い、人生から逃げるなボクシングで戦えなどと言うが、しかしそいつ自身ががやるべきことをやらないで、そこからにげてボクシングをやっているのだから説得力がない。こういうマンガみたいなことを言う奴は、現実を知らないので、どこに行っても人にぶらさがって迷惑をかけて生きるものであるが、口では偉そうに言っても厳しい現実を生きれない英語で言えばルーザーそのものである。
これからの世の中は学力が大事であり、特に語学力は必須である。
たとえスポーツをやっていても、子供にそういうことをおろそかにさせたくないというのが私の考え方である。はっきり言うがボクシングだけでは本当に更生なんかできない。これは私が経験上見てきたことだある。
まともに生きたかったら教育を受けることだ、本を読み言葉を覚えて、どんな人とでもきちんとした会話ができるようになることが、本当のプライドをもつことができると信じているが、しかしそういう意味で自分が「勉強しませーん」「本は読みませーん」「英語はまったく話せませーん」では説得力がない。








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fly at mensetu

2012-10-03 | Weblog
昨日結構学識のある人と日本とアメリカの就職面接のことで話をした。この方の話はいつも感心させられることが多く、話をしていて非常にためになるのでよく話をするのだが、日本と欧米ではインタヴューで求められることが違うと言うようなことを話しをしたのだが、アメリカではインタヴューの時、自分が持っているスキルやアビリティについて聞かれる。
自分はどういう学位を持っているのか、そしてボランティア活動で実際自分はこういうことを活動したというような即実践として使えそうなことを強調して話すのだが、しかしこれに対して日本の面接は、日本は自分は何ができるのかと言うスキルやアビリティが求められることがないと思う。
おそらく日本の企業は即戦力になる人材よりも、会社組織に順応できるかどうかということが大事だと思うが、これは圧迫面接を行ったり、社員を新人から徹底して教育するということからも言えると思う。
日本の企業では仕事のことは入社したら教育されるので、むしろそういったスキルをもとめるよりも、組織に順応できることが第一条件で、社員教育の前の段階として英語のアビリティが求められるそうである。

話しはうちのマネージャーの話になるが、彼女は欧米での生活が長いのではっきりと意見を言うタイプで私は非常に彼女を信頼しているのだが、いわゆる自己主張が強いタイプである。
しかし彼女の自己主張は自己表現力をともなった自己主張で、いろいろと考えて主張しているし、言ったことに対してきちんと責任をとる姿勢はあると思う。
よく言いたいことだけを自分の話を聞いてくれる人間の前だけで主張することが自己主張と勘違いしている奴がいるが、しかしこれは自己主張ではない。
私に言わせれば自己主張と言うのは、バカではできない。きちんとした分析力と自己表現力が伴ってこそ自己主張である。
面接にしても自分はどういう人間で、自分には何ができるかということをこたえることは非常に難しいことで、自己分析ができなければ、ただの言いたいことである。自分はこういう人間であると言うことを主張したいならば、自分のアドヴァンテージとディスアドヴァンテージを分析し、そこから自分には何ができるのかということを考えることが自己主張につながると思う。
もともと西洋人の考え方にはこういう考え方が根底にある。
こういう考え方をアウフヘーヴェンと言うのだが、欧米の人間が東洋人に比べて合理的であると言うのはこういう考え方の違いであると分析しているが、しかしこういう考え方は日本人にはない。
時々学生の話では面接で短所や長所を聞かれると言うようなことを聞いたが、そもそも短所が長所にもなりうるのであって、そういうことを聞いて何の意味があるのか?小学生の劇団の面接でもあるまいし、長所はと気かれて小学生のように気の長いところなんてこたえるのだろうか不思議で、ビジネスの場で長所と短所はなんて聞くのは馬鹿げている。もし問うのであれば、アドヴァンテージとディスアドヴァンテージは何かで、そのことを真剣に問うことが、自己分析と表現力につながるのではないかと思っているが、最近面接も外国人を採用するところが増えてきたらしいが、そういう場ではこういう考え方をもって面接に臨む方がアドヴァンテージになると思う。

さらに付け加えて言うならば、昔スポーツをやっていることがアドヴァンテージになった時代があったが、それは表現力が乏しく、自己分析して自分のことをしっかり主張できなかったから、せめて何かとりえはないのかということで、スポーツをやっていることが有利になったのだと思う。そもそもビジネスの場で、自分はスポーツをどれだけ一生懸命やってきたかということがアドヴァンテージになると思っている奴は、勘違いも甚だしい。ボクサーなどのスポーツ選手になるならまだしも、スポーツなんて言うのはビジネスの場では関係ない事であって、求められるのはその場で自分がどういう生かされ方をするかということだ。
スポーツでねばりとか協調性を学んだと言うようなことを言う奴がいるが、しかしこういうことはスポーツでしか学べないことはないことはない、私が面接官で、もしボクシングを10年やってきたなんていうことを堂々という奴がいたら、まず君が10年間してきたことはそれだけか、さらにそれだけうたれて脳へのダメージはないのかと疑うが、いくらそれが好きで没頭しようが、むしろ学業をほったらかしにしてそれだけに没頭すると言うことの方が問題だと思うが「自分はは何々を一生懸命やってきました」と言うような、こういう独りよがりの言葉はもはや通用しない時代だと思っている。

前にソヒョンが学校で自分が納得のいかないルールがあって、それを先生に直談判に言ったらしい。
そのルールかきまりはここで言わないが、ただ先生がこちらの文化をわかっていなかった結果、少し不快な思いをしたそうである。
私は相談された時、彼女に「文化の違いと言うのはどの国に行っても感じることだが、しかしここで外国人である君がそれをどう解決するかが、今後の君の在り方を左右すると思う」とよく考えて言うようにということを言ったのだが、実際彼女の偉いところは、ただその時の感情にまかせてそれがおかしいといったのではなく、その文化を受け入れるべきかということをよく考えた上で、自分はそれを受け入れることはできない理由をきちんと説明したらしい。
彼女は小学6年生、おやじの話では、彼女が私と話すようになってからだいぶ成長したということを言ってくれているが、正直こういう女性を見たらむこうも女性大統領が出てもおかしくないと思ってしまう。







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もう一人の言い分

2012-10-01 | Weblog
私はしばしば本屋に行く。暇があれば本屋に行っていろいろな本を立ち読みするのだが、これが私の楽しみでもある。
この前ある新興宗教の本を読んでいた。宗教学は私の専門なので、読めばだいたいどういうたぐいのものかということはわかるのだが、しかしいささか稚拙な感じがした。
どの新興宗教かと言うことははっきり書いたらいやがらせをされたらいやなので書かないが、その団体はかなり力を持っている比較的新しい振興団体である。
ただその教祖がすごいと思うのは組織力である。たぶんその組織が大きくなったのは、その卓越した組織力とするどい洞察力、教祖はかなりの専門性を持っているので、その専門性と宗教的な事柄を関連づけて話されると妙に納得してしまうのであるが、しかし宗教的な解釈は専門性は欠けると言ってもいい。ある程度勉強しているのだろうが、しかしいろいろな経典や書物を持って何かを説明するのなら、そこには解釈学的なものが必要であるが、その解釈学的なものの見方ははっきり言って乏しい。
かつてオウムが教祖がキリストだと言った時に、ある大学の教授に原典を比較されて矛盾を指摘されていたが、まず基本的なことはその原典で書かれてある言葉、すなわちラテン語やアラビア語、そしてコイネーギリシャ語などでその書物を読むであるが、そういうことをもってはじめてそこに何が書かれてあるかと言うことの理解が深まるのだが、こういう宗教的な解釈はおもに経典が問題になってくるので、その原典である言葉を理解するかしないかということが非常に重要なことである。

前に韓国や中国は歴史の再解釈をする必要があると言う見解を述べたが、さらに日本人もまた歴史の視点をかえてみる必要もあると思う。
それは韓国や中国側から見て日本はどうとらえられているか、また日本の行ってきたことは歴史的あるいは政治的に別の見方をして、どう解釈されているかと言うことを見ることも大事なことだということである。
最近韓流ブームで韓国は日本に対して友好的になってきたと言われているが、実はそうではない。はっきり言って教科書の内容は以前と比べて、政治的にかなり日本に対して否定的な見方をしている。
たとえば韓国の教科書では、90年代以前は「従軍慰安婦」という言葉を教科書ではつかっていなかった。
教科書には女性で犠牲になった人たちもいると言った程度で書かれてあったぐらいなのだが、これは北という敵国があったので、あえて日本を敵として強調する必要がなかったこともあるのだが、しかし90年代になって北に対して緊張を緩和させる状態が続くと、教科書にこの言葉がつかわれるようになったのだ。
さらに最近では竹島のことが1ページにわたって書かれているのだが、これは反日運動が水面下で強くなっていると言うことが言えるのではないかと思う。日本はビジネスではパートナとなるが、しかし歴史的にはにくい国である。利用できるが、しかし心から信頼できるパートナーとして手を組むことができない国と言ったところだろうか、韓国の教科書を見たら彼ら彼女らが日本をどう見ているかと言うことがわかる。
おそらく日本が韓国を併合したのは、それなりの大義があったと思うが、しかし当時朝鮮という国はしっかりと確立した状態ではなかった。
私の見解では明治政府と言うのは、今と違って外交が上手だったと思う、昭和はそのおごりだといってもいいが、しかし実際にその小国が帝国の外交手段にほんろうされ意のままにされたことは確かなことであり、そういうことを実際に韓国人の立場からみたらよく理解できるのである。
話しはそれるが「ウエノム」という言葉を聞いたことがあるだろうか、これは日本人に対する最大の侮辱言葉で、知られていないがおそらく「チョッパリ」よりもきつい言葉であると思う。
「ウエノム」は漢字で書くと「倭奴」と書く。これは倭冠という13世紀ごろ朝鮮半島を中心に出没した日本の海賊からきた言葉だと思うが、この言葉には野蛮人と言う意味合いが込められているのだが、日本人はそういう野蛮人としてうけとられているのだ。
様々な文化が朝鮮半島から日本に伝わり、そのおかげで日本は独自の文化を持てたのに、しかし13世紀ごろからはじまって豊臣秀吉、朝鮮併合によって侵略され、略奪行為を繰り返されたら、日本人に対してネガティヴな気持ちを持つのは仕方がないことで、よく彼ら彼女らは「自分たちは日本に文化を伝えたのに恩をあだで返した」と言うのは、戦争責任の問題だけではなく、こういう歴史が語られているからである。

正直私は日韓併合は、侵略か否かと言うと侵略ではないと思う。
外交手段としてアメリカと同じようなことをしただけで、戦争責任にしても、戦争を始めた張本人として責任をとる必要があると思うのだが、それは侵略行為と言う野蛮な犯罪行為ではなく、敗戦国としての責任をとらされるのであって、その責任は東京裁判と賠償金、そして金大中が謝罪は「一度でいい」と言ったように首相の謝罪で終わっているのだと思う。
しかし歴史と言うのは一方がこう言えば一方がこう言うといったように、様々な解釈の仕方がある。
今までは歴史を政治的な視点からとらえてきたが、しかし文化や民族と言った観点からとらえられる、いわゆる文化史や文化人類学からの視点で歴史を見ると言うような考え方もでてきているのだが、まさにこの当時の朝鮮の人たちも、民俗学や社会学、文化人類学と言ったたぐいのもの見方で見れば、その主張も理解できるのではないかと思っている。
日本人は当時からそうであるが、朝鮮半島の人たちのことをよく理解しないし、知らないと思う。しかし実際に彼ら彼女らの文化や言葉を理解しようとすればまた見えてくるものも違うかもしれない。
おそらく日本の行ってきたことは、決してヒトラーのようなホロコーストのようなものではないが、しかし朝鮮はその大国であった日本に翻弄された小国であったと思う。




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