脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

私が影響を受けた監督の言葉

2024-07-30 | Weblog
今日は私が監督から影響を受けた言葉を紹介したい。影響を受けたのは昔のことなので多少のデフォルメはあるがご容赦願いたい。
「日常のちょっとしたところでへりくだって相手に示す思いやり、それがエチケットだと思う。」
これは直接監督が言ったことではないが、たぶん自分たちに教えようとしたエチケットはこういうことなんだと思っている。運動系の人は礼儀とか言うけれども、自分本位で形式的である。うちのクラブでは運動系の礼儀よりもエチケットを重んじる。いくらでかい声であいさつができても、ジムででかい声をは出すことはむしろ迷惑で、委縮する女性もいる。カーッと来てけんかごしのスパーリング、裸で汗をまき散らしてトレーニングをしたり、女性や子供がこわがるような威圧的なトレーニングははっきり言って害である。ミットも実戦練習も優先されて自分のやりたいことを全部やって余裕があって相手に譲るのではなく、誰がジムではマイノリティなのかということを考えて、そういう人たちを優先に考えて相手に譲ることがジムのエチケットで、そういう思いやりがジムの秩序をよくしていくものであり、平等であると考えている。

「民族も違う、文化も違う人間たちを一つにまとめる力、それが言葉の力だ。」
私が言葉を勉強しろ、哲学をもてということはそういうことだ。日本人は単一民族なので何となく考えていることがわかるし、共通をたくさん持つが、USAには人種や文化そして宗教も違う民族がひしめきあって生きている。そういう中で国民をひとつにまとめていくのは言葉の力である。言葉は力だ。大統領の演説にあれだけ人が心を動かされるのはまさに言葉にはそういう力があるからだろう。私が感銘をうけた演説はケネディの就任した時の演説である。当時のアメリカはベトナム戦争や人種差別などの問題があって、さらにヨーロッパ諸国が台頭してきた。そういう中で彼はニューフロンティア政策をかかげ、より良い世界を築くための自発的な行動を国民に訴えた。 ケネディはニューフロンティア政策のために、国民に犠牲をしいたわけであるが、しかしそれでも国民は一致団結してあの混沌な時代をたえて、乗り越えてアメリカが栄華を誇ることはできたのはまさにその彼の言葉の力のよるものだと思う。私の感想では日本の政治家は言葉のこわさをよく知っているが、しかし言葉の力を信じていない。言葉は力だ、語られる言葉によって人は励まされ、勇気づけられる。私が言葉や哲学を勉強し続けるのは、その言葉の力を信じているからだ。

 

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私が読書をする理由

2024-07-16 | Weblog
私は自称読書家である。仕事が終わると必ずと言っていいほど、読書の時間にふけるのだが、読書するにあたってひとつ決めていることは、週一冊ぐらいは、なるべく英語を含む難解な本を読むようにしていることである。最近では音声で流して、読むと言うか内容を理解しようとするけど、しかしそういう読み方は私のような凡人には難解な本を読むことに限界があるし、字を追って聞くだけならば、ただ単に本の内容をコピーにしかすぎない。コピーは所詮コピー、それはやがて劣化する。また電子書籍ではなく、紙の本を買って読むのは文字は流して読むのではなくじっくりと味わって理解して読みたいからである(runとreadの違い)。ハンス・ゲオルク・ガダマーは解釈学で有名だが、ガダマーの解釈学とは単純に言うと過去から押し付けられた権威や先入観で理解するのではなく、本と対話しろという事だ。私は学生時代に3ページ読むのに2、3時間かかるような難解な本を読まされたが、哲学の本は本当に難解で何が書いてあるのかわからない。けれども読んでいくうちにその意図を理解したり、いやそうではないと否定的になったり、あっこういう考え方があるのかと自分の浅はかさを実感する。そういう本との対話を通して一度自分の考え方をバラバラにされて、そして新たな考え方が構築されていくのだが、一度考え方をバラバラにされて、またさらに構築されるという、繰り返しが自分の考え方や思想そのものを進歩させるのだと理解しているが、事実私が本を読むのは、ジムを運営する上での重要なタスクであり、ジムに不平等をおこさず、みなさんが公平で、平和にトレーニングしてもらうためである。

参考文献 「ガダマー地平の融合」丸山高司 講談社

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女性が堂々とトレーニングできるジム

2024-07-11 | Weblog
空港とかショッピングセンターの障害者の人のための駐車スペースに時々車を止める人を見る。うちのクラブにこういう人間が来たら入会は拒否。弱い立場の人たちに配慮できないような人間がうちのように女性や子どもが多く在籍しているクラブでまともにそのコモンセンスを守ってかかわっていけるとなど思えないからである。共同体の質は弱い立場の人たちやマイノリティをどうとらえていくかということと深く関わっていると思う。時にボクシングのような激しいスポーツは力が強いものが大きい顔をするスポーツだが、競技者が主体で、血気盛んで勢いのある奴がジムの中心になって、そいつら中心でジムが動いていると言うのはあきらかに差別、そういう人間しか使えないと言うのは明らかに指導者に能力がないからであり、ジムやクラブが公共の場で平等だと言うならば、もっと多様性のあるクラブとして運営させることが正しいクラブの在り方だと考えている。
そしてその上で大事なことは「何が共通の正しさ」であるかということを求めるである。うちのクラブはコミュニタリアンであると言っているのはまさにそこが大事だと考えるからだ。しかし共通の正しさと言うのはあいさつしろとか運動系の人間がよく言っている稚拙なルールではなく、自分の権利を無視されたり侵害されることなく、平等にトレーニングできるということで、それはジェンダーや民族など多様性を認め考えた上で、その群れが生き生きと活動できる共通の正しさで、それは基本的には人に対する気づかいや配慮、そして思いやりから生まれてくるものだと信じている。そしてそれを実現させていくには、その群れにどういう人が集まって来ているかと言うことが重要な課題だ。うちのクラブはコミュニタリアンだと言っているが、そういう考え方を理解するためにはある程度教育が必要だ。少なくとも私が発信していることを理解するためにはある程度の知識が必要でそういう理解できる人が一定数集まって来ることで群れが健全に保たれ、そういう考え方が生まれてくるのだと信じている。私の理解では人間は共同体によって成長させられるもので、その共同体を通して世界観が広げられていくというのが理想で、特定の人間ではなくいろいろなタイプの人とふれあうことで、刺激をうけて成長していく、そのためその共同体にはどういう人たちが集まっているかという事が大事なことだと思う。

 
 

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