脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

The emperors new clothes

2012-10-19 | Weblog
この前長く在籍してくれている会員の人がジャージをつくるのに、オリーヴの名前を入れていいですかと言うことを言ってきた。
下品な色にせんかったらいい。ちなみに何色だと聞いたら黒というのでよしそれではいいということでOkした。
しかしジャージをつくるのにここまでしてくれるのはありがたい。せっかく名前をいれるんだからもっと誘えと言って共同でジャージをつくることになったが、彼らがどういうジャージをつくるか楽しみである。
さっそく何か言葉を入れるのでいい案はないかと言ってきた。
もともとここはboxing clubではなくフランス語でboxe clubにしようとしたが、しかしboxeではよくわからないのでやめた。大学生がかっこいいじゃないですかと言っていたが、フランス語はあまり浸透していないのでだめだ。
さらにラテン語で「alea jacta est」(サイは投げられた)これは自分たちのクラブがリングに上がる前に言っていた言葉、さらに私の好きな言葉で「dum spiro spero」(息をする限り希望を持つ)何かもかっこいいんじゃないか、でもこういう教訓はある程度教養がなければわからない、特にサイは投げられたが語られたときの時代背景がわからなくてはただの勢いだけの言葉にひとしくなってしまう。
でもなぜラテン語かと言うとラテン語は古い言葉で英語やヨーロッパの言語の語源となっているからだ、だからその語源となっている言葉を用いると言うことは言葉を支配していると言うことであり、言葉を支配すると言うことは、相手を支配すると言う意味でラテン語にこだわっているのだが、おそらく我々が試合の前に言っていた言葉もそういう意味があったと思う。

ネーミングや言葉と言うのはセンスとともに教養も多少は必要だ。
バカな奴の言葉やネーミングしたのはすぐにわかる。
あまりセンスがなく、ネーミングすると飲み屋の名前や暴走族の当て字のようになり下品になる。
よくTシャツとかグローヴとかに英語とか言葉をいれているのを見るが、時々見ていてなんじゃこれはというのがある。
ネーミングなんかもスナックの名前みたいなものもあって、たぶん意味を深く考えず勢いだけでつけたんだろうと思うのだが、そういうネーミングや言葉と言うのはそのつけた人間の考え方や教養的なものがよくでている。
狭い世界と言うのはまわりが見えていないので、そういう言葉が通用すると思いがちだが、しかしはたからみたらそれは笑えることであり、もう少し言葉を養わないとその言葉が独り歩きして、ただの勢いだけの言葉になってしまう。

言葉と言うのは重要だ、特に若い人たちには日常的な会話をするにも言葉を選ぶ必要があるが、特に指導する人間の言葉は影響力があるからだ。例えば「一球入魂」というような本能を刺激するような言葉とラテン語で書かれた教訓では競技者の受け取り方が違う。
勢いのある言葉と言うのは自分たちの世界に入って、そこで本能を刺激し闘争本能をたきつけることはできるのだろうが、しかし客観的になって物事を考える方向に向かうかと言うとそうではない。
おそらくラテン語などで書かれた言葉の方が考えると言う意欲を高める。一歩ひいて物事を考えると言うことに結び付くのではないかと思っている。
バカな奴が指導すると本能だけは刺激するが、しかし頭の部分は刺激しない。かっこよく見える言葉や漫画のような言葉でモティヴェーションを高めて、勢いをつけようとするが、しかしこういう言葉ばかりつかって競技者を煽っているだけでは肝心な部分が育たない。
よく競技をやめたら何をしていいのかわからないというような人間がいるが、おそらくそういう人たちはそういう世界で闘争本能だけをたきつけていたのだろう。モティヴェーションにやたらこだわるようなグループは気をつけたほうがいい。

話しは少し変わるが私は日本人というよりは、アジア人と言った方がいいと思っている。
アジア人の友達がいて、そして欧米にも友達はいる。たぶん彼ら彼女らは日本人の友達よりもはるかに多いのだが、そういう人間と仕事をしたり、また夜中にスカイプで情報交換をしている。
ただ学生時代私はアジア人のコミュニティーにいたわけだが、そこには韓国系,日系、中国系さらにバイレイシャルなどもいた。
もともとそこはアジア人が多いので圧倒的にそういう人たちが多く、英語を共通語にして、相手によっては韓国語、日本語、そして中国語などを使い分けて話すのだが、たぶんそういう英語を共通語にして、他の言語を使い分ける自分たちがかっこいいなどと思っていたと思う。
グレムリンという映画を知っているだろうか。
だいぶ昔の映画であるが、この映画は小さくて目のつりあがった悪魔のような生き物が、突然発生して人をおそうと言う映画であるが、その生き物は東洋人をモデルにしていると言われている。
チンキーアイで集団でかたまってわけのわからない言葉をぺちゃくちゃと話す。そういう我々に対する欧米人の嫌悪感が、この映画に現われているというのだ。
実は自分たちではかっこいいと思っていたが、しかし彼ら彼女らから見たら異様でへんな集団だ、たぶんこういうことも客観的に物事をみなかったら自分たちは国際的だなんてとんでもない勘違いをしていたのだと思うが、まさにそれは裸の王様である。

笑い話だが童話の「裸の王様」を「naked king」と訳した奴がいた。
裸の王様は「the emperors new clothes」なんでも直訳したらいいというものではない。これは直訳したらやばいと思うようなものは、しないほうが賢明である。







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