そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

やまゆり園事件、犯人の優性疑念は日本御底流に消えない

2023-07-26 | 格差社会
相模原市の知的障害者施設、津久井やまゆり園で43人殺傷(19人が殺害)事件から今日で7年となる。この事件は、現在の日本が抱える大きな問題を象徴的に顕在化した事件といえる。一年前には犯人の植松聖の問題と、社会の対応の問題を指摘したが、殆ど変わりなく強固な防犯システムに囲われた以外、園は何事もなかったように、園児を受け入れている。
19人殺害は、戦争以外で一人の人物が殺害した最大人数である。犯人の植松聖は、「重度障害者は生きている意味がない。石早津できない人間は存在意義がない。彼らに対する出費をなくしたことで私は表彰される。」と、述べている。いわゆる確信犯と呼ぶにはあまりにも大きな事件で、確信犯の範疇を逸脱さえし、多くの人にどこかに潜む想いさえ引き起こすものでさえある。
国がこのような人たちを処分するための安楽死の法制化さえも、植松聖は構想していた。
植松の思いと大きく重なるのが優性保護法が内包する、障がい者は社会に不要な存在という概念である。それはこの国の底流に蠢くもので、ハンセン病(ライ病)や森永ヒ素ミルク中毒や水俣病の初期を支配していた。北海道ではアイヌ民族への差別は彼らを歴史からほとんど魔性した。
社会の通年との戦いが何より大きかったのであるが、石原慎太郎の知事時代の、「この人たちに人権があるのか」と問うたことがその象徴でもある。
支配者や成功者の意識さえされない差別概念が未だ消えない。植松死刑囚は上告もしないという、死刑という制度の空洞感も問われることになる

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