そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

メディアとしての公共放送

2015-05-24 | トランプ
時折興味があったりするとみている、マイケル・サンデル氏の白熱討論番組である。彼は結論を急がない。むしろ出さないと言った方が良いであろう。問題を投げかけて考えさせる。その出し方は流石に上手い。しまい方に問題が残る。
昨日は「公共放送の未来を考える」であり、公共とは何かを提起するものであった。世界各国の放送局の担当者が30名ほど集められていた。例のように多くの問題がばら撒かれた感はあるが、特に気なったのが国家との関係である。
フォークランド紛争の時に、サッチャー首相はBBCに対して、「”イギリス軍”という表現を止めて”わが軍”と報道せよと」激怒したというのである。これを聞かずに、BBCの役員は紛争後解任されている。
「貴方たちは”わが軍”と表現するか」とサンデル氏は問いかけた。これに対して、多くの参加者は否定した。そこで彼は質問を変えて、「ではオリンピック報道ではどうか?」と問いかけた。出席者も多くは困惑していた。オーストラリアの編集者は、「基本方針を対象によって変えるからだよ」と発言したが、報道の自主規制を権力者に示すことになる。
これでは権力者のプロパガンダになり下がるのではないか。報道は権力の番人たれと言われているが、自主規制は、宗教に限って行っているとしたオランダの発言があった。日本の場合は、かなり恣意的に行われているという気がしてならない。
戦争や紛争は敵国を殺すなり領土や何らかの利権を脅かす行為であるが、スポーツはこうしたことが全くなくルールの下で平等に競うことである。サンデス氏の設定がおかしいのである。スポーツが自国に対する贔屓報道であることは、多くの人たちから支持されるものである。
それでは、公共放送は支持される報道を重視するべきかと、サンデル氏は問いかけている。民放に関わっていた人物が、硬い政治報道にミニスカートの若い女性を司会者にすれば、視聴率は上がると発言している。それでは、見てもらうことがそれほど重要なことなのであろうか?
公共放送の定義は判然としてしないが、全ての人に悲劇を共通体験させる接着剤と規定するならば、自主規制の質は強く問われることになる。
視聴者は単なる消費者ではない。様々な決定をする基準にもされるし、インターネットとの質的相違を明らかにして高めればならない。日本の公共放送は、ネットの補完メディアに堕しているように思えてならない。

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