
都会の方々はあまり深刻に食料危機を感じていないようである。「私たちに残された時間は多くない 」とは東大名誉教授の鈴木宣弘先生の言葉である。人口が減少してゆく農村、高齢化が進行してゆく農村、無機質な巨大な施設が並ぶ農村を見ていると、食料の確保や地方の衰退を見ていると、もうすでに遅いのではないかと思われたりする。
先日見覚えのある農民の爺様たちの団体に出会った。尋ねると、「老人会の帰りで、皆で英気を養っている」と言うのである。雑談の中で、人が少なくなった話を向けてみたら、営農しているのは「俺の地区は終戦直後は32戸あったが今は3戸だ」と言うのである。
半数まではまだ健全な経営を残った農家が取り組んでいたが、その後は規模拡大を重ねて、膨大な資本を資金が求められ、従業員を抱えるような、かつてない光景が出現するようになった。
そして現在、ウクライナ・コロナ以降、大規模な農家は苦悶している。負債を抱え経営も円安で倍化した機械や設備と、膨大な電力や水道代それに人件費に苦悶する。
その一方、自己資金を家族型農業を変えず規模も同じ農家が、健全な経営をやっている。そして健全な農産物を生産し、環境への負荷もほとんどせず生き残っている。
そして、典型的な4K職業を若者は敬遠する。規模とは余り関係なく、後継者は少ない。
鈴木宣弘先生は、日本の食料自給率は、種や肥料の自給率の低さも考慮すると「実質10%程度」という状況と説明する。(下表参照9.2%となっている)しかしそれに人的資源を加案すると、もっと低く見るべきでもある。「私たちに残された時間は多くない」は脅しなどではない。コメは足りている、不足などしていないという言い続ける国は、正確な生産量も流通機構すら把握していないことが解った。コメは足りていないのである。
令和のコメ騒動はその象徴、長年の農業政策への無関心の結果といえる。備蓄米を随意契約で放出しても、農家の手取りが増えるわけでもない。価格が下がっても、一時のものでしかない。来年一気に増産などできるわけもない。先物買いが進んでいる現在もっと高くなる可能性すらある。
そもそも、生産を促すには、コメの価格を上げるしかない。正確に言えば農家の手取りを増やすしかないのに、小泉の御坊ちゃまがやっていることは、価格を下げることである。
農家に価格補償若しくは生産費の保障をしなければならない。つまり財政出動は避けられない。古米を吐き出して安くするするなどは、郵政の民営化で地方を疲弊させた総理の息子が考えるせいぜいの、浅薄対策でしかない。
自動車などの工業製品の輸出を進めるために農業分野を差し出す、「生贄政策」のもとで日本農業は破壊され続け、主食のコメさえ供給不足となる危機的状況になったが、それでも出す政策は目の前のコメを安くする、今だけの目くらましである。しかも、農水大臣はパフォーマンスをマスメディアに取材させる劇場型でご満悦である。
備蓄米が僅か3か月程度であることも恥じるべきである。それに購入業者は、備蓄米は買い戻さなければならないのである。備蓄米の総量を少なくとも現在の倍にはして、保管をせいぜい2年程度にすべきである。それ以上の余った備蓄米は、古古古米を国内処理するのではなく、世界中の飢えている人たちへと回せば、感謝を貰い感謝され済むことである。
”あきたこまち”が乗っ取られてしまっている。秋田県が供給する種もみが今年から、ほぼ全量「あきたこまちR」に切り替わってしまった。 特許を持った種子として、農民は自由に作付けは出来なくなっている。日本の農業は種子を乗っ取られ始めている。こうしたことに対策するのが、農水省の日本の食を守る仕事であり、自給を高めることになる。
ノーテンキに、「古古米も味は変わらない、旨いねー」などと言っている場合などでないのである。
