goo blog サービス終了のお知らせ 

そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

盛会だった戦争苦難にに学ぶ会

2011-08-17 | 戦争

110815syuku  別海九条の会と読み聞かせの会で、開催した「戦争苦難に学ぶつどい」は、思った以上に盛会でした。原爆の写真展示と戦死者の遺品の展示、それに読み聞かせとミニコンサートでした。

 読み聞かせは、別海九条の会が製作した「沖縄で生き残った一兵士の証言」の紙芝居と、平和への祈りとしての童話などの読み聞かせでした。

 こんなへき地でも、50人を超える人たちが集まってくれまし110813_10た。何度も席を増やさなければならない、嬉し悲鳴でした。終戦記念の二日前ということもあってか、参集者の意識も高く主催者側としては、所期の目的は達成したと思います。

 現在数少なくなった、戦争体験者の声をこれからは時間を作って聞きとって行きたいと思っています。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦争の遺品に学ぶつどい

2011-08-11 | 戦争

 当地(別海)の図書館で、13日に「戦争苦難に学ぶつどい」を、別海九条に会が開催いたします。(左の北海道新聞記事はクリックすると大きくなります)

 会員の一人が、たまたま見つけた祖父の軍人手帳から、会員が家族のSyuku_2 戦争に係わる遺品を持ち寄りました。

 とりわけ、戦地からの手紙などは、戦時中の国民の心情が偲ばれます。また教育の大切さなども同時に実感したりします。

 そうした遺品を持ち寄り展示します。そして当日の午後は、沖縄戦を生101127_11syukuき抜いた、一兵士の話を紙芝居にしました。読み聞かせの会の方が、聞かせてくれます。

 もうすぐ今年も終戦の日が来ます。先人の苦労、日本が危険な戦争へと歩んだことを忘れないように、私たちの少し先輩の方々の道を確認したいと思います。

 よみきかせの紙芝居は、午後一時からです。展示は10時からやっています。入場は無料です。

左に<晩夏を彩る赤い花>をアップしました。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国民を裏切った日本軍

2011-08-07 | 戦争

 昨日のNHKスペシャルは、原爆投下に関して新たな事実を掘り起こした番組であった。日本の諜報機関はそれなりに優れていたようで、アメリカの飛行機の動きや通信内容など、思っていた以上に察知していた。

 アメリカに遅れまいと、日本も原爆作成に取り掛かってはいたが、アメリカは製作を断念したと根拠のない理由を付けて、開発でPhotoきなかった理由を覆い隠した。事実を認めるよりも、自らの立場の言い訳を優先させたのである。戦後官僚に引き継がれているが、日本陸海軍の無謬性体質がここにある。

 何よりも、たった一機で来たB19を察知しておきながら、空襲警報すら出さなかった事実には驚かされた。長崎については、5時間前に察知していた。せめて空襲警報が出ていれば、かなりの国民の命が救われたと思われる。

 5時間あれば、かなり手ごわい相手とはいえ何らかのことが出来たはずと、紫電改の兵士は唇をかみしめる。軍人として申し訳ないと言っている。

 アメリカ空軍の編成についてもかなり詳細に察知していた。特別部隊の存在も彼らは、上部に知らせている。

 先週のNHKスペシャルも、広島長崎の原爆の被害実態を、大動員かけた日本の医師団は詳細にまとめあげていが、それをアメリカに渡したという内容のものであった。被害の実態を聞きとられ、報告した人たちは治療などの役立ててもらえるものと期待し、協力した。

 ところが、この詳細な被害実態は66年経って、ようやく日本の目に触れたのである。アメリカは、後ほど冷戦の基本戦略に、彼らの報告書を大いに役立てた。核兵器の威力の詳細を把握できたからである。

 なぜアメリカに原爆の医学的な意味も含めた、被害実態の報告書を献上したのかという質問に、当時の責任者は731石井部隊の例を上げた。アメリカに心証を良くするためだったというのである。

 旧満州で、中国人を生体実験に使っていたデーターを、石井部隊から貰うことで、アメリカは彼らの戦争とはかけ離れた非人道的な行為を、不問にしたのである。それに倣って、原爆被害の詳細な報告書を、被爆者のためではなく、アメリカの冷戦の戦略に役立てさせたのである。

 多くの国民は、「お国のために」と死んでいった。そのお国を統治する権力者たちは、国民のことなど考えてはいなかったのである。自らの立場を何より優先する、保身体質は官僚の中に未だに残されている。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

枯葉剤の傷跡を見る

2011-02-01 | 戦争

今回のNHKのETV特集は「枯葉剤の傷跡を見つめて」というものであった。枯葉剤の遺伝的な問題は、ベトナムのベトくんドクくんの癒合した2胎児などで知られている。現在もその傷跡は大きく、手足の欠損や頭部の奇形が広く知られている。胎児の奇形は、次世代にまで及んでいる。しかも、現在も生まれ続けているのである。

さらに奇形児の障害はベトナムだけではなかったのである。アメリカ帰還兵やジャーナリストたちも、当然のことながら米軍が安全を補償をした、枯葉剤に何の防御もなく汚染されていたのである。アメリカは枯葉剤の催奇形性を認めていない。

枯葉剤の関連施設にいた帰還兵は結婚し子供をもうけたが、何らかの障害を持つ子供がたくさん生まれている。アメリカは未だに奇形児との因果関係を認めていない。1985年に訴訟があったが、1人当たり250ドルと言う信じられない和解金が出た程度である。しかも帰還兵本人に対してである。

国家が認めていないアメリカの、枯葉剤による奇形児たちは悲惨である。ベトナムのように国家が認めていないからである。アメリカは、ベトナムを忘れようとしている。事実すっかり忘れて、今またアフガニスタンにイラクにと、同じ過ちを犯している。「私は自分の子供まで戦場に連れていくことになるとは思ってみなかった」という、帰還兵の言葉を重く捉えるべきである。

番組は、肝臓がんで急逝したアメリカ人ジャーナリストの奥さんで、映像作家坂田雅子さんのレポートによって構成されている。彼女は子供がいない。枯葉剤による子供への影響を恐れ、設けなかったのである。

Photo_2自分同じ指の奇形の子を、訪れたベトナムで合い涙する片足のアメリカ人の涙は哀しい限りである。彼女は、妊娠中に超音波で胎児の異常を確認したら堕胎するとするベトナム医師へ、強い反発をした。奇形でも私は生まれてきて良かったというのである。医師が、生存不能な脳などの障害に限ると補足すると安心したようである。

戦争は終戦で終わるものではない。戦争は国家が傷つくものではなく、国民が傷つくものだと思い知らされた番組であった。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

根室旧海軍牧の内飛行場のこと

2010-10-21 | 戦争

先週、ねむろ九条の会主催の”根室牧の内飛行場 慰霊・踏査”に参加してきた。根室市から101011_6trim_2先は、戦前は全く農家もない地域だった。根室市街から東に20キロほどのところに、海軍の空 港があった。昭和18年(1943年)に建設が始まった空港は「タコ」と呼ばれる、多くの日本人、朝鮮労働者によって建設された。

戦後の多くの資料が焼かれて、詳細は不明であるが相当数の朝鮮人労働者がいたようである。朝鮮人労働者用の「三角兵舎」は6棟あった。平均200名の定員に、250名ほどが収容されたよう101011_23syuku であることから、2000名ほどいたようである。朝鮮人兵舎は板一枚の極めて環境が悪い、半地下式のものだった。当時小学生として、勤労動員で協力した方の話を聞き、当時をうかがい知ることが出来たのは幸いである。

その方の話だと、真冬でも薄っぺらな着るものを付けているだけだった。痩せていて、労働しながらもいつ倒れるか分からないような、ふらふらで働かされていた。何人も死んだようであるが、詳細なことは何一つ残っていない。残されていないと言った方が正しいかもしれない。この方は、日本が中国や朝鮮に謝るのは当然で、何度謝っても償いきれるものではないと、目を潤ませながら話されていた。

終戦直前に発疹チフスが発生し、日本人を含む多くの方が亡くなられたとのことでした。根室市の献身的な医師が、朝鮮人などを治療に尽力されたとのことであるが、その方々(2名?)の医101011_18syuku 師も自ら感染し亡くなられたそうである。

現在残っているのは、コンクリート製の滑走路と、飛行機を収納する掩体壕だけである。木造の兵舎や格納庫や軍の施設や、根室の町から引かれていた鉄道も駅も今は影も形もない。僅かに残る滑走路で犠牲者の供養をした。

根室を訪れる多くの観光客でこの地を訪れるものはないし、地元の方々もほとんど知る人がいない。私達は、戦後ただひたすらにこうした戦争の傷跡を隠しながら走り続けてきた。過去を検証することがなく、新たな愛国心を奮い立たせようと政府もマスコミも躍起になっているように思える最近の風潮である。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦時下・戦後の我が家

2010-08-15 | 戦争

今日は終戦記念日である。日本が350万人もの犠牲者を出して、戦争Trimsyuku 終結をようやく天皇の“御聖断”で終結させた日である。国体護持(天皇を守るということである)を最優先させた無条件降伏のポツダム宣言から、22日の経っていた。その間に100万人近い人が犠牲になっている。

大本営は、ポツダム宣言を無視することで乗り切ろうとした。この間に、広島長崎の原爆投下や、関西地域の大規模な空襲が無差別に行われ、地方都市は空襲によって壊滅状態になるところも少なくなかった。

我が家は、東京の真ん中で何度も空襲を受け、逃げ惑っていた。疎開先に荷物と次男を20年1月に送っている。この最初の荷物だけが無事であったが、その後の荷物はことごとく、どこかの操車場で灰になったのであろう。疎開先の広島には届くことがなかった。

残った貴重な戦時下の写真がある母が男の子3人を引き連れたこの写真は、奇跡的に残った1枚である。手を繋がれてようやく立っている私は、1歳を過ぎたばかりの、昭和19年(1944年)の秋とのことである。写真を撮る余裕があったという意味で、まだ裕福だったのかもしれない。(クリックすると大きくなります)

焼夷弾による東京空襲は身に付けた僅かなものを残して、我が家の財産をことごとく灰にした。私は、母の背中で火の中を長兄とともに逃げ惑った。その痕跡は、母が決して捨てようとしなかった、防空頭巾に無数に穴の火の粉による焼けた跡となって残っている。

戦後間もなく疎開先で父の戦死の公報を受け、母は女手一つで育てることになった。僅かな預貯金は、戦後の大インフレで無いに等しいものになってしまった。火災保険は、重病になって治療することになった、二男の入院費に消えた。住むところがなく、親戚を転々と厄介になる生活がその後しばらく続くことになる。

家庭の大黒柱を亡くした我が家の生活は、困窮を極めた。お嬢様育ちの母を戦争は逞しくさせた。父の知り合いの紹介で母が定職に付けたのは、26年になってからである。男手が残っている人を羨む言葉を何度も吐いていた。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代を語る言葉

2008-08-14 | 戦争

昨年、論座に「戦争は希望」という小論文が掲載され話題になった。戦争は希望と捕える、行き場がなく寄り掛るところもない、若者たちの心情をこのフレーズに見ることができる。

社会的位置や職業に目的を見出せない若者たちは、目的が鮮明で、やることがはっきりしている戦争なら、身の置き場があると思ったに違いない。戦争は見事に、手段は問わず目的を鮮明ににしてくれる。それは、戦場での一方的な思いこみでしかないが、今彼らの目の前に差し出されると「希望」に満ちた内容となるのである。

戦争の有無や可否を問いかけているのではない。閉塞した現状に対峙するあり方として、戦争を捉えているのである。

「戦争が希望」、このフレーズを聞いた途端に、思い出したことが2つある。一つは、ニュ55_3ース23で、若者が司会者の筑紫哲也に「人を殺して何が悪いのですか」と発言したことである 。司会者は、何も答えることができなかった。言葉に詰まっていた。

もうひとつが、マネーゲームでお金儲けをしていた村上何某であるが記者会見で「お金儲けって悪いことですか?」と、記者連中を見まわして発言したことである。その時は、誰も反論するものがいなかった。

後ほど時間が経つにつれて、筑紫哲也は反省をしながら、この少年に即答できなかった自らを悔いる発言を繰り返していた。もうすでに、10代の半ばにもなれば、人殺しの犯罪性、罪悪感は身についているはずである。私たちはそうした前提で、話を進めてきているのである。何かが現代に足りないのである。

お金儲けは、それは手段の中かその過程で生じるものとすることに、日本的美学があったはずである。「おかげさまで」とか「世話になっています」とすることで、結果的に儲けるのが前提としてあったはずである。金儲けが目的としては存在しなかった。そういう連中はあこぎな代官や商人として、勧善懲悪の対象になっている。

お金儲けが、手段ではなく目的だけになっている典型が、株などの投機である。村上何某は、社会的活動はなにも問うことがなく、投機だけで勝ち組になっている。投機の対象の会社が、何をしていようが関係ないのである。

戦争に希望を見出そうとする額に汗する若者たちは、質的に異なるものの矢張り社会的活動は問うことなく、仕事を欲しがっているのである。マネーゲームで巨万の富を蓄える連中と、同じ土壌で全く正反対の位置に置かされる。その結果、彼らの希望は戦争となるのである。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悲しみに耐える力をください

2007-12-28 | 戦争

クルドを追って攻め入り戦死した最愛の息子の血塗られた遺品を前に

トルコの母が涙を拭うことなく手を合わせ言う

「神様、私に悲しみに耐える力を授けてください」・・・と

国のために死んだ息子を誇りに思うと

嗚咽を抑え、真紅の国旗に口づけし

母は健気に語る

イスラエルの銃弾に散った息子の死んだ場所を

オリーブの樹の下に見つけ跪き号泣する喪服の母

その母は

息子は祖国のために戦ったと、真っ赤に腫れた目頭を上げ

「息子の死を誇りに思う。悲しいけれど私たちは屈しない」

と胸を張る

夫を戦場に送り出す若き妻は

幼子の手を引き、乳飲み子を抱え

作り笑顔で何度も夫の頬に口づけし

送り出す

戦はいつも、女に悲しみを積み重ね

繰り返される

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北海道にも空襲があった

2007-09-27 | 戦争

太平洋戦争の終戦直前に、北海道に空襲があった。かすかな記憶を、根室空襲研究会の方がまとめてくれた。北海道の空襲は、終戦の年の昭和20年(1945年)7月14、15日のわずか2日だけ070922_3_3であった。

80ほどの市町村が、太平洋に浮かぶ空母からの艦載機の空襲を受けている。死者は2,000人程であった。室蘭は艦砲射撃を受けたが、釧路、根室が多くの犠牲者をだしている。函館は連絡船の犠牲者もあって、もっとも多くの犠牲者(死者520人ほど)を出している。

それ以外のところは、小さな軍事工場を抱えていたりしたところであるが、ほとんどが空襲警報すらなく、日常の中で不意の攻撃であった。そのため、多くの地域に犠牲者が北海道に散らばっている。

空襲は、日中戦争で国民政府のいる重慶を日本軍が爆撃したり、ドイツとイタリア軍がスペインのゲルニカを攻撃したのが始まりと言われてい070922_10 る。空襲は、それまでの戦争が兵士間の戦いであった戦争を一変させた。戦闘要員でない一般人を攻撃するのである。空襲は、無差別攻撃の始まりなのである。

一般に、空襲と言うと東京や大阪などの大都市だけが受けた被害のように思われてる。空襲は非人道的な無差別攻撃である。北海道の田舎には、防御の手段も何もない攻撃であった。それも僅か2日の出来事である。

日本のこんな田舎でも、大きな空襲を受けていた。根室では、死者400名近く負傷者はその数倍と思われる。市街地のほとんどを焼失している。別海、中標津、標津でも空襲を受けている。そんな中にあっても、軍部は被害実態を隠してるために、軍関係者の被害の詳細は不明のままである。

その後の調査でも、民間人と区別して軍人は扱われている。軍人は靖国に奉られ恩給を受けている。同時に空襲で亡くなったった民間人には何もない。戦争は非情である。

いつの時代でも犠牲になるのは一般人である。戦争を語り検証する、地味な活動が平和を語る資格があると思われる。自衛権を集団なら行使してもかまわないとする連中に、こうした戦争の実態を聞かせたいものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そりゃ終末時計は進むだろ

2007-01-25 | 戦争

  Clock5_1 Atomic Scientists紙が終末時計を、2分縮めて5分前と発表した。従来は、主に核戦争の脅威や危機で、針を進めることが多かった。それでも5分前まで、進められたのは、過去4度しかない。今回何が針を進めさせたのであろうか。

今回は、核の脅威、気候変動、危険な科学技術の3点を挙げている。

核兵器は、過去の冷戦時期の米ソ対立の単純な図式から、01年のインド、パキスタンの競争的な開発。昨年の、北朝鮮の核実験やイランの核開発など、核拡散が更に広まり、破壊的なグループによる核テロも現実を帯びてきたと分析している。

気候変動は、繁栄の代償とはっきりと位置付けている。二酸化炭素放出による、温暖化Photo_70 が地球を破滅的なものにしている。この速度は過去にないものである。

危険な科学技術とは、遺伝学と生物学の進歩がもたらした技術に警鐘を鳴らしている。人の健康維持に貢献する片方で、これらの技術は頭脳の昨日の操作、生殖機能のコントロールなど動物への技術開発が危険な状態にある。その他、生物兵器の開発に貢献するようになると警告している。

過去進められた終末時計が何度か戻されたのは、核戦争に対する脅威の回避という、いわば交渉などによって人為的な操作が可能であったことであったが、今回は特に残りの二つのどれを見ても、不可逆的であると思える。経済成長を止めることは最早できないし、科学技術の開発は止まることがない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

折り合いをつける

2006-09-23 | 戦争

Syuwa 絶滅危惧種の保護を個体の保護に限局してはならない。シマフクロウは、僅か80羽ほどになったのは、シマフクロウを食べたり殺したからではない。人間が彼らの生息環境を奪ったために、種を繋ぐことができなくなったのである。特別天然記念物のシマフクロウの個体を傷つけたりすると罪になるが、彼らの生息環境を破壊しても問われることはない。シマフクロウを保護しようとするとすれば、環境を守らなければできないことである。

シマフクロウには金を出すが、環境保全には無関心の環境保護政策など意味がない。この構図は、農家には金を出すが、農業には金を渋る農業政策構造にどこか似通っている。

日本には美しい言葉が沢山ある。その中に「折り合いをつける」という言葉がある。肩肘を張ることなく、お互いに存在を確認しあうことが、持続する環境保護なのである。江戸が見事な環境循環都市であったように、農村では里山を守り棚田を作って自然に和んだ風景と、入り会いなどでお互いをいたわる国を先人たちは築いてきた。

今度総理になるお坊ちゃまがこの国を「美しい国」にしたいという。経済効果が優先される開発などではなく、自然と折り合いをつけて、シマフクロウが舞いきれいな森や里山があるのが本当の「美しい国」であろる。憲法を変えてまで軍隊を持ち、核兵器を保有することが美しい国の姿とは思えない。

人を危めることが仕事の軍隊を持つより、相互の国がおり合いをつけることがこの国の憲法が示した外交の精神である。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羅臼港

春誓い羅臼港