半透明記録

もやもや日記

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『すばらしい新世界』

2008年04月18日 | 読書日記ー英米
オルダス・ハックスリイ 松村達雄訳
(「世界SF文学全集10」早川書房)

《あらすじ》
「中央ロンドン人工孵化・条件反射育成所」では、階級ごとに選別された胎児が安定的に大量生産されている。この文明世界においては人々は「共有、均等、安定」のなかにあり、人工孵化は人々を「単なる自然への奴隷的模倣」であった妊娠・出産に伴う家族関係から解放し、彼らはまた病も老いも死をも恐れることなく幸福に暮らしている。
そこへあるとき、不幸とも言える偶然によってこの文明社会に、上流階級の男女を「両親」に持つ青年が現れ――。


《この一文》
“しかし、一たん目的観的解釈を認め出せば――いや、その結果がどうなるか、しれたものでない。それは、上層階級の思想堅固ならざる連中の条件反射訓育をただちに台なしにするおそれのある思想である――彼らをして至高善としての幸福に対する信仰を失わせ、その代りに、目標はどこかはるか彼方に、現在の人間世界の外のどこかに存すると信じ込むようにさせ、人生の目的は幸福の維持ではなく、意識の何らかの強化と洗練であり、知識のある種の拡張だと信じさせるようになるかも知れない。多分その考えが正しいかも知れないのだが、と所長は思うのだった。しかし、現在の状況ではそれは認めるわけにはゆかぬ。 ”





絶句。

思考の混乱。

どう考えていいのだか、さっぱり分からない。ただ、暗いひとつの考えがあまりにはっきりと頭に浮かんでくる。ひょっとしたら人類は幸福というものには……。だめだ、うまく考えられない。私は深いところではたぶん、この恐ろしさの源を理解しているのだろうけれど、どうしてもそれを取り出してみる気になれない。きっと耐えられないような気がする。

読む前からある程度は分かっていたつもりだったけれど、なんという暗鬱な物語だろう。なにが暗鬱かと言うと、人類の幸福なんていうものは、どこにもないのじゃないだろうかということを考えずにはいられないのです。いや、どこにもないと言うよりはむしろどうにでもなるもの、それは単なる条件反射、刷り込み、いくらでも誰かの思うがままに操ることが可能なもの。しかも、思い込みだろうが洗脳だろうが、それで実際に幸福感を味わえるとしたら…。そんなのは間違っていると、偽物の幸福に過ぎないと、果たして言い切ることができる人間など本当にいるだろうか。

かりに造られた幸福感を偽りのものだと断ずるとして、「真の幸福」を得るために時々持ち出される「苦痛」や「煩わしさ」というものの必要性。だが、こういうものは何故必要なのだろうか。幸福と、いったいどんな関係があるのだろうか。「苦しみを乗り越えてこそ幸福な未来が得られる」というようなことが時々叫ばれるけれど、果たしてそうだろうか。それはそれで重度の思い込みではないだろうか。だって、どこにも根拠や関連を見いだすことができない。そもそも「未来」などという何の当てもない時点を持ち出すこと自体、壮大な誤魔化しの臭いがぷんぷんする。

幸福というのは何だろうか。私たちはなぜそれを求めなければならないのか。与えられることと、獲得することとにどんな違いがあるというのだろうか。「幸福感が感じられる」という結果が同じだとすれば。

分からない。

例えば、全ての人がいつまでも若々しく健康で、自らの置かれた環境に満足し、汲み尽くせないほどの喜びと快楽を保証された世界に暮らせるとする。人々はもはや誰かの「親」であったり「子」であることを止め、独立した個人として存在しつつ、社会全体の一部でありそのために自分に最も適した場所で働く。人口は安定的に維持・管理され、完全に階級分けされた人々はもはや無意味な競争にさらされることも他者を抑圧することもなく最大限の幸福の中に暮らすことができる。そして、そのことを誰一人疑問にも思わないで受け入れている。
率直に言って、私にはこれがうらやましいと思える。誰だって病気をしたくないし、できることなら老化や死の恐怖などを味わいたくないのじゃないだろうか。でもって、少ない椅子を取り合って、無いかも知れない能力があると信じて罵りあい、殴り合い、相手を引きずりおろそうとしないですむ世界。血縁という謎めいた関係性に縛り付けられては行動を制限され、謎めいた慣習や迷信に縛り付けられては活動を限定されることのない世界。これを幸福ではないと、どうやったら言い切れるだろう。

ところが、彼らがこの状況を受け入れているのはひとえに「徹底的な条件反射の植え付け」によるものだとする。とすると、「そんなのは嫌だし、非人道的だ!」という考えも出てくるだろう。幸福は人から一方的に与えられるものでも押し付けられるものでもない、洗脳によって得られる幸福感など偽物だ。そうかもしれない。苦痛や不安定というものがあってこそ、はじめて幸福の輝きが増すのである。血みどろの殺しあいを経てこそ、平和のありがたさが身にしみる。そうかもしれない。親子の愛情は何ものにも代えがたいものだ。子は親に育てられるのがもっとも幸せなのだ。そうかもしれない。
親子の愛情と言えば、こんな一文があった。

“ 総統は二十度パイプを突き刺した。するとちょびちょび出るけちくさい噴水が二十できた。
「わたしのベビーちゃん、わたしのベビーちゃん……!」
「母ちゃん!」かく狂気は伝染する。
「わが愛するものよ、たった一人の、大切な大切な………」
 母親、一夫一婦制、ローマンス。噴水は高く噴き上げる。ほとばしる水は猛烈な勢いで泡立つ。衝動はたった一つの吐け口しか持たない。”

“ 家族、一夫一婦制、ローマンス。至るところ排他主義、至るところ興味の集中、衝動と勢力を狭い通路に専ら流し込む。”

ともある。私はこれにぞっとしてはいけないと思いつつ、ゾっとなってしまった。ああ、だけどこんなふうに考えてはいけない。ここに「狂気」など見いだしてはいけない。だが、じゃあこれは何だ? 何故、血の繋がった自分の子を特別に愛することがこんなにも美徳とされるのか。何故、すべての子を同じように愛することができないのか。この排他主義というやつを無視することは私には難しい。こんなことを考えてはいけないのだろうか。いけないさ。何も間違ってはいないだろうから。
だが私は経験的に、すべての人が必ずしも自分の子だけを愛するわけではないと知っている。だからなおさら、この排他主義というやつを無視することが私には難しく思えるのかもしれない。

他人を押しのけなければ自らの存在意義を認めることが出来ず、戦争を体験しなければ人は平和に暮らすことは出来ず、また親に育てられなかった子は完全な幸福を得ることが出来ないのか?

本当にどうなのだろうか。一般的な感覚からみれば「当たり前」に思えるかもしれないが、結局はそれも人類が長いことかけてやってきた、最も効率的で効果的な教育という名の条件反射の植え付けではないだろうか。しかし、こういうことを考えてはいけないのだろうか。いけないかもしれない。不安になる。

こんな一文もあった。

“「不幸への過剰補償(ある欠点をかくそうとして、反対の特性を極度に誇張すること。精神分析学用語)と比べれば現実の幸福はかなり醜悪なものに必ず思えるものなんだから。そして、いうまでもなく、安定は不安定ほどには目ざましいものでもないから。それに、満足の状態というものは不幸との勇敢な戦いのような輝かしさも全然なく、誘惑との苦闘だとか、熱情や懐疑による致命的な敗北などのような華やかさも全然ない。幸福とはけっして壮麗なものではないのだ」 ”

停滞。
私はこれが恐ろしいのだろうか。そうかもしれない。だけど「何故それが恐ろしいのか」と問えば、何とも答えられない。何故。何が。


物語では、文明社会における人々の幸福観と、その社会の外からやってきた青年が持つ幸福観とが激しく衝突します。どちらが正しいのか。多分、どちらも……。要するに、幸福とは何かと言えばそれは「どのように教育され、何を教え込まれたのか」によって大きく左右されるものであり、正しいとか正しくないとかいう判断は下しようがない、ということだろうか。私はこの物語における文明社会の生活をうらやみつつも何か釈然としない気持ちを抱え、一方でその外からやってきた《野蛮人》である青年の主張するところの苦痛を克服してこその幸福、という考えにも納得できなかった。どちらも、何か、どこかがおかしい。けど、それが何なのかがどうしても分からない。


幸福とは何か、正しい社会とは、正しい人間とは、などということはどうだっていいと思いたいのに、私の気持ちはとめどなく沈みながら、もうこれ以上考えたくないのに考えるのを止めることができない。何故だろう。何が気に入らないのだろう。あまりの寄る辺なさに、ひどく不安を感じる。どうしてしまったことだろう。どうしたらよいのだろう。

ただひとつ言えることは、今の私にはまだ立ち向かえない。この物語に立ち向かい、そこから何か有用なものを得ることはできそうもない。私が今のところ得られたのはただ、重く沈む心と、青ざめた顔、冷たく震える手。それだけだ。