半透明記録

もやもや日記

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『モモ』を読んでさらに考える

2007年09月13日 | もやもや日記
***以下の記事は***

1年以上前に書いておきながら、公開できなかった記事を思い出しました。当時はあまりの痛さに公開をためらったのですが、今あらためて読んでみても、やはり痛いです。しかし、やみくもに過ぎてしまった過去を反省するとともに、一方でこの1年間で私は多少なりとも成長しただろうという期待を込めて、あえてここでお目にかけることといたしましょう。







【2006-06-16 の記事】

エンデの『モモ』を読んだ後、考えたことをまとめてみます。読書感想というには個人的な問題へのこだわりが強すぎるかもしれません。



さて、エンデは『モモ』の中で次のように書いています。

「時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。
 (中略)
 けれど、時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。
 人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。」


おお、まさに。私もかつてそのことに絶望して、でかい落とし穴に落っこちてしまいました。生活のために時間を切り売りする。なんと言っても生活のためだ。家族のためだ。未来のためだ。そう言ってあくせく働く自分には、しかし生活はほとんど失われてしまっていたのです。ご飯を作ってそれを味わうゆとりも、好きな本を読むゆとりも、いつか起こるかもしれない楽しいことを想像するゆとりもなくなってゆきました。しまいには、天気を気にしたり、今が昼なのか夜なのかさえ問題ではなくなりました。感性などなくても、仕事をしてお金をもらえればそれで良いのだ、と思いたかったのです。しかし、ある日、そういう状況がその先もずっと続くのだろうかと想像してみた途端、ただちに私はまっ逆さまに転落してしまいました。

私のもっとも重大な過ちはつまり、私が仕事に対して、また人生に対して、残念ながらなんの興味も愛情も誇りも持っていなかったということにあると今では思っています。

「社会を良くするために働くのだ」と言って、自分のことを顧みずに働く人々をしばしば目にします。実に偉大で素晴らしいことだとは思いますが、それはその人がそうすることを心から納得している場合に限るのではないでしょうか。結局のところ、人間は自分以外の幸福のために働くことはできないのではないかと私は考えるからです。
「誰かのためになることが嬉しい(すなわち、それが自らのためでもある)」という喜びがこれっぽっちもわいてこず、ただ肉体的にも精神的にも辛いだけの労働を「世の中のためだ」と言って耐えるのは、それは単なる思い込みのごまかしなのではないでしょうか。「自分さえ我慢すれば済むことだ」と思っては、私は自分の人生に意味も目的も持てないことから生じる不安や不満をごまかしていました。
そしてそれは、「思うようにいかないのは世の中のせいだ」という考えに限りなく近づいていたと思います。情けなくて恥ずかしいことです。

『モモ』の中で、道路掃除夫ベッポは、いなくなったモモの身代金を払うつもりで、それまでの自分の仕事への誇りを捨て、やり方に納得がいかなくても、とにかく必死で働きます。しかし、結局モモが戻ってきたのは、そのおかげではありませんでした。
ベッポのこの死にものぐるいの労働は、生活に寄り添ったものではなく、その働きぶりに納得していないために心までも失ってしまうようです。ベッポはモモを取りかえせないばかりか、自らの誇りや幸福もなくしてしまいます。実に悲しいことです。ベッポはとても善良な人間です。しかし、いかに善良だとしても、彼の時間をそっくりそのままモモに譲り渡すことは出来ません。自分の時間は自分のためにしか使えないのです。
同様に、彼の幸福もそっくりそのままモモに譲り渡すことは出来ません。何をどのように感じるかは、その人本人にしか決められません。ベッポがどうであれ、モモは幸福かもしれないしそうでないかもしれない。つまり、それはどうしようもないことです。
それよりも確実そうなのは、自分が幸福であるかどうか、あるいは納得できるかどうかです。自分の生き方に納得できないということは、他人の幸福に繋がらないばかりか、確実に自分自身をも幸福から遠ざけるでしょう。誇りを失ったベッポには、近くを通り過ぎるモモを見つけられなかっただけでなく、モモのほうでもまたそのあまりの変わり様にベッポであると気付きさえしなかったのです。


私という人間は考え方も甘ければ、はかりしれない愚か者でもあります。自嘲でも自虐でもなく、悲しいことにそれは事実なのです。自分で掘った大穴に自分から落っこちたのが5年前。そのまま滅びさってもよかったのに、なぜかそうはならないで、飛び散った残骸をかき集めるのにその後3年、繋ぎ合わせて這い出す準備ができるまでにさらに2年もかけてしまいました。これを愚かと言わずに何と呼んだらいいのだろう。




*******************

一体何があったんだ、というくらいに暗いですね、このときの私ったら。
これに比べると、今はずいぶんと明るくなったと思います。
明るくなったとしても依然として愚かさは軽減していないようですが、
そんな私にも、人生は素晴らしいと思えるのですよ。

これぞ、進歩。





ポロン

2007年09月11日 | もやもや日記
銀座WEST



このあいだ東京へ行った時に、銀座ウェストでお菓子を買ってきました。パイなどもおいしいのですが、私はこの《ポロン》が好きです。ナッツ入りの丸い焼菓子のまわりに粉砂糖がまぶしてあります。

べつに冷やさなくてもよさそうなのですが、冷やして食べると美味であります。砂糖が冷たくて、とっても良い感じ。写真は食べる前に撮ったらよかったのですが、箱を開けたらとても我慢していられなくて、ずいぶん食べてしまったものを撮影。白い見た目が丸くて可愛いところも好き。


東京時代の私は、優しいおじさまや素敵なお姉さま方に可愛がられ、あちこちのおいしいものの味を覚えさせてもらいました。この WEST もそのうちの一軒です。苺大福のおいしいあのお店にも行きたかった……けど、夏だったので暑いといたむと思い、買えず。冬にまた上京することがあったら買いに行きたいところです。



『ドイツ怪談集』

2007年09月10日 | 読書日記ードイツ
種村季弘 編 (河出文庫)


《収録作品》
ロカルノの女乞食……ハインリヒ・フォン・クライスト
廃屋……E・T・A・ホフマン
金髪のエックベルト……ルートヴィッヒ・ティーク
オルラッハの娘……ユスティーヌス・ケルナー
幽霊船の話……ヴィルヘルム・ハウフ
奇妙な幽霊物語……ヨーハン・ペーター・ヘーベル
騎士バッソンピエールの奇妙な冒険……フーゴー・フォン・ホーフマンスタール
こおろぎ遊び……グスタフ・マイリンク
カディスのカーニヴァル……ハンス・ハインツ・エーヴェルス
死の舞踏……カール・ハンス・シュトローブル
ハーシェルと幽霊……アルブレヒト・シェッファー
庭男……ハンス・ヘニー・ヤーン
三位一体亭……オスカル・パニッツァ
怪談……マリー・ルイーゼ・カシュニッツ
ものいう髑髏……ヘルベルト・マイヤー
写真……フランツ・ホーラー


《この一文》
”それから二人は、都会の貧しい雪が薄く降り積もった街路を歩いていった。高い建物の谷間になった街路で、薄く霜のおりた電線の針金の真中に、二、三個星が出ていた。その星は電線の間に捉えられた楽譜記号のきらきら光る点のように見え、地上で屈辱を強いられる天井の光の、無限に厳しく苦痛にみちたメロディーをあらわしていた。
  ―――「死の舞踏」(カール・ハンス・シュトローブル)より  ”


”ところが現実は、禁断のひそやかな空想を味わった廉でまことに手きびしい罰を下すのだ。この種の人間はそもそもがいかなる俗事をも企ててはならぬ、家を建てたり、国債を買ったりなどしてはならぬのだ! ――地上ばなれのした瞑想に耽ってさえいれば、失望もそれほど激甚ならずともすむではないか!
  ―――「三位一体亭」(オスカル・パニッツァ)より  ”





途中までしか読んでいないのに、すっかり読みおえたと思って放置してありました。あるいは、やっぱり読みおえていたのだけれど、内容を忘れてしまったのか、後半はまるで初めて読むような新鮮さでした。真相は分かりません。いずれにせよ面白かったから、それでよいのです。


クライストやホフマンの作品は、正直「またこれか」というくらい、あちこちのドイツ小説集に収められているもので、どうやら定番中の定番であるもよう。「騎士バッソンピエールの奇妙な冒険」(ジョジョっぽいですね)も、どこかで読んでいました。

ですが、その他の作品については私は初見のものばかりで、たいそう興奮いたしました。

「金髪のエックベルト」は童話風の美しい描写ながら、かなり暗い内容です。問題作ですね。妙な味わいがあって、とても面白かったです。

「オルラッハの娘」は、少しだけ『尼僧ヨアンナ』を彷佛とさせるオカルトものです。なんとも不気味なんです。これは怖かった!

「幽霊船の話」は、まあありきたりと言えばありきたりのお話ですが、アラビア風の幻想をうまく描いているので、とても楽しく読めました。印象的なお話です。

「こおろぎ遊び」以下の作品は、いずれも「ええッ!? それで、つまり!?」という読後感です。わりと現代の物語なのでしょうか。分かるような分からないような結末でしたが、どれもたいへんに面白かったのはたしかです。迫力がありました。

このなかには気持ちが悪かったものもありまして、「カディスのカーニヴァル」などはたいして怖くもなさそうなのに、妙に不気味でした。
祭りの夜に、切り株が広場を歩き回り……という内容で、私は《歩く切り株》と言えば映画『黒猫白猫』(エミール・クストリッツァ監督)にも登場するメルヘンでファンシーなイメージが脳裏をよぎったのですが、この作品では恐ろしげなものでした。ああ、なんだか気持ち悪い。

「ものいう髑髏」はちょっとユーモラスで良かったですね。


それにしても、ドイツ小説はいつ何を読んでも、どこか秋のような感じがするのでした。



『大貧帳』

2007年09月09日 | 読書日記ー日本
内田百間 (「内田百間集成 5」ちくま文庫)


《内容》
借金、借金、そして借金。深刻な状況のはずなのに、何故かくも面白い文章になってしまうのか。「つくづく考えてみると、借金するのも面倒臭くなる」と呟き、半可通の借金観には腹を立て、鬼のような高利貸との長年にわたる奇妙な交流を振り返り。
借金の権威、百間先生の言葉の魔術にからめとられ、金銭観が変わってしまう危険な一冊。

《この一文》
”日暮れに雨が上がった後は、部屋の中にいると、もやもやする程暖かくなったので、外に出て見たら、町にはずらずらと灯が列んでいる。明かるくて、綺麗で、どこまでも続き、遠いのは靄の中で光っている。ぶらぶら歩いて振り返り、又横町をのぞいて見ても、どこにも、きらきらと電燈が点っている。大した事だと考えて、少しく荘厳の気に打たれた。どの家でも、みんな電燈料を二ヶ月以上は溜めていない証拠なのである。
  ―――「風燭記」より   ”

”貧乏だって、お金の儲かることもある。ただその儲けた金が、身につかない。どう云う風に分別しても、足りっこないのが、貧乏の本体である。即ち借りても儲けても、どちらにしても、結局おんなじ事で、忽ちのうちに無くなってしまう。その無くなるまでの、ほんの僅かな間、お金が仮にそこに在ると云う現象のために、益苦しくなるのが貧乏である。貧乏の絶対境は、お金のない時であって、生中手に入ると、しみじみ貧乏が情けなくなる。
  ―――「大晦日」より   ”

”抑も、貧乏とは何ぞやと小生は思索する。貧乏とは、お金の足りない状態である。単にそれ丈に過ぎない。何を人人は珍しがるのだろう。世間の人を大別して、二種とする。第一種はお金の足りない人人である。第二種はお金の有り余っている人人である。その外には決して何物も存在しない。第三種、過不足なき人人なんか云うものは、想像上にも存在し得ないのである。自分でそんな事を云いたがる連中は、すべて第一種に編入しておけばいいので、又実際に彼等は第一種の末流に過ぎないのである。
 (中略)
あっても無くっても、おんなじ事であり、無ければ無くてすみ、又無い方が普通の状態であるから、従って穏やかである。多数をたのむ貧乏が、格別横暴にもならないのは、貧乏と云う状態の本質が平和なものだからなのである。
  ―――「無恒債者無恒心」より  ”


はあ、面白い。いくら引用してもし足りないくらいに面白いところが多いです。貯蓄をしたいのに稼ぎがないので当然ちっとも貯まらないことにむしゃくしゃしている私などは、なんだか自分がとんでもなく愚かなんじゃないかと思わされるようです。愚かというか、品位を感じられない…。浅ましいことだ……。お金なんて幻想だ。使いもしないで貯め込んでいても、まったくの無意味。と、ついつい思ってしまいます。

借金に翻弄され、俸給を差し押さえられ、家財は質に、家にもいられぬようになり場末のアパートでひとり隠れ住み、それでも百間先生はしぶとく長生きされました。しかもたくさんの人から愛され、尊敬を受けて。つくづく、ただお金を持っているだけでは、人間が偉くなるわけではないのだなあと思います。先生はお金を持っていませんでしたが(むしろ常にマイナス)、尊敬されるだけの品位と、知性と、能力があったのです。

実際のところは相当に辛い状況だったこともあっただろうに、それを面白可笑しく書くことができるのがすごいのです。辛いことが辛いのは当たり前のことです。私は当たり前のことを当たり前のように言われるのは好きません。辛いことのなかに面白さを発見できる人というのは、人間としてレベルが数段上であると思います。よって、私は百間先生のその卓越した文章のみならず、そのお人柄をも敬愛してやまないのでした。



美しい夢のひと

2007年09月07日 | 手作り日記

(画像をクリックしていただくと、別館へ飛びます)


先日新設したブログのヘッダー用に絵を描きました。

本当は、これ、アニメーションになってるんです。
でも、アニメーションのままではヘッダーにうまく貼れなかったんです。
やりかたが、分からなかったんです……うぅ。
結局、静止画を貼りました。

まあ、止まっていてもいいか。

【9月10日 追記】
 Mさんのご親切のおかげでヘッダーにフラッシュアニメを
 貼ることができました♪
 ありがとうございました!




この赤いキツネと白いキツネは、なんと恋人同士です。驚きましたねー。あえて男女を区別したくない主義の私としたことが、こんなキャラ設定なんてあり得ないと思っていたのに、やってしまいましたねー。
赤いほうは姓をマクスウェルといいます。名前はまだありません。
白いほうは姓はありませんが、名前をヴィオラということにしようと思います。こちらが女の子ですよ。

ふたりの恋人たちは、いつも夢の中で美しく見つめあうのでした。
はあ、どきどきする。
(この絵でそれが伝わるかどうかはともかくとして)

こんな妄想をさらけだすのにも、そろそろ慣れてきましたね。


こうふくないちにち

2007年09月06日 | もやもや日記
風邪をひいて仕事を休んだ。
ところが、「休みます」と職場に連絡した途端に具合が良くなった。怠け者とか裏切り者という非難を受けてもやむを得ないと思いつつ、休んでしまったものは仕方がないので、せめて楽しく一日を過ごすことにする。

まずは内田百間の『大貧帳』を読む。珍しく最後まで読む。目から鱗。しみじみと悲しい話や美しい話もあるにはあるけれど、やはり大抵はにやにやが収まらない。帽子のエピソードが面白い。ちくま文庫から出ているこの本を買ってから初めて最後まで読んだので今まで知らなかったが、あとがきの後ろにさらに、百間先生の教師時代の同僚で作家の森田草平氏の随筆が付いていて、それが先生の帽子の話とちゃんと符号しているのでまた笑う。

掃除をする。
平日の昼間から掃除ができる幸福を、久しぶりに感じる。

夕方。実は休み休み読み進めていたため、このときになってようやく『大貧帳』を読み終えると、外で蝉が鳴いていた。一匹だけ、ほんの少しの間だけ鳴いていた。蝉はそれっきり鳴かないで、あとはカラスがいつまでも鳴いているのが聞こえている。



出ばなをくじかれる

2007年09月05日 | もやもや日記
もう秋だと思ってはしゃぎすぎたせいか、また発熱しております。はー、だるい。というわけで、記事のネタも思い付かず…。ひさびさの更新がこんな内容でスミマセン。

ほんとうは書きたいことがあったのですが、(地獄の黙示録豆腐炒めを作ってしまった話とか、「あ、お足下にスリッパ的なものが…」の話とか、ようやく理解したFlashのデジタル時計のscriptの書き方のメモとか)思うように書けず。

さらに追い打ちをかけるように、今日職場で渡された契約更新書の内容で、来期は時給が1円も上がらないことが分かり、モチベーションは急降下です。体力を回復して、断固戦わねばなりませぬ。くっそー、なめやがって。


しかし、頭に血がのぼるとろくなことがないので、例によって百間先生にすがっています。面白いなー、あいかわらず。この発想。さいこうです。そうだ、ものの見方を変えるんだ。


人はときどきは自分のつまらなさということを思い出さねばなりませんね。自分にとってはなにが重要なのかということをすぐに忘れてしまう上、それがひとによって異なるものであるはずだということも忘れてしまうので、なんだかむやみに転げ回らねばならないようです。
また、ひとつの考え方だけが正しかったということは(しかもそれが「すっかり正しいこと」として全てのひとに認められていたことは)、歴史的にみると今のところないです。熱があるのでそのようにはっきりと断言してしまいますよ。
つまり、私はひょっとしたら極めてつまらないことで悩んでいるんじゃないかと確認すべきなのです。そしてもっと自分でちゃんと考えるべきだ。そのくらいの能力はあるはずだ。ということです。


はー腹減った、さて、飯食うか。
今日はサバの味噌煮にします。


ちょっとしたお知らせ

2007年09月02日 | 自作アニメーション
実はこのたび、

新たにもうひとつ

ブログを立ち上げました。

(なんてどうでもいいお知らせ…)


そちらには軽めの Flashアニメーションなどを置く予定です。となると、あまり更新はされないだろうと予測されますので、引き続きこちらの『半透明記録』をよろしくどうぞ☆

あ、いやいや、せっかく作ったのだし、宣伝せねば。
えーと、よろしければどうぞいつでもお立ち寄りくださいませ♪
新しいところは FC2 です。テンプレートの変更がかなり自由にできるので楽しいのですが、いかんせん html も css もよく分からない私の手には負えず、目下七転八倒中(週末はほぼこれに費やしました。はあ)。そのうちオリジナルテンプレートに変更したいところですが、今は用意されたやたらとスタイリッシュなものを使用中。


 →→ 『不透明記録:層


あらかじめ申し上げますと、まだ何も置いてありません;
昔から公開していた「ひまわり」と、ようやく出来るようになった 「Flashのデジタル時計(適当版)」しか、ありません。

 これと

 これ。ついにデジタル攻略。半年悩んだが半日で出来た。

おいおい数を増やしたいところです。


以上、ちょっとしたお知らせでした。




『パプリカ』

2007年09月01日 | 読書日記ー日本
筒井康隆 (新潮文庫)


《あらすじ》
精神医学研究所に勤める千葉敦子はノーベル賞級の研究者/サイコセラピスト。だが、彼女にはもうひとつの秘密の顔があった。他人の夢とシンクロして無意識界に侵入する夢探偵パプリカ。人格の破壊も可能なほど強力な最新型精神治療テクノロジー「DCミニ」をめぐる争奪戦が刻一刻とテンションを増し、現実と夢が極限まで交錯したその瞬間、物語世界は驚愕の未体験ゾーンに突入する!


《この一文》
”「おかしな夢をいっぱい見るよ」
 「夢はいっぱい見た方がいいのよ。その方があきらかに頭がよくなるの。面白いひとは面白い夢をいっぱい見るわ。つまらないひとはつまんない夢しか見ないの。」   ”



冬にアニメ版の映画『パプリカ』を観にいってからずっと、「原作も読まねば」と思っていたのに放置。その後半年以上経過、一緒に映画を観にいってくださったお友達のKさん(筒井ファン)とお会いするたびに「ところで、あれ読んだ?」と聞かれつづけても、まだ放置。…そうだ、読まなきゃ、そろそろ……と微妙に焦っていたら、とうとうKさんが文庫の『パプリカ』をくださいました。
いやもう、ほんとスミマセン; たいへん面白かったです。ありがとうございました!


読み始めると、いつものことながら物語は読みやすくしかも大変に盛り上がるので、一息に読んでしまえます。興奮しました。

別に比較するつもりもなかったのですが、読んでみると、アニメ版は時間やその他もろもろの制約があるだろう上で、かなり原作を忠実に再現していたことがわかります。とは言え、やはり一般公開の劇場版とするからには、原作ではわりと重要な部分である性的な部分はごっそり除かれていて、そこは少し残念。あの人間関係を説明するためには、けっこう重要な部分だと思うのですがねえ。
筒井先生の作品ではときどき見受けられる同性愛とか超絶美女との交わりというのは、露骨な性描写が苦手な私でも抵抗なく受け入れられます。肉欲そのものというよりは、それによって訴えているある種の美意識のほうが強いように思えるからかもしれません。

とにかく、今回も主人公が美しいんです。『七瀬ふたたび』などもそうでしたが、常軌を逸した美しさに加えて知性も備えているという「あってはならない存在」の千葉敦子。あまりに完璧、「美人なのを利用していて、ちょっとずるいかも」と自覚しているところも含めて、完璧。なんてこった、手も足も出ません。圧倒的に魅力的。どきどき。パプリカに変身する場面では、ちょっと笑えましたが。意外と地道なリアル過ぎる変身方法、ぷぷっ。

物語にも娯楽性が満載で、かなり引き込まれます。夢と現実がごちゃまぜになるあたりの場面は非常に迫力がありました。面白い。

しかし、結末については、実を言うと……よく分からなかった。あれってどういうことですか?! なんか意味がありそうなのは感じたのですが、分かるような分からないような…。《ラジオ・クラブ》の玖珂さんが重要な役割であるのは分かりました。(そう言えば、アニメ版では筒井先生ご本人がこの玖珂さんの声をなさっていた気がする)
えーと、つまり、夢と現実は複雑に繋がりあっているんですよ。

面白かったです。