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『真理先生』

2007年09月22日 | 読書日記ー日本
武者小路実篤 (『武者小路実篤集 筑摩現代文学大系19』所収)

《あらすじ》
私(山谷五兵衛)はある時、真理先生と知り合う。家族もなく金もなく、何も持たぬ真理先生はしかし大勢の人々が彼を慕って集まってくる。私は真理先生とつきあううちに少しずつ世の中に対する見る目を変えてゆき、この世間には存外いい人が多いものだと感じるようになるのだった。


《この一文》
”「今時に金がなくって生きられる人は先生の他にはないでしょう」と言ったら、
 「実際僕は運のよすぎる人間だ。ありがたいと思っている。僕のような我儘な人間が、皆に愛されると言うことは、実にありがたいことと思っている。僕程仕合せ者はないとよく思う」
 真理先生は、涙ぐみながらそう言った。
 聞いている僕の目も涙ぐんで来、いい人だと思った。  ”



はっきり言って、真理先生というのはただのろくでなしじゃないか。
そうとも言える人物です。だがしかし、このさわやかさは何だ。
この人の言うことに惹かれてしまうのは、どうしてだろう。
私は先生のようないい人ではないけれど、真理先生の考えには9割がた賛同する。
同じ思想を持った同族であるとほぼ言っていいかもしれない。
胸がいっぱいになる。


真理先生は、かつて妻に逃げられた上に、はじめから儲からなかった仕事もついにはしなくなるものの、今では彼を慕う人々が身の回りの世話をしてくれるので自分では一切お金を持たずに済む生活をしています。真理先生と呼ばれていますが「真理」についていったい何を話すのかと言うと、彼は単に真心を持って、相手を好きになって、正直に自分のままで居ながら、いろいろなことについての自身の考えを話すだけなのでした。しかし、そういう彼の態度に多くの人が心惹かれ、ある種の宗教的光景が真理先生のもとで繰り広げられるのです。

私は真理先生の「人類の平和を心から願っている。具体的な方法としての提案はないけれども、とにかく心から願っている」という考えは甘いにもほどがあると思いはしますけれど、だけど悪くないと思います。いえ、実に素晴らしい考えだとさえ思います。だって、彼は、人類を信じているのです。人間のなかの暴力や残虐を恐れ憎みつつ、しかし人類の幸福な未来を信じているのです。信じるだけでいい、ただ心から信じるのだ。そうやって一心に願う人間による行動はどういうものであれ、きっと人類の幸福に繋がるはずだ、そういう人間があらゆる方法であらゆる方向から進めばそれでいいのだという彼の思想に、私が反論する余地はありません。ただ涙が出そうになるだけです。



このような真理先生に触れることで、物語の語り手である山谷は変わっていきます。山谷が変わるにつれて、彼が当初から交遊していた友人のへたくそで売れない画家 馬鹿一、書家の泰山、泰山の兄であり売れっ子画家の白雲子という人々にも変化が見られるようになります。

驚くのは、この物語には悪い人物が登場しないことです。というか、いい人しか出てこない。変わり者もいれば俗物もいるし、他人の悪口をついつい言ってしまう人もいるにはいるのですが、誰も彼もそう悪くもない、むしろちょっといい人なのでした。山谷はそれまでにはそのことに気が付かなかったのですが、次第に人々の美点というところに目が向き始め、自らもまた素直になっていくようです。最終的には山谷を中心として、登場人物は全員幸せな結末を迎えることになります。なんというポジティブ。

この物語の登場人物として、実は私が真理先生以上に魅力的だと思うのは、画家の馬鹿一。彼は40年ほどの長い年月を石ころを描くことに費やし(しかも下手)、友人たちからも軽蔑されている奇人です。彼はしかし非常なひたむきさをもって絵に取り組み、あるきっかけによってとうとうその真価を発揮するようになるのですが、そのあたりがとても感動的です。こういう人物がいたっていい、と思います。



武者小路実篤と言えば私は『友情』しか知らなかったし、またそれしか読んだこともない(しかも内容はさっぱりと忘れた)ですが、こんな清々しい物語を生み出すなんて素晴らしい人です。真理先生のような人物、それはつまり作者のような思想を持つ人物はたしかに過去に存在し、それを理解したいと思う私のような人物が現在にも滅びずに存在するわけです。そのあたりが不思議です。どういう理由でそういう《具体的、直接的には何も出来ないにもかかわらず、人類の幸福な未来という身の程を超えた壮大な空想》をする人間が世の中に発生するのでしょうか。やはり何か必然があるのでしょうか。

ちなみに私はこんなことを考えてしまう種類の人間です。

【2006/04/06 「美しさについてまだまだ考える」より】
私は「なにもかもが美しい世界」というものを夢見ているのですが、それは花や絵を見た時に感じるあの強烈なインパクトが常に持続することではなく、あらゆるものがそのものとして存在していることの確実さを、全てはある原理に則っているということを完全に認識できるような世界のことです。

そこでは何も花がいつまでも咲き続ける必要はありません。芽が吹いて、そのうち花が咲き、そして散ったあとには実がなった。その確実さ。もしくは、芽も出ないで、花も咲かず、実もならなかった。そのどうしようもないまでの確実さ。全てのものごとには然るべき理由がある(つまり世の中には無駄なものなど何ひとつないとも言えるかもしれません)ということが真理であったらよいのにと私は憧れているのでした。



上に私の取り留めもない文章を敢えて再録したうえで、最後にこれは100%私自身の考えでもあると思った箇所を引用しておきます。これは私にとって、この世界には肉体の血族のみならず、精神の血族というものも存在するということを証明するためのひとつの材料ともなるでしょう。


” そして何とかして人生は無意味なものではない、空虚なものではない。生き甲斐のあるものだということを自分で信じ切りたいと思っているのです。さもなければ生きていることはあまりに空虚で、淋しすぎます。そうはお思いになりませんか。
 しかし人生と言うものがどうしても肯定出来ないものなら、それも仕方がないと思うのですが、私はそうは思わないのです。
 人間は無意味に生まれ、無意味に死ぬものとは思わないのです。私は人間に生まれるべくして生まれ、死すべくして死ぬものだと思われるのです。花が咲いて散るようなものです。咲くのも自然、散るのも自然、自然は両者をよしと見ている。私はそう考えているのです。
 つまり私達は生まれるべくして生まれたのであります。この世に奇蹟が行われないとすれば我々は、生まれるべくして生まれたのであります。善悪正邪以上の力で人間は生まれるべくして生まれたのであります。
 (中略)
この力を私は知らないのです。しかしその力を私は信じるのです。

              ―――『真理先生』より   ”