***以下の記事は***
1年以上前に書いておきながら、公開できなかった記事を思い出しました。当時はあまりの痛さに公開をためらったのですが、今あらためて読んでみても、やはり痛いです。しかし、やみくもに過ぎてしまった過去を反省するとともに、一方でこの1年間で私は多少なりとも成長しただろうという期待を込めて、あえてここでお目にかけることといたしましょう。
【2006-06-16 の記事】
エンデの『モモ』を読んだ後、考えたことをまとめてみます。読書感想というには個人的な問題へのこだわりが強すぎるかもしれません。
さて、エンデは『モモ』の中で次のように書いています。
「時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。
(中略)
けれど、時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。」
おお、まさに。私もかつてそのことに絶望して、でかい落とし穴に落っこちてしまいました。生活のために時間を切り売りする。なんと言っても生活のためだ。家族のためだ。未来のためだ。そう言ってあくせく働く自分には、しかし生活はほとんど失われてしまっていたのです。ご飯を作ってそれを味わうゆとりも、好きな本を読むゆとりも、いつか起こるかもしれない楽しいことを想像するゆとりもなくなってゆきました。しまいには、天気を気にしたり、今が昼なのか夜なのかさえ問題ではなくなりました。感性などなくても、仕事をしてお金をもらえればそれで良いのだ、と思いたかったのです。しかし、ある日、そういう状況がその先もずっと続くのだろうかと想像してみた途端、ただちに私はまっ逆さまに転落してしまいました。
私のもっとも重大な過ちはつまり、私が仕事に対して、また人生に対して、残念ながらなんの興味も愛情も誇りも持っていなかったということにあると今では思っています。
「社会を良くするために働くのだ」と言って、自分のことを顧みずに働く人々をしばしば目にします。実に偉大で素晴らしいことだとは思いますが、それはその人がそうすることを心から納得している場合に限るのではないでしょうか。結局のところ、人間は自分以外の幸福のために働くことはできないのではないかと私は考えるからです。
「誰かのためになることが嬉しい(すなわち、それが自らのためでもある)」という喜びがこれっぽっちもわいてこず、ただ肉体的にも精神的にも辛いだけの労働を「世の中のためだ」と言って耐えるのは、それは単なる思い込みのごまかしなのではないでしょうか。「自分さえ我慢すれば済むことだ」と思っては、私は自分の人生に意味も目的も持てないことから生じる不安や不満をごまかしていました。
そしてそれは、「思うようにいかないのは世の中のせいだ」という考えに限りなく近づいていたと思います。情けなくて恥ずかしいことです。
『モモ』の中で、道路掃除夫ベッポは、いなくなったモモの身代金を払うつもりで、それまでの自分の仕事への誇りを捨て、やり方に納得がいかなくても、とにかく必死で働きます。しかし、結局モモが戻ってきたのは、そのおかげではありませんでした。
ベッポのこの死にものぐるいの労働は、生活に寄り添ったものではなく、その働きぶりに納得していないために心までも失ってしまうようです。ベッポはモモを取りかえせないばかりか、自らの誇りや幸福もなくしてしまいます。実に悲しいことです。ベッポはとても善良な人間です。しかし、いかに善良だとしても、彼の時間をそっくりそのままモモに譲り渡すことは出来ません。自分の時間は自分のためにしか使えないのです。
同様に、彼の幸福もそっくりそのままモモに譲り渡すことは出来ません。何をどのように感じるかは、その人本人にしか決められません。ベッポがどうであれ、モモは幸福かもしれないしそうでないかもしれない。つまり、それはどうしようもないことです。
それよりも確実そうなのは、自分が幸福であるかどうか、あるいは納得できるかどうかです。自分の生き方に納得できないということは、他人の幸福に繋がらないばかりか、確実に自分自身をも幸福から遠ざけるでしょう。誇りを失ったベッポには、近くを通り過ぎるモモを見つけられなかっただけでなく、モモのほうでもまたそのあまりの変わり様にベッポであると気付きさえしなかったのです。
私という人間は考え方も甘ければ、はかりしれない愚か者でもあります。自嘲でも自虐でもなく、悲しいことにそれは事実なのです。自分で掘った大穴に自分から落っこちたのが5年前。そのまま滅びさってもよかったのに、なぜかそうはならないで、飛び散った残骸をかき集めるのにその後3年、繋ぎ合わせて這い出す準備ができるまでにさらに2年もかけてしまいました。これを愚かと言わずに何と呼んだらいいのだろう。
*******************
一体何があったんだ、というくらいに暗いですね、このときの私ったら。
これに比べると、今はずいぶんと明るくなったと思います。
明るくなったとしても依然として愚かさは軽減していないようですが、
そんな私にも、人生は素晴らしいと思えるのですよ。
これぞ、進歩。
1年以上前に書いておきながら、公開できなかった記事を思い出しました。当時はあまりの痛さに公開をためらったのですが、今あらためて読んでみても、やはり痛いです。しかし、やみくもに過ぎてしまった過去を反省するとともに、一方でこの1年間で私は多少なりとも成長しただろうという期待を込めて、あえてここでお目にかけることといたしましょう。
【2006-06-16 の記事】
エンデの『モモ』を読んだ後、考えたことをまとめてみます。読書感想というには個人的な問題へのこだわりが強すぎるかもしれません。
さて、エンデは『モモ』の中で次のように書いています。
「時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。
(中略)
けれど、時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。」
おお、まさに。私もかつてそのことに絶望して、でかい落とし穴に落っこちてしまいました。生活のために時間を切り売りする。なんと言っても生活のためだ。家族のためだ。未来のためだ。そう言ってあくせく働く自分には、しかし生活はほとんど失われてしまっていたのです。ご飯を作ってそれを味わうゆとりも、好きな本を読むゆとりも、いつか起こるかもしれない楽しいことを想像するゆとりもなくなってゆきました。しまいには、天気を気にしたり、今が昼なのか夜なのかさえ問題ではなくなりました。感性などなくても、仕事をしてお金をもらえればそれで良いのだ、と思いたかったのです。しかし、ある日、そういう状況がその先もずっと続くのだろうかと想像してみた途端、ただちに私はまっ逆さまに転落してしまいました。
私のもっとも重大な過ちはつまり、私が仕事に対して、また人生に対して、残念ながらなんの興味も愛情も誇りも持っていなかったということにあると今では思っています。
「社会を良くするために働くのだ」と言って、自分のことを顧みずに働く人々をしばしば目にします。実に偉大で素晴らしいことだとは思いますが、それはその人がそうすることを心から納得している場合に限るのではないでしょうか。結局のところ、人間は自分以外の幸福のために働くことはできないのではないかと私は考えるからです。
「誰かのためになることが嬉しい(すなわち、それが自らのためでもある)」という喜びがこれっぽっちもわいてこず、ただ肉体的にも精神的にも辛いだけの労働を「世の中のためだ」と言って耐えるのは、それは単なる思い込みのごまかしなのではないでしょうか。「自分さえ我慢すれば済むことだ」と思っては、私は自分の人生に意味も目的も持てないことから生じる不安や不満をごまかしていました。
そしてそれは、「思うようにいかないのは世の中のせいだ」という考えに限りなく近づいていたと思います。情けなくて恥ずかしいことです。
『モモ』の中で、道路掃除夫ベッポは、いなくなったモモの身代金を払うつもりで、それまでの自分の仕事への誇りを捨て、やり方に納得がいかなくても、とにかく必死で働きます。しかし、結局モモが戻ってきたのは、そのおかげではありませんでした。
ベッポのこの死にものぐるいの労働は、生活に寄り添ったものではなく、その働きぶりに納得していないために心までも失ってしまうようです。ベッポはモモを取りかえせないばかりか、自らの誇りや幸福もなくしてしまいます。実に悲しいことです。ベッポはとても善良な人間です。しかし、いかに善良だとしても、彼の時間をそっくりそのままモモに譲り渡すことは出来ません。自分の時間は自分のためにしか使えないのです。
同様に、彼の幸福もそっくりそのままモモに譲り渡すことは出来ません。何をどのように感じるかは、その人本人にしか決められません。ベッポがどうであれ、モモは幸福かもしれないしそうでないかもしれない。つまり、それはどうしようもないことです。
それよりも確実そうなのは、自分が幸福であるかどうか、あるいは納得できるかどうかです。自分の生き方に納得できないということは、他人の幸福に繋がらないばかりか、確実に自分自身をも幸福から遠ざけるでしょう。誇りを失ったベッポには、近くを通り過ぎるモモを見つけられなかっただけでなく、モモのほうでもまたそのあまりの変わり様にベッポであると気付きさえしなかったのです。
私という人間は考え方も甘ければ、はかりしれない愚か者でもあります。自嘲でも自虐でもなく、悲しいことにそれは事実なのです。自分で掘った大穴に自分から落っこちたのが5年前。そのまま滅びさってもよかったのに、なぜかそうはならないで、飛び散った残骸をかき集めるのにその後3年、繋ぎ合わせて這い出す準備ができるまでにさらに2年もかけてしまいました。これを愚かと言わずに何と呼んだらいいのだろう。
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一体何があったんだ、というくらいに暗いですね、このときの私ったら。
これに比べると、今はずいぶんと明るくなったと思います。
明るくなったとしても依然として愚かさは軽減していないようですが、
そんな私にも、人生は素晴らしいと思えるのですよ。
これぞ、進歩。
自分も20代はそういうことを考えて苦しんできたなぁと。
私は、他によってしか自己認識できないようなセセコマシイ人間で、またあらゆる固定観念(なんか矛盾してる感満載の言葉だな)によって雁字搦めになっていました。それらは今も払拭できたわけではないのだけれど、それでも幸福について、ある意味開き直れるようになってくると、人生も意味をなしてくるのかな、と思うようになってきた…かな。
私も心中で悩んでいるだけだったらまだ良かったのだけれど、実害が深いところにまで及んでしまい、しかしあとのまつりです。
そういうわけで(?)私はいわゆる幸福というものを正面切って望んだりはできないのですが、絶望しないで進もうとする人生を幸福と言えるなら、それでもよいのかもしれないと思うようになりましたね。
ようやくちょっとは大人になってきたのかも。