内田百間 (「内田百間集成 5」ちくま文庫)
《内容》
借金、借金、そして借金。深刻な状況のはずなのに、何故かくも面白い文章になってしまうのか。「つくづく考えてみると、借金するのも面倒臭くなる」と呟き、半可通の借金観には腹を立て、鬼のような高利貸との長年にわたる奇妙な交流を振り返り。
借金の権威、百間先生の言葉の魔術にからめとられ、金銭観が変わってしまう危険な一冊。
《この一文》
”日暮れに雨が上がった後は、部屋の中にいると、もやもやする程暖かくなったので、外に出て見たら、町にはずらずらと灯が列んでいる。明かるくて、綺麗で、どこまでも続き、遠いのは靄の中で光っている。ぶらぶら歩いて振り返り、又横町をのぞいて見ても、どこにも、きらきらと電燈が点っている。大した事だと考えて、少しく荘厳の気に打たれた。どの家でも、みんな電燈料を二ヶ月以上は溜めていない証拠なのである。
―――「風燭記」より ”
”貧乏だって、お金の儲かることもある。ただその儲けた金が、身につかない。どう云う風に分別しても、足りっこないのが、貧乏の本体である。即ち借りても儲けても、どちらにしても、結局おんなじ事で、忽ちのうちに無くなってしまう。その無くなるまでの、ほんの僅かな間、お金が仮にそこに在ると云う現象のために、益苦しくなるのが貧乏である。貧乏の絶対境は、お金のない時であって、生中手に入ると、しみじみ貧乏が情けなくなる。
―――「大晦日」より ”
”抑も、貧乏とは何ぞやと小生は思索する。貧乏とは、お金の足りない状態である。単にそれ丈に過ぎない。何を人人は珍しがるのだろう。世間の人を大別して、二種とする。第一種はお金の足りない人人である。第二種はお金の有り余っている人人である。その外には決して何物も存在しない。第三種、過不足なき人人なんか云うものは、想像上にも存在し得ないのである。自分でそんな事を云いたがる連中は、すべて第一種に編入しておけばいいので、又実際に彼等は第一種の末流に過ぎないのである。
(中略)
あっても無くっても、おんなじ事であり、無ければ無くてすみ、又無い方が普通の状態であるから、従って穏やかである。多数をたのむ貧乏が、格別横暴にもならないのは、貧乏と云う状態の本質が平和なものだからなのである。
―――「無恒債者無恒心」より ”
はあ、面白い。いくら引用してもし足りないくらいに面白いところが多いです。貯蓄をしたいのに稼ぎがないので当然ちっとも貯まらないことにむしゃくしゃしている私などは、なんだか自分がとんでもなく愚かなんじゃないかと思わされるようです。愚かというか、品位を感じられない…。浅ましいことだ……。お金なんて幻想だ。使いもしないで貯め込んでいても、まったくの無意味。と、ついつい思ってしまいます。
借金に翻弄され、俸給を差し押さえられ、家財は質に、家にもいられぬようになり場末のアパートでひとり隠れ住み、それでも百間先生はしぶとく長生きされました。しかもたくさんの人から愛され、尊敬を受けて。つくづく、ただお金を持っているだけでは、人間が偉くなるわけではないのだなあと思います。先生はお金を持っていませんでしたが(むしろ常にマイナス)、尊敬されるだけの品位と、知性と、能力があったのです。
実際のところは相当に辛い状況だったこともあっただろうに、それを面白可笑しく書くことができるのがすごいのです。辛いことが辛いのは当たり前のことです。私は当たり前のことを当たり前のように言われるのは好きません。辛いことのなかに面白さを発見できる人というのは、人間としてレベルが数段上であると思います。よって、私は百間先生のその卓越した文章のみならず、そのお人柄をも敬愛してやまないのでした。
《内容》
借金、借金、そして借金。深刻な状況のはずなのに、何故かくも面白い文章になってしまうのか。「つくづく考えてみると、借金するのも面倒臭くなる」と呟き、半可通の借金観には腹を立て、鬼のような高利貸との長年にわたる奇妙な交流を振り返り。
借金の権威、百間先生の言葉の魔術にからめとられ、金銭観が変わってしまう危険な一冊。
《この一文》
”日暮れに雨が上がった後は、部屋の中にいると、もやもやする程暖かくなったので、外に出て見たら、町にはずらずらと灯が列んでいる。明かるくて、綺麗で、どこまでも続き、遠いのは靄の中で光っている。ぶらぶら歩いて振り返り、又横町をのぞいて見ても、どこにも、きらきらと電燈が点っている。大した事だと考えて、少しく荘厳の気に打たれた。どの家でも、みんな電燈料を二ヶ月以上は溜めていない証拠なのである。
―――「風燭記」より ”
”貧乏だって、お金の儲かることもある。ただその儲けた金が、身につかない。どう云う風に分別しても、足りっこないのが、貧乏の本体である。即ち借りても儲けても、どちらにしても、結局おんなじ事で、忽ちのうちに無くなってしまう。その無くなるまでの、ほんの僅かな間、お金が仮にそこに在ると云う現象のために、益苦しくなるのが貧乏である。貧乏の絶対境は、お金のない時であって、生中手に入ると、しみじみ貧乏が情けなくなる。
―――「大晦日」より ”
”抑も、貧乏とは何ぞやと小生は思索する。貧乏とは、お金の足りない状態である。単にそれ丈に過ぎない。何を人人は珍しがるのだろう。世間の人を大別して、二種とする。第一種はお金の足りない人人である。第二種はお金の有り余っている人人である。その外には決して何物も存在しない。第三種、過不足なき人人なんか云うものは、想像上にも存在し得ないのである。自分でそんな事を云いたがる連中は、すべて第一種に編入しておけばいいので、又実際に彼等は第一種の末流に過ぎないのである。
(中略)
あっても無くっても、おんなじ事であり、無ければ無くてすみ、又無い方が普通の状態であるから、従って穏やかである。多数をたのむ貧乏が、格別横暴にもならないのは、貧乏と云う状態の本質が平和なものだからなのである。
―――「無恒債者無恒心」より ”
はあ、面白い。いくら引用してもし足りないくらいに面白いところが多いです。貯蓄をしたいのに稼ぎがないので当然ちっとも貯まらないことにむしゃくしゃしている私などは、なんだか自分がとんでもなく愚かなんじゃないかと思わされるようです。愚かというか、品位を感じられない…。浅ましいことだ……。お金なんて幻想だ。使いもしないで貯め込んでいても、まったくの無意味。と、ついつい思ってしまいます。
借金に翻弄され、俸給を差し押さえられ、家財は質に、家にもいられぬようになり場末のアパートでひとり隠れ住み、それでも百間先生はしぶとく長生きされました。しかもたくさんの人から愛され、尊敬を受けて。つくづく、ただお金を持っているだけでは、人間が偉くなるわけではないのだなあと思います。先生はお金を持っていませんでしたが(むしろ常にマイナス)、尊敬されるだけの品位と、知性と、能力があったのです。
実際のところは相当に辛い状況だったこともあっただろうに、それを面白可笑しく書くことができるのがすごいのです。辛いことが辛いのは当たり前のことです。私は当たり前のことを当たり前のように言われるのは好きません。辛いことのなかに面白さを発見できる人というのは、人間としてレベルが数段上であると思います。よって、私は百間先生のその卓越した文章のみならず、そのお人柄をも敬愛してやまないのでした。
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