・幸福とは金が総てか・日本の再出発のために・文字通り貧乏人の子沢山だった我が家・昭和初期の子どもの私達の四季・子どもの娯楽・小学校・子どもの喧嘩・いじめ・小さいが溢れていた幸福
昨夜のNHKで「地球でイチバン幸せな国~ブータン~」と言う番組で、国民の97%が「私は幸せだ」と答え、83.6%が「生活に満足している」と答える…。そんな不思議の国ブータンへ。人口67万、ヒマラヤのふもとの小さな国のどこに、そんな“幸せ”があるのか? 本当に“幸せ”であふれているのか? そもそも“幸せ”って何? と言う放送がありました。
私もたまたま「幸福とは金が総てか・日本の再出発のために」を書いたばかりでしたので表記のことを書いて見たくなりました。
何しろ年寄りの「昔は良かった」と言う話しで、美化、昇華した話と思われるかも知りませんが、その点を割り引いて読んで下さい。 (本人はそのままを書いている積りですが。なお昭和の年号と私の満年齢が一緒ですのでご参考まで)
・文字通り貧乏人の子沢山だった我が家
今で言う薄給の非正規社員の父、専業主婦の母と子どもは姉、兄、私、弟二人の七人家族で、親切な家主さんの家に間借り。
母は炊事、洗濯、掃除など総て手仕事に加え、漬け物、味噌、甘酒など皆手作り、そして空いた手で内職と子どもからみれば休んでいないように見えました。
子ども達の楽しみは父が給料日に菓子(と言ってもせいぜいビスケット程度ですが)を買って来る事、土地に伝わる昔話をしたり、近くの名所やキャンプなどに連れて言って貰うこと。
姉は母代わりで弟達の世話。時には私を小学校まで連れていったそうです。
姉と兄は高等小学校(今の中学校)を卒業すると直ぐ看護婦見習い、工員として就職、給料は総て家に入れていたので、私以下の子どもは工業学校まで進学し、卒業後は当時で言う(初級管理者に繋がる)職員になりました。従って私は米寿が近い今でも姉や兄に頭が上がりません。
子ども達も母親の忙しさを見ているので、掃除、七輪おこし、井戸からの水汲み、弟をおんぶして遊びにでるなど、時に母から叱られながらですが出来る事はしていました。
・昭和初期の子どもの私達の四季
1月:枕の傍の置いてある新しい下駄、足袋、服などを付けておもちゃの名刺を持って近所のに年賀回り、カルタ、凧上げ、羽根つき
2月:旧の正月の餅搗き、正月用の餅の他、かき餅やあられ用の餅など正月ようの倍の 餅、雪がふれば雪合戦や竹で作ったスキー遊び
3月:母手作りの団子やあられ、甘酒など(私の家は女子は姉一人なのと貧乏で雛飾りなし)
4月:公園の花見の後の酒やビール瓶の回収での小遣い稼ぎ、学校の遠足(小遣い銭は決まって5銭で私の場合は森永キャラメル1~2個に残り飴玉を買う)
5月:手作りの柏餅やちまき、菖蒲の束を屋根の上に飾り、菖蒲湯
6月:螢狩り、わらの蛍加籠つくり、蛍を蚊帳の中で放す、山桃ちぎり
7~8月:灌漑用の川のダムでせき止められた所(所により子どもの背丈より深いところも)での水泳、歩いて2時間の所へ海水浴、子どものいる家は競争で七夕飾り、
8~9月:七夕飾りの竹で竹馬や竹トンボ。竹鉄砲など作って遊ぶ
10月:鎮守の神様のこども奉納相撲や運動会の参加と家族応援
11月:起業祭(現在の新日鉄八幡製鉄所の)市から配布された万国旗を各家で張りめぐらす。現在の中央区から西前田の製鉄所沿いの通りは万国旗の飾りで覆われる。見物に来る親戚のための甘酒作り、栗御飯などの御馳走、祭が終われば万国旗の旗だけ取り凧上げようの糸にする。
11月~12月:七夕飾りの竹を使っての凧作り、回収した糸を使っての凧上げ、正月へ向けての大掃除、畳を上げたあと、床に落ちている硬貨拾い、10銭銅貨でも拾えば大喜び
12月:正月用の餅搗き、親は子どもに内緒で下駄、足袋、服などのプレゼントの買い物
・子どもの娯楽 テレビなどの電機製品はまつたくなし、家では物好きの父が鉱石ラジオを作り皆が耳を寄せて聴くていど、それで主な娯楽となるものは雑誌や勧善懲悪の講談などの単行本の廻し読み、我が家では一晩中つけはなしの電灯(今から考えると電気代は大家さん持ちか?)のお蔭で、兄が借りて来た本を読み終わり寝るのを待って私が読むことが多かった。子ども達は正月のカルタで仮名文字を覚え、雑誌などふりがなだったので大人の本まで読めた。子どもよう雑誌の代表の「少年クラブ」は佐藤愛子さんのお父さんの紅緑さんの「一直線」、「ああ玉杯に花うけて」 (原文の一部が残っていますのでご覧下さい。)など立志小説や、「敵中横断300百里」などの冒険小説、軍隊に入った野良犬が出世する「のらくろ」の漫画など、子どもの教育に役立つものが多かった。
・小学校
情報不足や塾などがないので、教師の教えること皆新鮮で面白かった。然も読書で鍛えた理解力と子どもの記憶力で、集中して聴けば国語・算数などは家で予習・復習しなくても子どもにより差がでるが相当の力がついた。
・こどものコミュニティー
小学校前から終了まで位の子どもが主力、年長の子は小さい子をおぶったり、竹細工を教えるなど世話しながら遊んだ。時々高等小学校の生徒や旧制の中学校の学生が来て遊びを教えた。私たちのグループでは経緯は知らないが「***の小父さん」と言う子どもの世話をする大人がいた。
遊び場所は狭い庭や路地、ウンチを踏む危険性のある馬車や牛車の通る広い道、時には大人と一緒に縁台や各家の縁側。
・子どもの喧嘩
平手打ち、取っ組み合いが中心。拳固や足蹴はチンピラがするものとされていた。まして木刀、木切れ、石など使う子は卑怯者とされていた。だから子どもの喧嘩で怪我をする子がでないので、余程の場合を除いて大人の人達も片方が相手を抑えつけて勝負がほつくまで仲裁せずに見ていた。
・いじめ
多人数で一人を、強い子が弱い子を苛めるのは弱虫、卑怯な子だとされていた。一番よい例が私で、内向的、醜男、よれよれのお下がりの服、1~2年生ころまでは鼻汁を拭いた袖口はピカピカという苛められッ子の標本のような私でも工業学校卒業まで苛められた経験は一度も無かった。これは家内や同年配のだれに聴いてもいじめなど経験したことはないと言っている。ただ良く考えてみると小学校では私よりさらに酷いみなりの生徒や万引きを自慢する朝鮮人の生徒との交際の経験がないので、彼らから見れば疎外感を持っていたのかもしれない。
それともう一つは私たちの住んでいた北九州市の西部は炭鉱や工場の発展で人を受け入れる開放敵な人が多かったのもいじめの少なかったのかも知れません。
今から考えると、弁当のおかずは鰹の削り節に醤油の翌日は海苔の佃煮だけなどの超貧乏の私より少しばかり違う子ども達と今の子ども達に比べると、何をしても楽しい、何を食べていもおいしい、などレベルは低いかも知れませんが、今の子どもにくらべると幸福に感じる機会が格段に違うような気がするのですが如何でしょうか。 (昭和初期では玉子が最高の御馳走でしたので、同時期を過ごした老人を観察すると弁当箱の蓋に着いた飯粒を先ず食べること、その後玉子料理を最初か最後に食べる人が多いのに気付かれると思います。)
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昨夜のNHKで「地球でイチバン幸せな国~ブータン~」と言う番組で、国民の97%が「私は幸せだ」と答え、83.6%が「生活に満足している」と答える…。そんな不思議の国ブータンへ。人口67万、ヒマラヤのふもとの小さな国のどこに、そんな“幸せ”があるのか? 本当に“幸せ”であふれているのか? そもそも“幸せ”って何? と言う放送がありました。
私もたまたま「幸福とは金が総てか・日本の再出発のために」を書いたばかりでしたので表記のことを書いて見たくなりました。
何しろ年寄りの「昔は良かった」と言う話しで、美化、昇華した話と思われるかも知りませんが、その点を割り引いて読んで下さい。 (本人はそのままを書いている積りですが。なお昭和の年号と私の満年齢が一緒ですのでご参考まで)
・文字通り貧乏人の子沢山だった我が家
今で言う薄給の非正規社員の父、専業主婦の母と子どもは姉、兄、私、弟二人の七人家族で、親切な家主さんの家に間借り。
母は炊事、洗濯、掃除など総て手仕事に加え、漬け物、味噌、甘酒など皆手作り、そして空いた手で内職と子どもからみれば休んでいないように見えました。
子ども達の楽しみは父が給料日に菓子(と言ってもせいぜいビスケット程度ですが)を買って来る事、土地に伝わる昔話をしたり、近くの名所やキャンプなどに連れて言って貰うこと。
姉は母代わりで弟達の世話。時には私を小学校まで連れていったそうです。
姉と兄は高等小学校(今の中学校)を卒業すると直ぐ看護婦見習い、工員として就職、給料は総て家に入れていたので、私以下の子どもは工業学校まで進学し、卒業後は当時で言う(初級管理者に繋がる)職員になりました。従って私は米寿が近い今でも姉や兄に頭が上がりません。
子ども達も母親の忙しさを見ているので、掃除、七輪おこし、井戸からの水汲み、弟をおんぶして遊びにでるなど、時に母から叱られながらですが出来る事はしていました。
・昭和初期の子どもの私達の四季
1月:枕の傍の置いてある新しい下駄、足袋、服などを付けておもちゃの名刺を持って近所のに年賀回り、カルタ、凧上げ、羽根つき
2月:旧の正月の餅搗き、正月用の餅の他、かき餅やあられ用の餅など正月ようの倍の 餅、雪がふれば雪合戦や竹で作ったスキー遊び
3月:母手作りの団子やあられ、甘酒など(私の家は女子は姉一人なのと貧乏で雛飾りなし)
4月:公園の花見の後の酒やビール瓶の回収での小遣い稼ぎ、学校の遠足(小遣い銭は決まって5銭で私の場合は森永キャラメル1~2個に残り飴玉を買う)
5月:手作りの柏餅やちまき、菖蒲の束を屋根の上に飾り、菖蒲湯
6月:螢狩り、わらの蛍加籠つくり、蛍を蚊帳の中で放す、山桃ちぎり
7~8月:灌漑用の川のダムでせき止められた所(所により子どもの背丈より深いところも)での水泳、歩いて2時間の所へ海水浴、子どものいる家は競争で七夕飾り、
8~9月:七夕飾りの竹で竹馬や竹トンボ。竹鉄砲など作って遊ぶ
10月:鎮守の神様のこども奉納相撲や運動会の参加と家族応援
11月:起業祭(現在の新日鉄八幡製鉄所の)市から配布された万国旗を各家で張りめぐらす。現在の中央区から西前田の製鉄所沿いの通りは万国旗の飾りで覆われる。見物に来る親戚のための甘酒作り、栗御飯などの御馳走、祭が終われば万国旗の旗だけ取り凧上げようの糸にする。
11月~12月:七夕飾りの竹を使っての凧作り、回収した糸を使っての凧上げ、正月へ向けての大掃除、畳を上げたあと、床に落ちている硬貨拾い、10銭銅貨でも拾えば大喜び
12月:正月用の餅搗き、親は子どもに内緒で下駄、足袋、服などのプレゼントの買い物
・子どもの娯楽 テレビなどの電機製品はまつたくなし、家では物好きの父が鉱石ラジオを作り皆が耳を寄せて聴くていど、それで主な娯楽となるものは雑誌や勧善懲悪の講談などの単行本の廻し読み、我が家では一晩中つけはなしの電灯(今から考えると電気代は大家さん持ちか?)のお蔭で、兄が借りて来た本を読み終わり寝るのを待って私が読むことが多かった。子ども達は正月のカルタで仮名文字を覚え、雑誌などふりがなだったので大人の本まで読めた。子どもよう雑誌の代表の「少年クラブ」は佐藤愛子さんのお父さんの紅緑さんの「一直線」、「ああ玉杯に花うけて」 (原文の一部が残っていますのでご覧下さい。)など立志小説や、「敵中横断300百里」などの冒険小説、軍隊に入った野良犬が出世する「のらくろ」の漫画など、子どもの教育に役立つものが多かった。
・小学校
情報不足や塾などがないので、教師の教えること皆新鮮で面白かった。然も読書で鍛えた理解力と子どもの記憶力で、集中して聴けば国語・算数などは家で予習・復習しなくても子どもにより差がでるが相当の力がついた。
・こどものコミュニティー
小学校前から終了まで位の子どもが主力、年長の子は小さい子をおぶったり、竹細工を教えるなど世話しながら遊んだ。時々高等小学校の生徒や旧制の中学校の学生が来て遊びを教えた。私たちのグループでは経緯は知らないが「***の小父さん」と言う子どもの世話をする大人がいた。
遊び場所は狭い庭や路地、ウンチを踏む危険性のある馬車や牛車の通る広い道、時には大人と一緒に縁台や各家の縁側。
・子どもの喧嘩
平手打ち、取っ組み合いが中心。拳固や足蹴はチンピラがするものとされていた。まして木刀、木切れ、石など使う子は卑怯者とされていた。だから子どもの喧嘩で怪我をする子がでないので、余程の場合を除いて大人の人達も片方が相手を抑えつけて勝負がほつくまで仲裁せずに見ていた。
・いじめ
多人数で一人を、強い子が弱い子を苛めるのは弱虫、卑怯な子だとされていた。一番よい例が私で、内向的、醜男、よれよれのお下がりの服、1~2年生ころまでは鼻汁を拭いた袖口はピカピカという苛められッ子の標本のような私でも工業学校卒業まで苛められた経験は一度も無かった。これは家内や同年配のだれに聴いてもいじめなど経験したことはないと言っている。ただ良く考えてみると小学校では私よりさらに酷いみなりの生徒や万引きを自慢する朝鮮人の生徒との交際の経験がないので、彼らから見れば疎外感を持っていたのかもしれない。
それともう一つは私たちの住んでいた北九州市の西部は炭鉱や工場の発展で人を受け入れる開放敵な人が多かったのもいじめの少なかったのかも知れません。
今から考えると、弁当のおかずは鰹の削り節に醤油の翌日は海苔の佃煮だけなどの超貧乏の私より少しばかり違う子ども達と今の子ども達に比べると、何をしても楽しい、何を食べていもおいしい、などレベルは低いかも知れませんが、今の子どもにくらべると幸福に感じる機会が格段に違うような気がするのですが如何でしょうか。 (昭和初期では玉子が最高の御馳走でしたので、同時期を過ごした老人を観察すると弁当箱の蓋に着いた飯粒を先ず食べること、その後玉子料理を最初か最後に食べる人が多いのに気付かれると思います。)
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