mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

イタリア:ミラノ2

2008年02月10日 | 旅行記

 昨日は、ミラノの見所のうち、レオナルド・ダ・ビンチが描いた「最後の晩餐」についてレポートしました。

 今日は、その続き、といきたいところですが、なかなか筆が進みません。

 ところで、昨日民放の「世界不思議発見」というクイズ形式の番組を見ていましたら、中国の雲南省のことを放映していました。

 最初に、大理石で有名な大理の3重の塔の画面が出てきて、そのうち、正面から見て左側の塔が右側に傾いている話をしていました。

 下の写真は、裏側から見ていますので、傾いている塔は、右側の塔ということになります。

 でも、私達が現地で聞いた話では右側の塔も傾いている、と聞きました。この話は、まるで、イタリアの「ピザの斜塔」のような話です。

Reikou_199  大理の塔は、登れませんが、イタリアの方は、登ることができます。

 でも、何故、塔が傾いているか?ですが、大理の方は、地震が原因だと解説していました。

 基礎がしかっりしていない?たぶん、そういうことだと思います。昨日のテレビでは、基礎がないようなこと言っていたと思います。

 話がいつの間にか、中国のことになってしまいましたが、「最後の晩餐」の話に戻りましょう!

 ルネサンス期のほとんどは、フレスコ画といわれるもので、時代が過ぎて誰かが修復と称したイタズラなどをしても、原画の美しさや正確さを取り戻すことがそんなに難しくないのだそうです。

 これに対して、ダ・ビンチが描いた「最後の晩餐」は、テンペラ画法といわれるもので、絵の具が壁に染み込まず、やがて湿気で剥落するという運命にあった作品だったされています。

 現実に、制作から20年でカビに覆われたそうですから、そのまま放っておいたら世界の名画は、この世に存在しなかったのでは、と思います。

 でも、その後の修復で原画を書き換えたりしたこともあり、真筆を蘇らせることに、大変な熱意と努力があったようです。

 修復した人の名は、ビニン・ブランビッラ女史といわれる美術史学者で、現代科学の最新機器をつかって、しかも20年という長い歳月を要して復活したのですから、その熱意と努力には、敬服します。

 さて、「最後の晩餐」の話はこれくらいにしまして、ミラノで見たきたものは、やはり、ミラノのシンボル「大聖堂」ですね。

 ここの外観は、金属細工が施された135本の尖塔で特徴で、遠方から見るとピンクがかった白い大理石の建物が美しく輝いています。

 私達は(誰でもかな?)建物の中ばかりではなく、大聖堂の屋上に登って興奮しながら見学したのを覚えております。

 1386年着工とされていますから、もう600年以上前のことになりますが、完成が1813年ですから、なんと400年以上もかかっているのです。

 どうして、そんなに時間がかかるのか?もちろん、戦争が原因でしょうね。

 次にミラノの見所といえば、オペラ座でしょうね。

 でも、私達が行ったときは、工事中で遠くから眺めただけで「あぁ、あれがオペラ座か」という印象しかありませんでした。

 1778年の設立といいますから、ここも相当古いですね。

 でも、現存するオペラ座は1948年に完成したとされています。その原因は、またまた戦争で、1943年に空襲で焼失したそうです。

 それでは、古き良き時代の施設ではなくなっているのでは、と危惧されるでしょうが、オリジナルの設計図が残っていたので、焼失前のものが忠実に復元されたそうです。

 プッチーニの「蝶々夫人」などオペラファンには、たまらない魅力がある建物なのでしょうね。

 ハプスブルグ家のマリア・テレジアの下命で設立されたそうで、ここでも、オーストリアの影響があるのですね。

 さて、次に、ミラノで行った場所は?「スフォルツァ城」です。

 場所は、ミラノ旧市街の北西部だそうですが、小生には位置のことより、ミラノで最も重要なルネサンス建築物だと評されているのが気になります。

 外観が赤茶けた建物で、「何という古い建物だろう!」という強い印象がありますが、1450年築城といいますから、やはり中世で、それほど古い建物ではないのですね。

 一辺が200㍍方形といいますが、正面に時計台のような高い建物があり、その前にある広場も印象的でしたね。

 中にはいると、馬に乗った紳士が出てきて、これにはビックリしました。

 なお、城内には博物館があり、ミケランジェロの最後の未完の名作(彫刻)「ロンダーニのビエタ」、マンテーニャの名作絵画「聖母と諸聖人」などが展示されているそうですが、またもや残念ながら見学できませんでした。

 それでは、これでミラノというより「イタリアの魅力」旅のレポートを終了します。

 次は、何処をレポートしましょうか?

 

 


イタリア:ミラノ

2008年02月09日 | 旅行記

 今日は、待ちに待った土曜日ですが、生憎、曇っていて、とても寒さが厳しい日になりそうです。

 午後からは、大雪という天気予報が出ていますし、せっかくの休みが台無しです。

 さて、イタリアの魅力の最後の訪問地は、タイトルにあるミラノです。ここは、「ファッションの街」とか「産業の拠点」などと紹介されていますが、どんな街なのでしょうか?

 などといってますと、「お前は訪問したのだろう!」と言われそうでね。

 ミラノを代表するものといえば、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」ですなどと答えると、何故、彼が?と思いますよね?

 それは、レオナルド・ダ・ヴィンチという天才が描いた「最後の晩餐」という壁画がミラノの建物にあるからです。

 その建物の名は、イタリア最大のゴシック聖堂といわれる「大聖堂(ドゥオーモ)」ではなく、「ドミニコ会サンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ修道院」であります。

 最後の晩餐は、皆さんご存じのように、キリストが発した「この中に裏切り者がいる」という言葉に驚き、動揺する使徒達を描いたものです。

 この壁画は、巧みな遠近法によって壁の奥に別な空間が広がるような錯覚を生み出すという技法が使われているそうです。ダ・ビンチの発明なんでしょうか?

 壁画は、修道院の食堂に描かれているそうですが、1495年に製作が開始され、1498年頃の完成とされています。

 大きさは、縦4.2㍍、横9.1㍍といいますから相当な大きさです。

 実感がこもっていないな、ですか?そうなんです。残念ながらミラノからオプショナルツアーで「ピザの斜塔」見学に行ったこともあり、時間がなく見学できなかったのです。

 また、ミラノ市内を女性軍と一緒に「じっくり」見学したかったのですが、貴重な男性陣の一人が体の調子が悪く、小生がホテルへ送っていくことになったことなどもあり、時間が思うように取れなかったのです。

 それなら、女性陣は、最後の晩餐を見学できたかのか?といえば、見ていませんね。

 ミラノの象徴は、この絵がある修道院というよりも、大聖堂であると言った方が適切であると思いますが、大聖堂の近くに女性陣が大好きなブランド品店が軒を連ねるモンテ・ナポレオーネ通りがあり、そこで時間を費やしたようですね。

 それと、ここを見学するには、予約が必要だそうです。我々のようにピザの斜塔に行かないで最後の晩餐を見たツアー仲間もいました。

 さて、ここで問題です。キリストが言った裏切り者とは誰でしょうか?「テレビ番組ではないぞ!」と叱られそうですが、答は、「ユダ」ですね。

 最後の晩餐には、12人の使徒が絵がかれていますが、ユダはどの人でしょう?というクイズもよく出ますね。

 寒くなってきました。この続きは、次回に!


イタリア:ヴェネツィの想い出2

2008年02月03日 | 旅行記

 昨日は、ゴンドラの先頭選びのジャンケンに小生が選ばれた話でした。

 その結果ですが、ジャンケンに弱い小生が勝ってしまいました。「めでたし、めでたし」となるところですが、その後がありました。

 小生の組の人数は、どのくらいだったでしょうか?たぶん、6人くらいだったと思いますが、勝った勢いで「いざ、船に乗るぞ」と勇んで乗り込もうとしたのです。

 そこで、事件が起きました。親しくなった若い夫婦が最初に岸壁から乗ろうとしたのですが、奥さんが転んでしまい、船着き場と船の間に身体が横たわる格好になってしまったのです。

 これには、慌てました。頭が岸側だったか、逆だったかは、はっきり覚えていませんが、小生が慌てて抱き起こしました。

 これで、ゴンドラ物語は終わり!ではなく、その後がありました。最初は比較的大きな水路を走りました。そして、徐々に細い水路に入っていきます。

 そうしますと、くだんの歌手がイタリアの民謡でしょうか?大きく響く美声で歌い出したのです。その間、建物の窓から、また、橋の上から人々が手を振ったり、拍手したりしてするのです。これは、とても楽しいことなのですが、そのうちに、九ちゃんの「上を向いて歩こう」を演奏しだしたのです。

 そして、日本人である私達に唄うように促しているのです。サァー、誰が演奏に合わせて唄ったでしょうか?

 なんと、小生が「旅の恥をかき捨てて」唄ってしまったのです。これには、家内も驚きだったでしょうが、普段、とても出すことができないような大きな美声ではなく駄声が周辺にコダマしたのですから、自分でも驚いています。

 日本人が乗っていると言うことで、予定されていたものだと思いますが、皆さんの心配りに感謝したい気持ちで一杯になりました。

 ということで、ヴェネツィの想い出は終了します。

 話は変わりますが、今日は、朝、5時に起床しましたが、雪が積もっていました。しかも、空からはシンシンと妖精が舞い降りています。

 ここのところ、寒い日が続いて冬らしいのですが、会社では風邪が流行っているようです。

 ここのところの社会の話題といえば、中国産餃子のことですが、これで、中国産の品物は、皆さん、避けるようになると思います。

 しかし、日本は、食糧自給率が39%と言いますから、現実の問題としては、食べないということは無理があると思います。

 経済は、まさにグローバルになっているのですね。

 今日はこれにて失礼します。

 


イタリア:ヴェネツィアの想い出

2008年02月02日 | 旅行記

 前回は、またまた歴史や由来などといった堅い話をしてしまいました。

 今日は、ヴェネツィアの想い出というか、印象に残っていることをレポートしましょう。

 私達は、バスでヴェネツィアに来たのですが、鉄道が走っていた記憶があります。そして、ヴェネツィアにいくために船、それも高速艇のような早い船でした。小生は、水路の両岸に広がる街並みを船の先頭で眺めていました。

 ただ、ぼんやりと?いえいえ、興奮のるつぼでしたね。なにしろ、建物が水面から出て建っているのですから、その光景は異様ですし、赤い屋根とカラフルな色の建物が連なる、いかにもヨーロッパらしい光景なのです。

 もっとも、小生は、写真機のシャッターを切るのが忙しくて、その素晴らしい景観をじっくり見ていなかったのかも知れません。

 水の色は、青でしたが、少し汚れているのか、透明ではありませんでしたね。もっとも、後で聞いたのですが、生活排水は、全て海に流すそうですから透明な訳がありませんよね。

 ところで、使う方の水は、どう調達していたのかな?

 ヴェネツィアに着いた日は、そのままホテルに案内されたと思います。

 ホテルは、木造ですが、入口は水路ではなく、通路がありました。また、私達が案内された部屋の窓から外を見ますと水路になっていました。

 まぁ、中流?のホテルと言ったところでしょうね。

 さて、ヴェネツィアで何を見たかですが、まず、サン・マルコ大聖堂とその広場ですね。ここまでは、船で行った記憶があります。大聖堂の中は見学しなっかたのですが、入口で記念撮影したり、また、多くの人々の歓声の中で「この広場は?建物はなに?」などと、ぼんやり考えていたのでしょう。

 そして、ここから女性が好きなブランド品などの店が並ぶ商店街を抜けて・・・何処へ行ったのかな?次の日も、一日、ヴェネツィアにいたので、到着した日のことなのか、翌日のことなのか記憶がはっきりしませんが、サン・マルコ以外に行ったところは、赤いグラスが印象的な「ヴェネツィアングラス」の販売所(二階建て)、ヴェネツィアの象徴ともいわれるリアルト橋、そして、場所とは言えませんが、ゴンドラによる遊覧ですね。

 ヴェネツィアングラスは、確かに綺麗で素晴らしいのですが、値段が高く購入しませんでした。もちろん、ツアーのメンバーの方々は購入された方が多かったですね。

 場所の他に強く記憶に残っていることが二つあります。一つは、翌日の朝、サン・マルコ広場へ行った時のことです。驚いたことに広場だけではなく、あたり一面が水浸し!いえいえ、そんな表現では適切ではありません。

 日本で言うところの床上浸水と言う感じです。人々はどうしていたか?なんと言ったらよいのでしょうか、店の人は水を建物から掻き出していましたし、通路には、細長い木製の通路が置かれていたと記憶しています。

 時間が来れば、水が引くという話を聞きましたので、地元の人々は慣れているですね。

 それにしても、将来はこの街が水没する可能性があるという話も聞きました。原因は、地盤沈下というのが有力?でも、地球の温暖化はもっと恐いのではありませんか?

 さて、二つ目の話ですが、それは、ゴンドラの話です。私達のツアーは、全員がゴンドラに乗ったのですが、二つの船に分かれて乗ることになりました。

 そして、先頭の船には、バイオリンではなくて、アコーディオンだったと思いますが、その奏者とオペラ?男性歌手がついてイタリアを代表する歌を唄ってくれるのです。

 そこで、先頭に乗るメンバーをどうするかが問題になりました?

 解決法ですか?簡単です。添乗員さんがメンバーを二つにして名前を読み上げ、その代表者がジャンケンで決めることにしたのです。

 その代表者の一人が、こともあろうに小生になってしまったのですから、「さぁー、これは、責任があるぞ!」と内心、思ったものでした。

 その結果ですか?明日のブログで紹介しましょう。

 今日は、これにて失礼します。