徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

記録に復讐されるとき/「ファイナル・カット」

2012-10-20 04:47:15 | Movie/Theater
ファイナル・カット
The Final Cut
2004年/カナダ・ドイツ
監督・脚本: オマー・ナイーム
出演:ロビン・ウィリアムズ、ミラ・ソルヴィノ、ジェームズ・カヴィーゼル、ミミ・カジク、ステファニー・ロマノフ、トム・ビショップス
<人の一生の記憶が脳に埋め込まれた小さなチップに記録されている近未来の世界を舞台に描くSFスリラー。チップを基に故人のメモリアル映像を製作する編集者が不可解な出来事に遭遇、真相を究明しようと調査を始めるが…。主演はロビン・ウィリアムズ、共演にミラ・ソルヴィノ、ジム・カヴィーゼル。監督は新鋭オマー・ナイーム。人々が“ゾーイ”と呼ばれるマイクロ・チップを脳に移植し、全人生の記憶をそこに記録している社会。死後、ゾーイ・チップは編集者によって再構成され、追悼上映用の美しい記憶を留めた映像として甦る。ある日、一流のゾーイ・チップ編集者、アラン・ハックマンのもとに、ゾーイ・チップを扱う大企業アイテック社の弁護士チャールス・バニスターの未亡人から編集の依頼が舞い込む。ところがそのチップには、アランの心に深い傷となって残っている幼い頃の記憶に関わる驚くべき映像が映っていた。>(allcinema

「Live For Today」
ゾーイチップによる記憶の蓄積と、編集者による編集作業で美しく構成される故人の記憶、その追悼上映会に反対する人々は、この言葉をプラカードに掲げ、口々に叫ぶ。ロビン・ウィリアムズのヒット作「いまを生きる」を思い起こした(もちろん原題は違うけれども、台詞のCarpe Diem=「いまを生きろ」「いまを掴め」ということで…)。あと当然のようにグラスルーツのヒット曲も思い起こしたけれども(Let's Live For Today)。

20人に一人は生まれながらにしてチップを埋め込まれ、その人生の記憶を記録し続けるという近未来。
ロビン・ウイリアムズ演じるアランはそのチップを基に本人の死後、追悼上映会に上映するための映像を編集する編集者(カッター)である。両親が良かれと思って、産まれたばかりの子供に埋め込んだチップは成人になるまで秘密にされ、その事実を告げられたとき、ある人は記憶が記録される事実を受け入れ生活を見直し、ある人は記録されることに耐え切れずに自ら命を絶つ。しかし冷徹で優秀な編集者であるアランに持ち込まれるチップは裏も表もあるエスタブリッシュメントで、彼らは記録されているのがわかっているのかいないのか、浮気やペドロフィリア、インセストを隠そうともしない。
人間ならば表と裏がある、ましてや小市民の表と裏程度ならば笑って済ませられるものもある、ともいえるが、社会的影響の大きいエスタブリッシュメントの記録は、ゾーイ反対派にとっては是が非にも入手したい追及のための「物証」になる。アランが受け取った弁護士バニスターのチップも、その妻が会社との訴訟によって勝ち取ったものだった(何てリスキーな記憶だろう)。ということでアランが巻き込まれるトラブルのひとつが、揺るぎようのない「事実としての記録」である。
一方でアラン自身は少年時代の記憶に今もなお苦悩している。しかし死んだと思い込んでいた人物がバニスターのチップの中で成長した姿で登場し、アランは混乱する。もうひとつのトラブルは、あやふやで容易に「確かめようのない記憶」である。

「編集によって美化される俗物たちの記憶/記録」は映画の中でそれほど大きなテーマには感じられない。
現代だろうが、近未来だろうが、編集という作業はそういうもので、オレたちが目にする「他人の人生」は概ね「編集後の世界」なのだ。記憶/記録される人生というのは間違いなく、すでにオレたちの身近にある。ゾーイチップの世界では否応なしにすべてが記録されてしまうけれども、オレたちは自ら編集(カット)をしながら記憶を蓄積している。足りない場面は親が写真やビデオで補ってくれる、というわけだ。あやふやで確かめようのない記憶を毎日積み重ねながら(Live For Today)、それでも日々を過していく。それが揺るぎようのない事実(記録)の積み重ねならば発狂してもおかしくない。
死後のHDの処分に悩む人がいかに多いことか。

しかし自らに編集権もなく、あやふやで確かめようがない「記憶」が許されず、それが揺るぎようのない事実としての「記録」になるとき、人は記録に支配される。長年悩まされてきた「記憶」から解放され、いかにもロビン・ウィリアムズの映画らしくハッピーエンドで終わるかと思ったとき、アランは「記録」に復讐される。
記憶は個人のものであっても、記録は個人の手を離れていってしまうものである。それは本人が思ってもいないような怪物を生み出してしまう。ドーキンスに言わせれば人間は遺伝子の容れ物なのだろうけれども(それはそれで慰められる部分はあるのだけれども)、そうは言っても個人の人生は記録の容れ物ではないんだよね。ということで…まあSFと言いつつあまり金もかかっていないようだし、寓話的でもあるので設定やセットは突っ込みどころじゃないです。

「ハシシタ」問題を意識して観たわけではないのだけれども、どうしても今観ると通じるものがあるような気がした。

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