銀河後悔日誌、つぶやき

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ありがとう85年~迷走する名門の行方~

2007-01-31 23:33:47 | 大相撲観測日誌
 2月1日付で、伊勢ケ濱部屋の力士が桐山部屋に移籍することになった(伊勢ケ濱親方も桐山部屋付きへ。行司なども一緒に移動するが、式守錦之助さんは高島部屋へ)。

 伊勢ケ濱部屋の創始は「昭和4(1929)年9月場所後」とされている。これは師匠の関脇清瀬川が引退して創設…ということだが、そもそもの始まりは大正10(1921)年、楯山部屋の“創設”によるもの。清瀬川の師匠熊ケ谷(もと幕下荒玉)が廃業したが、跡目を継承できず。そこで内弟子とともに部屋持ちではない楯山親方の元に移籍して、引退まで「楯山部屋」所属となった。もちろん楯山親方(もと幕下友響)が指導するわけではなく、名目上の所属として、である。

 昭和4年9月場所を最後に清瀬川が引退し、伊勢ケ濱を襲名。楯山部屋の弟子をそっくり引き取って、ここで初めて「伊勢ケ濱部屋」が出来る。確かにここが創始といえるが、実際には8年ほど前から歴史は始まっていた。横綱の照國や、関脇幡瀬川、平幕優勝した備州山らを輩出。

 続いて、昭和28(1953)年にはもと横綱照國(荒磯親方)が継承。ただし、清瀬川はまだ伊勢ケ濱として健在で、照國の名跡「荒磯部屋」になった。年寄停年制で清瀬川が去った昭和36(1961)年、名跡変更して「伊勢ケ濱部屋」に戻った。大関の清國や関脇開隆山、幕内和晃らを輩出。

 昭和52(1977)年3月、照國死去。この年はもと横綱が3人なくなる凶年となったが、最初が照國だった(ちなみに本日誌を書いている紅葉橋は同年の生まれ…縁起悪いなあ)。4月、もと大関清國の楯山親方が継承。3代若瀬川が出世頭。
 昭和60(1985)年8月の日本航空機墜落事故で妻子を亡くし、ここから一気に部屋は斜陽化。部屋の維持管理が難しく、移転を繰り返す。関取はおろか、一時は弟子が1人にまで没落。晩年は2人に戻したが、稽古する土俵もない状態で、弟子は白星が珍しいありさま。

 清國は平成18(2006)年11月場所中に停年を迎えたが、場所が始まっても後継者は発表されず。停年日にようやく、もと幕内和晃の若藤親方の継承が発表されたが、和晃は今年の8月が停年ということで、とりあえず以外の何物でもなかった。

 その“とりあえず伊勢ケ濱”であったが、結局は有力な後継者がいないと言うことで、停年まで3場所を残し、いったん「伊勢ケ濱部屋」は消滅することになった。

 以前は「伊勢ケ濱一門」を形成していたが、今年からは「立浪一門」へ編入され、今はもうない。


 結局は消滅してしまった「伊勢ケ濱部屋」。さて、今後“延長戦”はあるのだろうか…。

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