十九夜講があると聞いて調べている京都・南山城村高尾。
たぶんにこの日であれば、何らかの情報が掴めるのでは、と思って出かけた前年。
平成29年の9月19日に立ち寄った際に出合えた男性。
小字三升(さんじょう)にお住いのMさんが話してくれた概要によれば、実施日は19日の前日の敬老の日。
めいめいが参拝されて、その小屋に籠っていた、と話してくれた。
本年の敬老の日は、9月17日の月曜日。
時間帯は不明であるから、適当な時間を見計らって家を出た。
適当といってもある程度の照準を合わせての出発。
道作りをされてからの参拝であれば、午前中いっぱいに終えて小屋籠り。
その場で直来の食事をしている、と想定した上での出発。
到着した時間帯は正午の12時半。
小屋の扉は閉まっており、人影は見当たらず・・。
ただ、周辺は草刈りをしたような気配がする。
奇麗に整備された状態を見て、到着した時間帯よりも前に終わったのだろうと判断した。
小屋のある左側の奥。
相当数ある石仏群が目に入った。
赤い涎掛けが風景のなかにぽつんと目立っている中央の石仏は錫杖を手にする地蔵立像石仏。

よく見れば、辺りすべてが地蔵石仏のようだ。
手前にある青竹が真新しい。
左右ともシキビを立てていた。
石仏群の右手に小堂が建つ。

チェーンでブロックし施錠した装備に守られるのも石仏のようだ。
ここにもシキビを立てているから、間違いなく、今日か、昨日かにされた模様。
この場に佇んでいても仕方ない。
近くにある集落へ行けば、どなたかに合う可能性もないことはない。
とりあえずは空腹を満たすために摂る車中食。
ここら辺りは、食事をする処がない。
弁当持ち込みか、カップ麺をここで作って食べるしかない。
そう思って用意していたマルちゃんのたらこ味ラー油仕立て俺の塩うまみ塩焼きそば。
たらこ味よりもインパクトのあるタラコのラー油・辛ソースが美味かった。
お腹を満たして集落を巡る。
一歩、入ろうとしたそこに草むしりをされている高齢の婦人がおられた。
一般的に十九夜講は女性が集まって営まれる講の集団である。
現役の講中であれば、参列していたかもしれない。
そう思って声をかけた小字三升に住む婦人。
十九夜講を尋ねたが、どうも不確かであるが「たきなん講」なら知っている、という。
婦人は昭和6年生まれの高齢者。
高尾からすぐの隣村になる奈良市邑地町出里が出里のNさん。
「ずいぶん昔のことやけど、“滝庵寺”に家で作った料理を持参して参拝・会食していました」と話してくれた。
「たきなん講」の名をはじめて知ったのは、平成29年1月20日。
南山城村北大河原にある農林産物直売所におられた2人の売り子さん。
うち一人が、高尾に住む女性だった。
その人がふっと言われた講が「たきなん講」である。
「たきなん講」を充てる漢字は「滝庵講」。
Mさんも話していた滝庵寺は、高山ダム築造によって水中に沈んだ。
高尾の人たちは、全戸が高山ダムに沈むことから高台に全戸が移転したのである。
N家前の道端で話しをしていたそのとき。
軽トラで走ってきた車内の人に声をかけられた。
十九夜講のことは、その方が知っていると云って紹介してくれた。
男性は昭和28年生まれのNさん。
自己紹介ならびに取材の主旨を伝えたら承諾してくださった。
だが、今年の十九夜講は、昨日に終えたばかり。
日程は固定日でなく、不定期日程。
日にちが決まれば電話してあげると携帯電話番号を登録してくださった。
同乗していた奥さんの出里は奈良県の山添村。
取材件数の多い山添村であるが、大字はどこであるのか聞きそびれた。
今から出かけなくてはならないという婦人。
行先は新設された道の駅「お茶の京都 みなみやましろ村」。
平成29年の4月15日がグランドオープンの道の駅。
当日は、相当賑わったそうだ。
今では落ち着いているが、土曜、日曜、休日ともなれば車、バイク、人が溢れるくらいになる。
この日も祝日の敬老の日。
立ち寄るお客さんは多い。

余裕時間はたっぷりあるのでトイレ休憩も兼ねた施設見物。
産直売り場にある商品の品定めに食事処のメニュー調査。
コンビニエンスストアもある道の駅は便利であるが、ときおり訪れてはなにかと購入している北大河原・農林産物直売所の商品とはまた違う。
地産地消であっても栽培者が異なるからだろう。
そのことは否定でなく、偏っていないから買い物者としては2カ所とも訪れたくなる。
トイレを拝借、用足し。

その室内の一角に昔の写真や各種の散歩マップを掲示していた。

新設された南山城村の道の駅を祝して掲示された「むらさんぽ2記念写真展」である。

むら散歩地図に書いてあった昭和44年に完成した高山ダム築造のため高台に移転した大字川端の写真展である。

かつての村の状況に記憶に残る暮らしぶりを村人が語った資料にぞっこん惚れた。
貴重な証言の数々が記されている。
「現在の高山湖周辺マップ」に「田山~広瀬地区の拡大」に「むらさんぽ02夏の号 湖底に眠る集落マップ」まで。
病後の平成27年11月3日に拝見した南山城村・諏訪神社で行われた田山の花踊りの地も紹介している。
神社、寺院に如意輪観音・弥勒菩薩・地蔵尊などの石仏。
お旅所、塚、山の神、モリサンに墓地までを案内する現在状況の観光マップに民俗有無を求めて目がキョロキョロする。
「このへんに水車があったんやで・・・石臼があってな・・・」、「小学4年生になったらここで水泳すんねん・・・学校の先生が授業に連れてきよんねん・・」、「月ヶ瀬梅林行くのに使ったバスは満員でものすごい人やった・・・」、「家の周りはすべてが茶畑・・今と違って高いこんもりした茶園だった・・」などの証言。
「⑦だんだ坂の石地蔵」のキャプションに「いたずら封じのために作ったという謂れがある。田山の入り口を守る塞神(※さいのかみ)。観音寺からここまでたむし送り(※7月末に行われる稲作の害虫を追い払う行事/※田の虫送り)が行われていた。現在も石地蔵は残っている」。
「⑤如意輪観音・子安地蔵」には「十九夜講という。安産を願う女性たちの集まりによって1812年に建てられた如意輪観音が今もある。隣には、同じく十九夜講が建てた子授け・子育ての神である子安地蔵が祭られている」とある。
ちなみに「滝庵寺・三升石塔墓地」も「川端にあった滝庵寺と墓地が移動。今は、寺社はなく、入り口に籠り所が、その奥のお堂に如意輪観音像が造立されている」と記載していた。
先ほど拝見してきた小屋に小堂に安置する観音像のことである。
高尾の川端地区に三升地区。
また田山地区も含めた地域の民俗話題がいっぱい。
午後3時近くになったこの日はここまで。
またの機会にと思って道の駅を離れる。
帰路のコースに選んだ高山ダム湖に沿う府道を走る。
今にも降ってきそうな暗雲。

停めた地は高山ダム湖に架かる高山橋。
現在の橋が架かるまでは、石で造られた欄干のない沈下橋だった。
橋の下を覗き込んでも沈下橋の姿は見えない。
そこから数km走ったところにあった六字名号石碑。

文字のすべては判読できないが、右は庚申塔ではないだろうか。
さらに走った右側に大きな岩がある。

これこそが川端の春日神社のお旅所岩である。
(H30. 9.17 SB932SH撮影)
たぶんにこの日であれば、何らかの情報が掴めるのでは、と思って出かけた前年。
平成29年の9月19日に立ち寄った際に出合えた男性。
小字三升(さんじょう)にお住いのMさんが話してくれた概要によれば、実施日は19日の前日の敬老の日。
めいめいが参拝されて、その小屋に籠っていた、と話してくれた。
本年の敬老の日は、9月17日の月曜日。
時間帯は不明であるから、適当な時間を見計らって家を出た。
適当といってもある程度の照準を合わせての出発。
道作りをされてからの参拝であれば、午前中いっぱいに終えて小屋籠り。
その場で直来の食事をしている、と想定した上での出発。
到着した時間帯は正午の12時半。
小屋の扉は閉まっており、人影は見当たらず・・。
ただ、周辺は草刈りをしたような気配がする。
奇麗に整備された状態を見て、到着した時間帯よりも前に終わったのだろうと判断した。
小屋のある左側の奥。
相当数ある石仏群が目に入った。
赤い涎掛けが風景のなかにぽつんと目立っている中央の石仏は錫杖を手にする地蔵立像石仏。

よく見れば、辺りすべてが地蔵石仏のようだ。
手前にある青竹が真新しい。
左右ともシキビを立てていた。
石仏群の右手に小堂が建つ。

チェーンでブロックし施錠した装備に守られるのも石仏のようだ。
ここにもシキビを立てているから、間違いなく、今日か、昨日かにされた模様。
この場に佇んでいても仕方ない。
近くにある集落へ行けば、どなたかに合う可能性もないことはない。
とりあえずは空腹を満たすために摂る車中食。
ここら辺りは、食事をする処がない。
弁当持ち込みか、カップ麺をここで作って食べるしかない。
そう思って用意していたマルちゃんのたらこ味ラー油仕立て俺の塩うまみ塩焼きそば。
たらこ味よりもインパクトのあるタラコのラー油・辛ソースが美味かった。
お腹を満たして集落を巡る。
一歩、入ろうとしたそこに草むしりをされている高齢の婦人がおられた。
一般的に十九夜講は女性が集まって営まれる講の集団である。
現役の講中であれば、参列していたかもしれない。
そう思って声をかけた小字三升に住む婦人。
十九夜講を尋ねたが、どうも不確かであるが「たきなん講」なら知っている、という。
婦人は昭和6年生まれの高齢者。
高尾からすぐの隣村になる奈良市邑地町出里が出里のNさん。
「ずいぶん昔のことやけど、“滝庵寺”に家で作った料理を持参して参拝・会食していました」と話してくれた。
「たきなん講」の名をはじめて知ったのは、平成29年1月20日。
南山城村北大河原にある農林産物直売所におられた2人の売り子さん。
うち一人が、高尾に住む女性だった。
その人がふっと言われた講が「たきなん講」である。
「たきなん講」を充てる漢字は「滝庵講」。
Mさんも話していた滝庵寺は、高山ダム築造によって水中に沈んだ。
高尾の人たちは、全戸が高山ダムに沈むことから高台に全戸が移転したのである。
N家前の道端で話しをしていたそのとき。
軽トラで走ってきた車内の人に声をかけられた。
十九夜講のことは、その方が知っていると云って紹介してくれた。
男性は昭和28年生まれのNさん。
自己紹介ならびに取材の主旨を伝えたら承諾してくださった。
だが、今年の十九夜講は、昨日に終えたばかり。
日程は固定日でなく、不定期日程。
日にちが決まれば電話してあげると携帯電話番号を登録してくださった。
同乗していた奥さんの出里は奈良県の山添村。
取材件数の多い山添村であるが、大字はどこであるのか聞きそびれた。
今から出かけなくてはならないという婦人。
行先は新設された道の駅「お茶の京都 みなみやましろ村」。
平成29年の4月15日がグランドオープンの道の駅。
当日は、相当賑わったそうだ。
今では落ち着いているが、土曜、日曜、休日ともなれば車、バイク、人が溢れるくらいになる。
この日も祝日の敬老の日。
立ち寄るお客さんは多い。

余裕時間はたっぷりあるのでトイレ休憩も兼ねた施設見物。
産直売り場にある商品の品定めに食事処のメニュー調査。
コンビニエンスストアもある道の駅は便利であるが、ときおり訪れてはなにかと購入している北大河原・農林産物直売所の商品とはまた違う。
地産地消であっても栽培者が異なるからだろう。
そのことは否定でなく、偏っていないから買い物者としては2カ所とも訪れたくなる。
トイレを拝借、用足し。

その室内の一角に昔の写真や各種の散歩マップを掲示していた。

新設された南山城村の道の駅を祝して掲示された「むらさんぽ2記念写真展」である。

むら散歩地図に書いてあった昭和44年に完成した高山ダム築造のため高台に移転した大字川端の写真展である。

かつての村の状況に記憶に残る暮らしぶりを村人が語った資料にぞっこん惚れた。
貴重な証言の数々が記されている。
「現在の高山湖周辺マップ」に「田山~広瀬地区の拡大」に「むらさんぽ02夏の号 湖底に眠る集落マップ」まで。
病後の平成27年11月3日に拝見した南山城村・諏訪神社で行われた田山の花踊りの地も紹介している。
神社、寺院に如意輪観音・弥勒菩薩・地蔵尊などの石仏。
お旅所、塚、山の神、モリサンに墓地までを案内する現在状況の観光マップに民俗有無を求めて目がキョロキョロする。
「このへんに水車があったんやで・・・石臼があってな・・・」、「小学4年生になったらここで水泳すんねん・・・学校の先生が授業に連れてきよんねん・・」、「月ヶ瀬梅林行くのに使ったバスは満員でものすごい人やった・・・」、「家の周りはすべてが茶畑・・今と違って高いこんもりした茶園だった・・」などの証言。
「⑦だんだ坂の石地蔵」のキャプションに「いたずら封じのために作ったという謂れがある。田山の入り口を守る塞神(※さいのかみ)。観音寺からここまでたむし送り(※7月末に行われる稲作の害虫を追い払う行事/※田の虫送り)が行われていた。現在も石地蔵は残っている」。
「⑤如意輪観音・子安地蔵」には「十九夜講という。安産を願う女性たちの集まりによって1812年に建てられた如意輪観音が今もある。隣には、同じく十九夜講が建てた子授け・子育ての神である子安地蔵が祭られている」とある。
ちなみに「滝庵寺・三升石塔墓地」も「川端にあった滝庵寺と墓地が移動。今は、寺社はなく、入り口に籠り所が、その奥のお堂に如意輪観音像が造立されている」と記載していた。
先ほど拝見してきた小屋に小堂に安置する観音像のことである。
高尾の川端地区に三升地区。
また田山地区も含めた地域の民俗話題がいっぱい。
午後3時近くになったこの日はここまで。
またの機会にと思って道の駅を離れる。
帰路のコースに選んだ高山ダム湖に沿う府道を走る。
今にも降ってきそうな暗雲。

停めた地は高山ダム湖に架かる高山橋。
現在の橋が架かるまでは、石で造られた欄干のない沈下橋だった。
橋の下を覗き込んでも沈下橋の姿は見えない。
そこから数km走ったところにあった六字名号石碑。

文字のすべては判読できないが、右は庚申塔ではないだろうか。
さらに走った右側に大きな岩がある。

これこそが川端の春日神社のお旅所岩である。
(H30. 9.17 SB932SH撮影)


