稲荷講の寒施行やとんどを取材したおりに聞いていた奈良市北椿尾町の村行事。
同町には三社の神社が鎮座する。
ひとつは正暦寺がある菩提山町手前の山にある椿本神社だ。
その場は何度聞いても所在地が判らなかった。
もう二つは下の垣内に鎮座する春日神社と八王子神社である。
祈年祭の行事は始めに村役員が参集された椿本神社で行われる。
そこで神事を終えた一行は春日神社(左)・八王子神社(右)にやってくる。

上がる階段左横に建之された笠燈籠がある。
「雨神□ 大正元年十月建之」の刻印がある。
建之したのは「元宮座」の14名が寄進したようだ。
役員たちが椿本神社で参拝している時間帯におられた男性は北垣内の一年村神主さんだ。
北椿尾町は37、8戸の集落。
下から出・小知山(こちやま)・北・堂・大久保・大磯の6垣内からなる。
毎月1日、16日は村神主の月参り。
境内を奇麗に清掃される。
参集するころにはぽつぽつと雨が降り出した。
この日は「ついたちぶり(一日降り)」と云って雨が多くなるそうだ。
祭壇を社殿前に設えようとしたが本降りになってきた。
やむを得ず、この日の祭典の場は参籠所に移した。
拝所・神具を急いで参籠所に運んだ。
祭壇は社殿に向かってだ。

社殿下には境内社の二社がある。
稲荷神社(左)や弁財天神社(右)である。
次々と訪れる参拝者は傘をさしていた。
始めに神社に参ってお米粒を供えて手を合わせる。
稲荷神社や弁財天神社にもお米粒を供えるのは「賽銭の代わりや」と云う。
その頃から降りだした雨は大粒になった。
祈年祭を勤めるのは一年村神主ではなく神職だと云う。
どちらの神職だろうと思っていたら、出仕されたのは丹生町の新谷宮司であった。
出仕される地域は広い。

急遽設えた祭壇。お供えは洗い米、サバ、ダイコン、ニンジン、ハクサイ、シイタケ、ミカンにバナナなどだ。
これは二組ある。
春日さんと八王子さんに供えた御供である。

手前には「奉讀唯般若心経五穀成就祈」のお札と袋に包んだ籾種もある。
参集された宮総代、氏子、農家組合、自治会の方々に3人のトーヤである。
配置したテーブルには直会でよばれるパック詰め料理もおかれた。
神事は一同が立ち姿になって行われる。

お神酒の口を開けて一枚のサカキの葉を挿し込んだ。
祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠で終えた祈年祭の祭典。
その後は直会の場に移る。

氏子総代長、自治会長の挨拶を経て座席に配られたパック詰め料理をいただく。
お神酒を注いで回るのは「ガチギョウジ」と呼ばれる垣内から選ばれた4人だ。
直会が始まって20分過ぎ。

祈祷された御供を配る。
前年までは松苗もあったのだが、たいそうになったということから袋に詰めた籾種だけにしたと云う。
次に配るのは「奉讀唯般若心経五穀成就祈」のお札だ。

欠席者も含めて氏子全員に配られる籾種とお札である。
1時間余りの村行事を終えて解散した。
それから膳をいただく「ガチギョウジ」の人たち。
解放されてようやく食べることができる。
この日の祈年祭を「オコナイ」と呼んでいたのは長老たちだ。
平成6年に発刊された『五ケ谷村史』によれば、明治初年までは正月の座中行事だったようだ。
「3月1日はトウヤが用意する松苗とごーさん札を供えて神主が祈祷していた。松苗は神社門松のオン松・メン松のスエ(芯)に洗い米を包む。注連縄の藁を解いて結んでいた」とある。
「エノコロと呼ぶネコヤナギの木の先を三つに割いてごーさん札を挿していた」と書いてあった。
授かった松苗・エノコロは苗代の際に挿していたごーさん札であったという記述である。
平成24年6月10日に訪れた北椿尾町では田植えをしていた。

それを撮っていた場は正暦寺に向かう道。
傍に建つ小屋の横に立ててあったのだが、お札はビニール袋の中だったゆえ、「奉」の文字しか判別できなかった。

正暦寺の関係者のNさんに尋ねても判らなかったお札だ。
取材を終えてその場を通りがかったときにおられた男性は先ほどまで直会の場でお話を伺った人だった。
ご主人は出垣内の人。
当時、見つけたお札の持ち主であったのだ。
2年経って巡り合えた男性によれば、イノコロと呼んでいたのはカワヤナギだったと云う。
イノコロ挿しにはオン松・メン松の松苗も挿していたと話す。
かつてはイノコロがいっぱい生えていた。
いつしかすべてが川から消えた。
その時代の川はシジミもいたぐらいな奇麗な川だった。
山のほうに産廃がくるようになって川が汚れたと話す。
秋のマツリも簡略化されたそうだが、『五ケ谷村史』を拝見して取材したくなった。
(H26. 3. 1 EOS40D撮影)
同町には三社の神社が鎮座する。
ひとつは正暦寺がある菩提山町手前の山にある椿本神社だ。
その場は何度聞いても所在地が判らなかった。
もう二つは下の垣内に鎮座する春日神社と八王子神社である。
祈年祭の行事は始めに村役員が参集された椿本神社で行われる。
そこで神事を終えた一行は春日神社(左)・八王子神社(右)にやってくる。

上がる階段左横に建之された笠燈籠がある。
「雨神□ 大正元年十月建之」の刻印がある。
建之したのは「元宮座」の14名が寄進したようだ。
役員たちが椿本神社で参拝している時間帯におられた男性は北垣内の一年村神主さんだ。
北椿尾町は37、8戸の集落。
下から出・小知山(こちやま)・北・堂・大久保・大磯の6垣内からなる。
毎月1日、16日は村神主の月参り。
境内を奇麗に清掃される。
参集するころにはぽつぽつと雨が降り出した。
この日は「ついたちぶり(一日降り)」と云って雨が多くなるそうだ。
祭壇を社殿前に設えようとしたが本降りになってきた。
やむを得ず、この日の祭典の場は参籠所に移した。
拝所・神具を急いで参籠所に運んだ。
祭壇は社殿に向かってだ。

社殿下には境内社の二社がある。
稲荷神社(左)や弁財天神社(右)である。
次々と訪れる参拝者は傘をさしていた。
始めに神社に参ってお米粒を供えて手を合わせる。
稲荷神社や弁財天神社にもお米粒を供えるのは「賽銭の代わりや」と云う。
その頃から降りだした雨は大粒になった。
祈年祭を勤めるのは一年村神主ではなく神職だと云う。
どちらの神職だろうと思っていたら、出仕されたのは丹生町の新谷宮司であった。
出仕される地域は広い。

急遽設えた祭壇。お供えは洗い米、サバ、ダイコン、ニンジン、ハクサイ、シイタケ、ミカンにバナナなどだ。
これは二組ある。
春日さんと八王子さんに供えた御供である。

手前には「奉讀唯般若心経五穀成就祈」のお札と袋に包んだ籾種もある。
参集された宮総代、氏子、農家組合、自治会の方々に3人のトーヤである。
配置したテーブルには直会でよばれるパック詰め料理もおかれた。
神事は一同が立ち姿になって行われる。

お神酒の口を開けて一枚のサカキの葉を挿し込んだ。
祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠で終えた祈年祭の祭典。
その後は直会の場に移る。

氏子総代長、自治会長の挨拶を経て座席に配られたパック詰め料理をいただく。
お神酒を注いで回るのは「ガチギョウジ」と呼ばれる垣内から選ばれた4人だ。
直会が始まって20分過ぎ。

祈祷された御供を配る。
前年までは松苗もあったのだが、たいそうになったということから袋に詰めた籾種だけにしたと云う。
次に配るのは「奉讀唯般若心経五穀成就祈」のお札だ。

欠席者も含めて氏子全員に配られる籾種とお札である。
1時間余りの村行事を終えて解散した。
それから膳をいただく「ガチギョウジ」の人たち。
解放されてようやく食べることができる。
この日の祈年祭を「オコナイ」と呼んでいたのは長老たちだ。
平成6年に発刊された『五ケ谷村史』によれば、明治初年までは正月の座中行事だったようだ。
「3月1日はトウヤが用意する松苗とごーさん札を供えて神主が祈祷していた。松苗は神社門松のオン松・メン松のスエ(芯)に洗い米を包む。注連縄の藁を解いて結んでいた」とある。
「エノコロと呼ぶネコヤナギの木の先を三つに割いてごーさん札を挿していた」と書いてあった。
授かった松苗・エノコロは苗代の際に挿していたごーさん札であったという記述である。
平成24年6月10日に訪れた北椿尾町では田植えをしていた。

それを撮っていた場は正暦寺に向かう道。
傍に建つ小屋の横に立ててあったのだが、お札はビニール袋の中だったゆえ、「奉」の文字しか判別できなかった。

正暦寺の関係者のNさんに尋ねても判らなかったお札だ。
取材を終えてその場を通りがかったときにおられた男性は先ほどまで直会の場でお話を伺った人だった。
ご主人は出垣内の人。
当時、見つけたお札の持ち主であったのだ。
2年経って巡り合えた男性によれば、イノコロと呼んでいたのはカワヤナギだったと云う。
イノコロ挿しにはオン松・メン松の松苗も挿していたと話す。
かつてはイノコロがいっぱい生えていた。
いつしかすべてが川から消えた。
その時代の川はシジミもいたぐらいな奇麗な川だった。
山のほうに産廃がくるようになって川が汚れたと話す。
秋のマツリも簡略化されたそうだが、『五ケ谷村史』を拝見して取材したくなった。
(H26. 3. 1 EOS40D撮影)