台風24号崩れによって大雨をもたらした午前中は土砂降りだった。
宵宮の灯りは心配されていたが、午後からはピーカン照り。
暑さも倍増になったこの日。
村屋坐弥冨都比売神社に関係する郷村の明神講は今でも存在しているのか、下見がてらに訪問した田原本町千代(ちしろ)の阿部田。
市杵島姫神社では幕を張って鏡餅を供えていたが、この夜の宵宮は氏神さんに参拝するわけでもなく村屋坐弥冨都比売神社へ出かけていたようだ。
村人の話しによれば10月1日は弁天さんのマツリ。
村屋坐弥冨都比売神社の宮司さんが来られて執り行われる神事は宮迎えのようだ。
かつては3組もあった明神講の営みにはアンツケモチを供えたようである。
F家婦人が話すには阿部田の市杵島姫神社では8月28日に風鎮祭を営んでいると云う。
場は神社であるが、村の十念寺の僧侶が営む祭事。
拝殿になんらかの掛軸を掲げていると云う。
神社の行事であれば北側に掲げるが、風鎮祭では東に向かってである。
何故にそうなのか判らない行事には神官が登場せず、僧侶の法要。
神仏混合の行事に興味をもったのである。
神社付近に住む村人二人の話しによれば、阿部田の明神講は平成に入った頃に解散したようである。
千代(ちしろ)には阿部田の他、もう一つの垣内があると云うことを聞いて散策してみた。
そこは八条(はっちょう)と呼ばれる垣内。
春日神社(千代神社とも)の宵宮に提灯をぶら下げていた。

村人に話を伺う時間もなかったが、八条には綱切り講が5軒であったようだと話す阿部田の住民。
戦争中に解散して綱切り祭が途絶えたようである。
千代の様相を確かめて向かう先は蔵堂の村屋坐弥冨都比売神社。
守屋宮司の話しでは戦中に男性がかりだされ、かつて行われていた道開きの行事とする千代の綱切り祭は明神講の解散をもって中断したと云う。
神社禰宜さんが記憶する高校生の頃。
綱切りの作法をしていたことを覚えているというから平成元年の頃まではあったようだ。
昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』に書かれてあった千代の綱切り祭。
村屋坐弥冨都比売神社からの七度半の呼び遣いを受けて青白紙と日の丸扇の幣を持つ前頭家を先頭に千代から出発したお渡りは蔵堂に向かった。
前頭家は現・後頭家とともに白浄衣を着用していた。
領角廻りと呼ぶ田に幣を挿して、馬場先にある一の鳥居の注連縄を腰に挿した短刀で切った。
二の鳥居の注連縄も切ることで村屋坐弥冨都比売神社の秋祭りが始まるしきたりであった。
千代の綱切り講は享保年間(1716~)から明治維新のころまで行われていたようだ。
その後は中断していたが天保年間(1830~)に作成された『森屋内宮御渡式之覚』、『御渡式之節之買物覚』が発見されて大正元年に復活したとある。
阿部田の明神講の刻印がある燈籠は村屋坐弥冨都比売神社の二の鳥居下にある。

天保十三壬寅年(1842)に建之された大明神燈籠である。
現在の行事に関わることもなくなった燈籠は近年に置いて新しく建之したようだ。
(H25.10. 9 SB932SH撮影)
宵宮の灯りは心配されていたが、午後からはピーカン照り。
暑さも倍増になったこの日。
村屋坐弥冨都比売神社に関係する郷村の明神講は今でも存在しているのか、下見がてらに訪問した田原本町千代(ちしろ)の阿部田。
市杵島姫神社では幕を張って鏡餅を供えていたが、この夜の宵宮は氏神さんに参拝するわけでもなく村屋坐弥冨都比売神社へ出かけていたようだ。
村人の話しによれば10月1日は弁天さんのマツリ。
村屋坐弥冨都比売神社の宮司さんが来られて執り行われる神事は宮迎えのようだ。
かつては3組もあった明神講の営みにはアンツケモチを供えたようである。
F家婦人が話すには阿部田の市杵島姫神社では8月28日に風鎮祭を営んでいると云う。
場は神社であるが、村の十念寺の僧侶が営む祭事。
拝殿になんらかの掛軸を掲げていると云う。
神社の行事であれば北側に掲げるが、風鎮祭では東に向かってである。
何故にそうなのか判らない行事には神官が登場せず、僧侶の法要。
神仏混合の行事に興味をもったのである。
神社付近に住む村人二人の話しによれば、阿部田の明神講は平成に入った頃に解散したようである。
千代(ちしろ)には阿部田の他、もう一つの垣内があると云うことを聞いて散策してみた。
そこは八条(はっちょう)と呼ばれる垣内。
春日神社(千代神社とも)の宵宮に提灯をぶら下げていた。

村人に話を伺う時間もなかったが、八条には綱切り講が5軒であったようだと話す阿部田の住民。
戦争中に解散して綱切り祭が途絶えたようである。
千代の様相を確かめて向かう先は蔵堂の村屋坐弥冨都比売神社。
守屋宮司の話しでは戦中に男性がかりだされ、かつて行われていた道開きの行事とする千代の綱切り祭は明神講の解散をもって中断したと云う。
神社禰宜さんが記憶する高校生の頃。
綱切りの作法をしていたことを覚えているというから平成元年の頃まではあったようだ。
昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』に書かれてあった千代の綱切り祭。
村屋坐弥冨都比売神社からの七度半の呼び遣いを受けて青白紙と日の丸扇の幣を持つ前頭家を先頭に千代から出発したお渡りは蔵堂に向かった。
前頭家は現・後頭家とともに白浄衣を着用していた。
領角廻りと呼ぶ田に幣を挿して、馬場先にある一の鳥居の注連縄を腰に挿した短刀で切った。
二の鳥居の注連縄も切ることで村屋坐弥冨都比売神社の秋祭りが始まるしきたりであった。
千代の綱切り講は享保年間(1716~)から明治維新のころまで行われていたようだ。
その後は中断していたが天保年間(1830~)に作成された『森屋内宮御渡式之覚』、『御渡式之節之買物覚』が発見されて大正元年に復活したとある。
阿部田の明神講の刻印がある燈籠は村屋坐弥冨都比売神社の二の鳥居下にある。

天保十三壬寅年(1842)に建之された大明神燈籠である。
現在の行事に関わることもなくなった燈籠は近年に置いて新しく建之したようだ。
(H25.10. 9 SB932SH撮影)