マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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南田原南福寺八日薬師のいせき

2010年10月12日 07時49分01秒 | 奈良市(東部)へ
かつては八日の薬師さんの日が営みだった南田原町の「いせき」。

行事の名称である「いせき」とは何ぞである。

県内では名称が訛って語られることが多々ある。

それらをここで列挙するには文字数があまりにも足らない。

その道に詳しい研究者に尋ねたところ「いせき」は「会式」が訛ったものだと教わった。

「えしき」が「いしき」に変化した。

さらに「いしぇき」になり「いせき」と訛ったのであろうという。

会式となれば仏事の行事になる。

南田原町の「いせき」は薬師堂の行事として行われている。

「その昔のことだ」と前置きされて話された。

元は南福寺と呼ばれるお寺があったそうだ。広い堂宇であったと話す。

宝永元年(1704年)7月17日」の棟札が残されている南福寺。正面にある鰐口も古く延宝六年(1678年)のものだという。

同寺の名残かどうか不明だが本尊薬師如来を祀っていた薬師堂がここにある。

祀っていた薬師如来立像は盗まれたそうだ。

その後に再び仏像を造り祀ったがそれも盗まれた。

阿弥陀如来もあったがそれも盗まれたという。

それからは不動明王が本尊になったが「いせき」の行事は続けられてきた。

一時は廃れていた「いせき」。

村で大災害が起きたそうだ。

それはいかんと中断を止めて現在に至っていると話す。

その話は生まれていなかった時代、戦前だったという。



八日薬師の「いせき」にはケト(ケイトウ)などのお花をおまし(飾り)、祭壇にこしらえた特異な形のオソナエが並ぶ。

年番の「にんにょ」さんの手によるものだ。

「にんにょ」は「年用」の漢字を充てている。

南田原は30数軒の集落。

「にんにょ」は三人ずつで毎年交替するから10年に一度は役を担う。

オソナエの中央はベイナスに赤トウガラシとマメでこしらえた人の顔のような形をしている。

その両脇は卒塔婆を現すのだろうか。

薄く切った5枚のパンが嵌められている。

本来はフ(麩)なのであるが手に入らぬために、仕方なくパンに切り替えている。

後方には大きなズイキとダイコンが立てている。

前方には高く盛ったご飯。

まっすぐの箸を立てている。

両脇はお茶に線香だ。



元寺の南福寺の菩提を弔う「いせき」。

お世話になったお礼だとも話す参拝者。

お賽銭を捧げて手を合わして合掌。



祭壇の前はローソク塔の替わりだという「トーシミ」がある。

手に入りにくい灯心は昨年の「にんにょ」が入手された。

サラダ油を受け皿に入れて灯心に火を点ける。

心が浄火されるような灯心の灯りが十三灯。

こぼれた油で黒光りした「トーシミ」は南田原の歴史を感じさせる。

この火は「いせき」の会合が終わるまで点されている。

火が消えないように見張るのが「にんにょ」だ。

公民館に集まった村の会合の接待にせわしく動き回る。

明治時代までは南福寺に住職が居た。

その住職の命日にあたる8月18日は「ぼざいのさけ」が行われたそうだ。

「ぼざいのさけ」を充てる漢字は「菩提の酒」であろうと話す。

これも「ぼだい(菩提)」が訛って「ぼざい」になったのである。

9月12日は宮さんの「コモリ」。

南田原の宮さんは茗荷町に鎮座する天満宮だ。

弁当を持ってきた「にんにょ」が籠もりをする。

昔は一晩泊まったが今はえー加減な時間で帰るという。

今年の10月9日は宵宮。朝は8時に集合だと自治会長が会合で伝えている。

伝達などを終えたらお酒を飲んで仕出し弁当の会食。

昔は風呂敷に手弁当を包んで持ってきたという。

ほどよい時間になると巻き寿司も配られる。

これは夜食事の分になる。

昔は夜まで会合をしていたのでその分だという。

(H22. 9. 5 EOS40D撮影)