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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

斑鳩町北庄春日神社のトウガイ注連縄

2014年06月07日 08時25分04秒 | 斑鳩町へ
北庄の春日講の人たちが簾型の注連縄をトウガイと呼んでいたと写友人のNさんから聞いて駆けつけた。

この日は朝から年中行事の六日座



宮元座の春日講と呼ばれる斑鳩町北庄の十人衆の座中の行事である。

かつては賑やかだったそうだが、今は五人衆になったと聞く。

鳥居下から拝殿までべったりとある砂。

拝殿前には三角に盛った砂がある。

おそらく砂モチの風習であろう。

御湯の行事は既に終わっていた。

拝殿の扉を閉めて帰られたようだ。

格子扉の隙間から本殿を見る。

その前に掲げてあった簾型の注連縄。

立派な姿の注連縄はトウガイと呼ぶそうだ。

この日の神事は御湯があった。

龍田神社の宮司が出仕されて御湯の儀をされたそうだ。

(H26. 1. 6 EOS40D撮影)

竜田川の御幣岩を探す

2014年02月04日 08時56分24秒 | 斑鳩町へ
天理市南六条の頭家たちに聞いた竜田川の御幣岩

30年前の竜田川はぬるぬるだったと云う。

御幣岩があるはずだと聞いた場は斑鳩町の神南。

竜田川から注ぐ川は大和川と合流するもっと手前。

三室山付近だという。

草むらに覆われていて、探してみたが見つからなかったと南六条の頭家経験者が話す。

その辺りを探してみるが見当たらない。

竜田川の水量は多い。

砂地などは見ることもできない川になっていた。

川底の砂地までを掬って壕のようになった川。

護岸工事がされたのであろう。

そこから北に戻って尋ねた西公民館。

ご親切な対応で私たちが探す御幣岩の所在を教えてくださったN職員さん。

回答してくれたのは斑鳩iセンターの方だ。

観光マップを広げて示してくれた場は三室山を登る階段右側に表示板があり、その左側にあると云う。

付近に生えている草まみれであれば見つけることは困難だと云うが、とにかく行ってみようということになった。

駐車場といえば、現在岩瀬橋の付け替え工事をしている東側に町営駐車場。

トイレも完備する無料の駐車場である。

聞いた通りに三室山に行ったが階段辺りにはそれらしきものが見当たらない。

道路を自転車で走っていた男性に尋ねても知らないと返す。

三室山がある地の小字は垣内山。

それより北側は稲葉車瀬になる。

山頂には神岳神社の祠があるらしい。

男性は川に下りていった。

そこでは鯉釣りをしていた若者がいた。

ロッド竿を投げていた場には鯉がうじょうじょいる。

そこにあった御幣岩の案内板。

その前が御幣岩である。

川に下りる階段もある。

ここが現在の禊の場であった。

川浚え工事の際に岸辺に移したのであろう。

御幣岩の裏側には昭和56年3月吉日とある。

今から32年前のことであるから南六条の人たちが云った時代と一致する。

風化によって刻まれていた御幣の形は判別し難い。

この辺り、江戸時代のころは御祓川と呼ばれていた。

御幣岩で神事が行われていたらしい。

御幣岩の存在を確かめた帰りがけたときのことだ。

若者が釣り糸を垂れていたロッドがしなった。

鯉のヒットである。

重量でロッドがひん曲がる。

鯉の引きは強い。

逃げようとする鯉との戦い。

気力を失ったのか。ロッド竿を持ち上げようとしても無理がある。

思わずタモを持ってきた男性は若者のおじいちゃん。

度々釣りにきているそうだ。

この日のヒットは3度目の投入。

うじょうじょいる鯉のエサは食パンだ。

鯉釣りのエサは蒸かしたイモではなく食パンだったのだ。

たしか麩でもエサになる。

ゲットした鯉の体長を測る。

体長は60cm。ずっしりとした重さである。

嬉しいヒットに笑顔を見せてくれたのは高校一年生のⅠくんだ。



ゲットした大魚はキャッチアンドリリースする。

調べてみれば本物の御幣岩は彼の後方に沈んでいるようだ。

西公民館のN職員が話した川施餓鬼。

それも確かめたくて堂山にやってきた。

観光マップには堂山の竜田城跡と示されている。

片桐且元が築城した城である。

堂山は公園化されていた。

そこには観音さんが立っていると話すiセンターの職員の声に釣られて探してみた。

高さは4メートルもある青銅製の観音立像。

近年に建てられたものであろう。

建碑に平成12年5月21日とある。

建之された団体は龍田観音建立奉讃会。

護持者は龍田和音之会であった。



iセンターの職員の話しによれば5月第二日曜日に施餓鬼法要が平成22年にあったそうだ。

水死者を弔う施餓鬼法要であったと思われる。

法要は50年間も続いているようだ。

(H25. 9.29 EOS40D撮影)

西里の廻り地蔵の地蔵会

2013年12月29日 08時32分11秒 | 斑鳩町へ
平成22年3月に取材させてもらったことがある奈良市の丹生町。

三日地蔵と呼ばれている地域の行事は祭っていた家から、次の家へ地蔵さんを背中に担いで廻している。

地蔵さんは納めた厨子ごと運んでいた。

同市の中山町でもよく似た廻り地蔵があるらしい。

奈良県内では他所においてもされている処があるのか気にかけていた。

何を調べていたのか思い出せないが、ふとしたことから判った斑鳩町の西里。

県立同和問題関係史料センターが纏めた『リージョナル13号』や斑鳩文化協議会刊の『斑鳩の生活史』で詳しく紹介されていた西里の廻り地蔵さんである。

古くは法隆寺の中院と西里の家々を一日おきぐらいに廻っていたと伝わる。

今では中院とは関係なく、西里の旧村60戸ぐらいで廻していると書き記されていた史料が手掛かりだった。

廻り地蔵さんは一年に一度は公民館に祭られることを知ってその場所を探していた。

雨の降る日であった。

法隆寺駐車場の人や歩いている婦人に聞いても判らない。

地区はここら辺りだと判っていても、知る人と遭遇しない。

何人か目の婦人に尋ねてようやくその場が判った公民館には提灯が並んでいた。

会場に居られたご婦人たちに取材主旨を伝えて、承諾の上、会場に上がらせてもらった。

そこに祭ってあったのが廻り地蔵さんである。

廻り地蔵の始まりは定かでないが、中院の権少僧都千晃が安政六年(1859)に記された文書に、コレラが流行ったが村では誰も発病しなかったとあるそうだ。

それは地蔵さんのご加護であったと、村人が感謝して廻り地蔵さんの厨子を修理したと伝わる。

文書によれば廻り地蔵さんは聖徳太子の御製で、慶長二十年(1615)に起こった大坂夏の陣。

大坂城を焼きつくした際のことである。

理由は定かでないが、法隆寺西郷をも焼きつくした。

西郷は中井正清が居住していた地だ。

中井正清こと中井主水正清は郡山城を建築した大工の棟梁。

その関係で焼いたのであろうか。知る人はいないらしい。

慶長二十年(1615)の四月二十六日。豊臣勢は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて筒井定慶が守備していた郡山城を落とした。

付近の村々に放火したとされる。

西郷が焼き打ちにあったのは慶長二十年(1615)の四月であったと伝わっていることから、この件であったろう。

豊臣勢の焼き打ちによって西里(西郷)が大火に見舞われたが、地蔵さんが中院に飛んできて、法隆寺を火災から守ったと文書にあるそうだ。

今尚、廻り地蔵をされている家は西町の旧家。

60戸の家によって廻しているようだ。廻りをする順は決まっている。

厨子の裏側に設置された板書の順に従って廻す。

この日に来られていた西ノ口垣内のご婦人に聞いた地蔵さんの廻り。

一日、或いは二日おきもあるらしい。

廻る順番は板書に書いてある通りであるが、玄関から玄関へ運んだ家は一軒隣でもない。

ぐるりと裏へ回って廻す場合もある。

距離が遠のくのである。

廻り地蔵さんを納めた厨子は屋根に取っ手がある。

重さは7kgぐらいであろうか。

年寄りには持つことができない重さだ。

大正12年生まれのご婦人は「持つことができないからお嫁さんや若いもんに替ってもらうんです」と話す。

何人かは一輪車に載せて運んでいると云う。

廻り地蔵がやってきたら、お供えをする。

洗い米は基本であるが、その他の品物には決まりがない。

この日のお供えのようにカンピョウ、シイタケ、コーヤドーフがだいたいそうであると云う尼講の婦人たち。

場合によっては家の晩のおかずをお供えにすることもあるようだ。

西ノ垣内では料理でなくお菓子にしたと話す。

長期旅行などで廻りの家が不在と判っている場合には、二日どころか数日間も滞在する廻り地蔵さん。

面倒ではなく、「ありがたいのです」と話した婦人はいつもやってきたら床の間に置いていると云う。

こうした廻り地蔵の在り方を聞いて、この日、再び訪れた西里の公民館。

8月24日の地蔵盆の場は、かつて町内の西福寺本堂での営みであったが公民館に移った。

西福寺の尼講の婦人たちが主体で行われている。



始めに住職による法要が営まれる。

尼講の人たちは地蔵盆だけでなく、春・秋の彼岸、夏の施餓鬼、10月の如来さんのご回在、11月の十夜も、西福寺でお勤めをしているそうだ。

朝9時、公民館に地蔵盆の提灯を掲げるとともに、廻り地蔵さんを座敷に安置した。

全員が揃ってするわけでもなく、来られる人が飾ったと云う。

厨子(高さ42cm・横幅27cm)に納まっているお地蔵さんは高さが20cmぐらい。

はっきりとはしないが、なんとなく石仏のようである。

金色の衣装を纏っている。

お地蔵さんのお供えはカンピョウ、シイタケ、コーヤドーフの三品に洗い米だ。

「なむあいだ なむあみだ」を唱える法要には尼講の他、父親・母親に連れられた子供や赤ちゃんまでも参列する。



法要を終えて住職が退席されたあとは尼講の数珠繰りだ。

「はーい、みんな席について輪になってください」の合図に座った。

導師は二人。お一人だけは地蔵さんに向かってナンマイダを唱えながら数珠を繰る。

もう一人は撞木で鉦を打つ。

一人二役もできないから、こうしていると話す尼講。



生まれたての赤ちゃんも参加した数珠繰りは20回だった。

尼講の一人がその回数を数えていた数取りのお数珠。



それが満願の20回数である。

大玉の念珠が回ってくれば頭を下げる。

子供たちも見習ってそうしている。



「例年は少なかったが、こんなに大勢が参ってくれたのは初めてだと思う」と尼講が云うぐらいに賑やかに行われた数珠繰りを終えれば、ありがたいことに背中を丸めて身体堅固。

一人、一人が重さを感じる大念珠である。

前日の夕刻、西ノ口垣内の地蔵盆ではゴザを敷いて数珠繰りをしていた。

1時間後には東出屋敷垣内でも同じように数珠繰りをしていたと話す。

西里は新福寺(2組)、西ノ口、陵(3組)、業平東、畑ケ中、東大小路、西大小路、東出屋敷、西出屋敷、新西出屋敷の10垣内。

23日の地蔵盆の数珠繰りはそれぞれの垣内ごとに行われているのか、一年後に聞き取ってみたいものである。

ちなみに西里には3組の愛宕講があるようだ。

それぞれの講に厨子があって巡回しているらしい。



その講中の証しかどうか判然としないが、集落内には愛宕山の刻印がある燈明の石塔が立っていた。

(H25. 8.24 EOS40D撮影)

斑鳩町高安天満宮引き継ぎの座

2011年11月13日 08時21分26秒 | 斑鳩町へ
祭りを終えた人たちは神社から一旦引き揚げて家に戻る。

それから30分ぐらいも経ったであったろうか。

再び神社にやってきた上六人の長老と下六人。

上六人は羽織袴で下六人は浴衣のような白い和装に帯締め姿で再登場した。

拝殿の座には上六人にこれから引き継がれようとするこの日から勤める下六人の人たち。

平服の普段着であがる。

座の席に甘酒やレンコン、ゴボウを並べるのはお渡りをしていた下六人。

拝殿通路で立っている。

席に着けば上六人が挨拶を述べる。

この夜は上六人の数人が下六人を勤めていたので人数は合計で18人とはならない。

下六人を勤めた長老は上六人となって上がったのだ。

次の下六人には長老が一人ずつ竹串の幣を手渡される。

引き継ぎを受ける作法であろう。

下六人にお酒を注ぐのは接待する上六人。



実に複雑な構造である。

乾杯をしてしばらくは歓談の場となった引き継ぎの座。

30分ほどで終えた。

こうして祭りの引き継ぎを終えた上、下六人衆は帰っていった。

その人たちの話しによれば再び神社に向かってお渡りをするという。

先ほどのお渡りでは白の御幣を持ってきたが、今度は赤い御幣であるという。



24時を過ぎたころにやってくるお渡りを「アカツキ(暁)のお渡り」と称している。

盆地部ではとても珍しい行事の様相であり古式色が残される高安の地である。

(H23.10. 9 EOS40D撮影)

斑鳩町高安天満宮トーヤのお渡り

2011年11月12日 08時03分52秒 | 斑鳩町へ
お神楽が行われている頃はトーヤの家でもてなす会食。

振舞われるお酒もいただいていた。

お渡りの前の直会であろう。

そのトーヤの家は「ヤド」とも呼ばれている。

公民館にしてはどうかという意見もだされたが、神さんは家に来るものだと意見は退けられ、今もなおヤドでされている。

「ヤド」である印といえば「今月今日」の文字が書かれた御神燈の行燈。

その行燈を辿っていけば「ヤド」の家に着く。

このような目印は広陵町三吉専光寺の地蔵盆の立山祭でも見られた。

「ヤド」では朝から千本杵でゴクツキ(御供搗き)をしていた。

神社に献饌される大きな餅(2枚の一升モチ)で小さな太鼓を叩いて搗いていたという。

お供えは7本のダイコンやレンコン、ゴボウ、ドロイモなど。

トーヤは和装の羽織姿で下駄を履く。

宮座は上六人(宮六人とも呼ばれる)と下六人。

上六人は宮さんを司っている長老たち。

年齢順に一年ずつ交替するので実質6年間のお勤めである。

下六人は行事に入るマワリ(回り)で座入りした二十歳のウイトウ(初トウであろう)。

そこからコヨリクジで選ばれる下六人だそうだ。

トーヤは羽織袴で6人のウイトウは烏帽子を被り素襖の衣装姿。

白い御幣を持つ。

穂付き稲を両端に取り付けたサカキ。

これをイナサカキと呼んでいる。



桶には甘酒。

それぞれは六人衆の身うちにあたる人がトモとなって担いでいく。

ホラ貝を吹く人と座中提灯を持つ人が先頭にお渡りが始まった。

「ブォー ブォー」と吹き鳴らす道中。

真っ暗な道を通って天満宮へ行く。

その姿を一目見ようと村人が道中で出迎える。



ホラ貝はその合図なのであろう。

夜のお渡りは県内事例ではあまり見かけない形式だと思われる。

お渡りの際には、かつて40人もの人たちがオーコで担ぐ蒲団太鼓を出していたそうだ。

境内に入って宮入りをする際には邪魔をする人たちとのせめぎ合いで盛りあがったという。



それは30分ほども続いたそうである。

本殿前に立ったのはウイトウ。

御供の風呂敷と同様に家紋がある装束が特徴だ。

それは家の格式を示す象徴ではないだろうか。



家族は拝殿で神事を見守っている。

祓えの儀、祝詞奏上、献饌、玉串奉奠など滞りなく進められる。

以前はローソクの明かりだけだったというから相当暗かった。

今では電燈が照らしているがそれでも暗い神社で神事をされたあとは6本の御幣が本殿に残った。



なおイナサカキはトーヤの家に持ち帰るそうだ。

(H23.10. 9 EOS40D撮影)

斑鳩町高安天満宮の神楽

2011年11月11日 08時56分44秒 | 斑鳩町へ
古来は富の小川村と称された斑鳩町の高安。

富の小川は今でいう富雄川のことだ。

もともとは高安の東側を流れていたそうだ。

平安時代の歌人の一人に挙げられる在原業平(ありわらのなりひら)。

伊勢物語で名高い歌人であった。

大阪河内の高安に通ったときに立ち寄ったのが斑鳩のこの地。

村の人が業平のことを忘れないようにこの地を高安村と呼ぶようになったという。

かつて参拝する女の人に、子供が鍋釜の墨を顔に塗りつけていた。

それは在原業平が気にいった娘を婚入りさせてしまうことから、化粧の代わりに墨を塗ってわざとシコメ(醜女)にしたそうだ。

これに基づくとされるが行事にあったと伝承されている高安天満宮。

境内地には大日堂と刻まれた石塔や五輪塔がある。

神宮寺であったと思われるが断定はできない。

この日の夜は秋祭り。

拝殿には巫女さんが参拝者を待っている。

そこへ現れたのは手に風呂敷包みを抱えた村の人。

中に入っている新米を奉納されるのだ。

当地は作付面積が広い農家が多く五穀豊饒に奉納されるお米である。



それを受け取った巫女さんはお神楽を舞う。

氏神さんに一礼して始まったお神楽。

右手に鈴を持ってシャンシャンと鳴らす。

大きく手を広げて右回りに舞う。

独特の神楽舞である。

再び一礼して参拝者に鈴を振る。

祓い清めのお神楽であろう。

そして氏神さんに参拝する。

次々と訪れる参拝者は拝殿前で行列となった。

持って来た風呂敷といえば家紋入りが多い。

そのことはこれから始まるトーヤのお渡り衣装にも見られる。

(H23.10. 9 EOS40D撮影)

龍田神社風鎮祭の千燈明

2011年08月16日 06時47分08秒 | 斑鳩町へ
かつては法隆寺の鎮守社として創建された斑鳩町の龍田神社。

神社前に住むKさんの話では娘さんが保育園児だったころカヤ葺きの神社本殿が火事になったという。

それは付近の子供がしていた花火の火が移って全焼した。

ニュース報道をテレビで見て飛んで帰った宮司はその火を見て驚いたという。

そういう事件もあって建て替えられた本殿は銅板葺きにされた。

昭和40年代のはじめというから40年以上も前のことだという。

龍田神社の前は行き交う人で賑わったとされる龍田の街道。

この日は夏祭りで駆けつけてくる大勢の子供たちで賑わっている。

鳥居から街道を隔てた真向かいに大きな石造りの常夜燈が見られる。

そこには文化八年(1812)九月に燈明講が建立したと刻印が記されている。

その存在を気にかけることもなく参拝者は鳥居を潜っていく。



境内は龍田の青年団が催す夜店がずらり。

これが目当ての子供たちだった。

その横には櫓を立てている盆踊りの会場。

地元の民謡河内音頭「浮世絵」の幕が張られている。

ごったがえす境内の雰囲気とは対照的に厳かに執り行われているのは風鎮祭の祭典。

総代や祭り役員たちは拝殿に登って神事をされている。

祓え、祝詞奏上に続いて本殿前に設えた千燈明に火を点けられた。

この夜は参拝に訪れる人たちが一つずつ願いごとを書いて献燈する千燈明なのだ。

その千燈明は白磁のカワラケに油を注ぎトーシミを置いている。

願いごとを書いたプレートを掛けてトーシミに火を燈す。



本殿前と両側の燈明棚に置かれたカワラケは450枚にもなる。

昨年までは両側の棚は拝殿に並ぶように置いていた。

火を点けるには相応しくないと考えて今年からこのような形式にされた。

いつもと違う参拝者は燈明担当者の指示を受けて内部に入っていく。

神さんの前で手を合わせられるのでありがたいと話す参拝者。



献燈はローソクにしてはどうかという意見もでたが倒れることのないトーシミにされた。

トーシミは本来灯芯と呼ばれるのだが、それは安堵資料館で買ったという。

東大寺修二会に献上されているありがたい灯芯で2時間は保つ。

風を鎮め水難、疫病を防ぐ神さんを崇めて献燈される風鎮祭の千燈祭は今年で9回目となった。

風を鎮める風祈祷の行事のなかにはこのように灯明を点す地域が県内で見られる。

桜井市修理枝(しゅりえだ)の八王子神社、桜井市滝倉の瀧蔵神社、天理市苣原町の惣社九頭神社、藤井町の三十八神社、下仁興の九頭神社などで山間部にある。

火を燈せば風に揺れて消える。

消えれば火を燈す。

風のいたずらにやられまいとこれ繰り返す。

作法とも考えられる風と火の戦いが風鎮(かぜしずめ)の祭りなのである。

そういう意味があったのかと氏子総代らは驚かれたが、何度も繰り返すのはたいへんだと棚周りには風除けの透明シートで囲んでいる。



千燈明祭を営むようになったのは青年団の力が大きいという。

龍田の氏子地域は西の龍田川向こうの西之山。東は法隆寺辺りの東町。

神社付近が中町。

西部、中部(かつては北部)、東部地区にはそれぞれ太鼓台があって祭りにそれを担いでいた。

40年以上も前は街道に色街もあって相当賑わっていた。

その街道を練り歩いたそうだ。

それがいつしか担ぎ手が少なくなり一つ消え二つ消えと残ったのが西部地区。

昭和49年に新調されたので古いほうを東部に譲った。

北部は新しく造った太鼓台。

そうして3台が揃い復活して再び賑わいをみせることになった。

それから30年。

当時青年団で活躍していた人たちは氏子総代となって戦前まで行われていた千燈明も復活されたのであった。

(H23. 7.16 EOS40D撮影)

龍田神社夏越の祓

2011年07月26日 07時56分10秒 | 斑鳩町へ
水無月と呼ばれる6月。

その末日になる晦日の30日は各地で夏越の祓が行われている。

一年を折り返す日はちょうど半年目で、その間の罪や穢れを祓って後半の半年を無病息災に願う祈りの神事。

茅で設えた茅輪くぐりがある神社もある。

斑鳩町龍田に鎮座する龍田神社ではそれは見られないが、その半年間の祓と健康を祈る人たちが人形(ひとがた)を奉納されている。

神社拝殿に置かれていた人形に家族の名前や年齢を予めに書いて折敷(おしき)に納めておく。

その際には紙片に象られた人形を手で撫でるか、息を吹きかけるのが作法だと話す。

折敷は三方の台となる「胴」の部分がない形態だ。

神饌とともにそれを奉った祭壇。

その向こうは本殿だ。

神事を斎行される宮司はただ一人。

参列される人もなく黙々と夏越の祓の儀式が執り行われた。

同神社の祓は6月と年末大晦日の大祓がある。

年末は年を越すから「年越し(としこし)」で6月は夏を越すから「夏越し(なごし)」とされている。

その夏越し祓の神事には訪れる人は少ない。

しかし年末の大祓は年を越す時間帯になるころには長い行列ができると宮司は話す。

神社前に住むKさんの話によれば、この日は水無月のモチを買ってきて夜が明けるまでに食べるという。

その風習は出身だった京都でこと。

それを嫁ぎ先の斑鳩でもされてきて、近くにある並松の商店街のお店で頼んだ和菓子の水無月のモチ買って食べていたと話す。

この年は河合町まで出かけて和菓子専門店の天平庵で買っきた水無月のモチ。

前もって聞いていた味はウイロウ(外郎)のようだと聞いていた三角形の水無月のモチ。

口にするとまさしくウイロウ(外郎)である。



それは米粉で作られたものである。

その三角形の水無月のモチは上に小豆を散らした餡が乗っている。

並松のそれはもう少し大きかったようで味はといえばさすがに天平庵となった水無月。

下部の三角ウイロウは氷を表し小豆は悪魔祓いを意味する和菓子だそうだが京都のものと同じなんだろうか。

和菓子屋さんを調べてみれば奈良 菓匠 千壽庵吉宗もあるではないか。

餅飯殿通りの優月というお店も売っていると。

なんと大和郡山の本家菊屋でも売っているらしい。

新大宮に本店を持つ大和風詠菓 萬春堂さんまでも。

奈良ではいたるところで和菓子屋さんが販売を・・・・奈良でも浸透しているのだろうか。

(H23. 6.30 EOS40D撮影)

法隆寺西円堂追儺会

2010年03月11日 09時25分05秒 | 斑鳩町へ
節分は立春の前夜。旧暦では正月上旬にあたる。

中国暦の輸入とともに入ってきた民間信仰。

それがいつしか日本の古い民俗行事と習合した。

中国の陰陽道では、立春は冬が去って春来る季節の移り目。

陰陽道を重んじた宮廷が取り上げ、節分にあたり、追儺(ついな)と称して行事をしていた。

宮廷の追儺は大晦日。

官人が祭文を奏し、大舎人(おおとねり)を厄鬼子鬼に扮しめ、殿上人が桃の弓などで宮廷の外に追いやった。

畿内の大社寺がこれをまねて、やがては民間に広まった。

1日から3日は法隆寺修二会の厳修。

3日、西円堂で行われてきた薬師悔過の法要は結願を迎えた。

この夜は追儺式。いわゆる鬼追いの祭典。

鐘太鼓が7回半打ち鳴らされると黒、青、赤面の鬼が登場する。

西円堂は四面に扉がある八角宝形造りの円堂。

北正面から現れる黒鬼の父鬼。

斧を研ぐ所作のあと沙主役から松明を受け取り3回振り回す。

そして観客目がけて放り投げる。

「ここや ここや」の声が鬼に聞こえたかどうかは判らない。

鉄棒を持った青鬼の母鬼、剣を持つ赤鬼の小鬼。

それぞれは同じように3回振り回して投げる。



後ろには鉾を持った毘沙門が鬼を追い払う。

北正面扉から東、南、西扉へと移って同じ所作をする。

それを堂廻り3回繰り返して追儺会を終える。

冷え切った夜空に煌めく星。

春はまだ遠からじ。

(H22. 2. 3 EOS40D撮影)