マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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西里の廻り地蔵の地蔵会

2013年12月29日 08時32分11秒 | 斑鳩町へ
平成22年3月に取材させてもらったことがある奈良市の丹生町。

三日地蔵と呼ばれている地域の行事は祭っていた家から、次の家へ地蔵さんを背中に担いで廻している。

地蔵さんは納めた厨子ごと運んでいた。

同市の中山町でもよく似た廻り地蔵があるらしい。

奈良県内では他所においてもされている処があるのか気にかけていた。

何を調べていたのか思い出せないが、ふとしたことから判った斑鳩町の西里。

県立同和問題関係史料センターが纏めた『リージョナル13号』や斑鳩文化協議会刊の『斑鳩の生活史』で詳しく紹介されていた西里の廻り地蔵さんである。

古くは法隆寺の中院と西里の家々を一日おきぐらいに廻っていたと伝わる。

今では中院とは関係なく、西里の旧村60戸ぐらいで廻していると書き記されていた史料が手掛かりだった。

廻り地蔵さんは一年に一度は公民館に祭られることを知ってその場所を探していた。

雨の降る日であった。

法隆寺駐車場の人や歩いている婦人に聞いても判らない。

地区はここら辺りだと判っていても、知る人と遭遇しない。

何人か目の婦人に尋ねてようやくその場が判った公民館には提灯が並んでいた。

会場に居られたご婦人たちに取材主旨を伝えて、承諾の上、会場に上がらせてもらった。

そこに祭ってあったのが廻り地蔵さんである。

廻り地蔵の始まりは定かでないが、中院の権少僧都千晃が安政六年(1859)に記された文書に、コレラが流行ったが村では誰も発病しなかったとあるそうだ。

それは地蔵さんのご加護であったと、村人が感謝して廻り地蔵さんの厨子を修理したと伝わる。

文書によれば廻り地蔵さんは聖徳太子の御製で、慶長二十年(1615)に起こった大坂夏の陣。

大坂城を焼きつくした際のことである。

理由は定かでないが、法隆寺西郷をも焼きつくした。

西郷は中井正清が居住していた地だ。

中井正清こと中井主水正清は郡山城を建築した大工の棟梁。

その関係で焼いたのであろうか。知る人はいないらしい。

慶長二十年(1615)の四月二十六日。豊臣勢は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて筒井定慶が守備していた郡山城を落とした。

付近の村々に放火したとされる。

西郷が焼き打ちにあったのは慶長二十年(1615)の四月であったと伝わっていることから、この件であったろう。

豊臣勢の焼き打ちによって西里(西郷)が大火に見舞われたが、地蔵さんが中院に飛んできて、法隆寺を火災から守ったと文書にあるそうだ。

今尚、廻り地蔵をされている家は西町の旧家。

60戸の家によって廻しているようだ。廻りをする順は決まっている。

厨子の裏側に設置された板書の順に従って廻す。

この日に来られていた西ノ口垣内のご婦人に聞いた地蔵さんの廻り。

一日、或いは二日おきもあるらしい。

廻る順番は板書に書いてある通りであるが、玄関から玄関へ運んだ家は一軒隣でもない。

ぐるりと裏へ回って廻す場合もある。

距離が遠のくのである。

廻り地蔵さんを納めた厨子は屋根に取っ手がある。

重さは7kgぐらいであろうか。

年寄りには持つことができない重さだ。

大正12年生まれのご婦人は「持つことができないからお嫁さんや若いもんに替ってもらうんです」と話す。

何人かは一輪車に載せて運んでいると云う。

廻り地蔵がやってきたら、お供えをする。

洗い米は基本であるが、その他の品物には決まりがない。

この日のお供えのようにカンピョウ、シイタケ、コーヤドーフがだいたいそうであると云う尼講の婦人たち。

場合によっては家の晩のおかずをお供えにすることもあるようだ。

西ノ垣内では料理でなくお菓子にしたと話す。

長期旅行などで廻りの家が不在と判っている場合には、二日どころか数日間も滞在する廻り地蔵さん。

面倒ではなく、「ありがたいのです」と話した婦人はいつもやってきたら床の間に置いていると云う。

こうした廻り地蔵の在り方を聞いて、この日、再び訪れた西里の公民館。

8月24日の地蔵盆の場は、かつて町内の西福寺本堂での営みであったが公民館に移った。

西福寺の尼講の婦人たちが主体で行われている。



始めに住職による法要が営まれる。

尼講の人たちは地蔵盆だけでなく、春・秋の彼岸、夏の施餓鬼、10月の如来さんのご回在、11月の十夜も、西福寺でお勤めをしているそうだ。

朝9時、公民館に地蔵盆の提灯を掲げるとともに、廻り地蔵さんを座敷に安置した。

全員が揃ってするわけでもなく、来られる人が飾ったと云う。

厨子(高さ42cm・横幅27cm)に納まっているお地蔵さんは高さが20cmぐらい。

はっきりとはしないが、なんとなく石仏のようである。

金色の衣装を纏っている。

お地蔵さんのお供えはカンピョウ、シイタケ、コーヤドーフの三品に洗い米だ。

「なむあいだ なむあみだ」を唱える法要には尼講の他、父親・母親に連れられた子供や赤ちゃんまでも参列する。



法要を終えて住職が退席されたあとは尼講の数珠繰りだ。

「はーい、みんな席について輪になってください」の合図に座った。

導師は二人。お一人だけは地蔵さんに向かってナンマイダを唱えながら数珠を繰る。

もう一人は撞木で鉦を打つ。

一人二役もできないから、こうしていると話す尼講。



生まれたての赤ちゃんも参加した数珠繰りは20回だった。

尼講の一人がその回数を数えていた数取りのお数珠。



それが満願の20回数である。

大玉の念珠が回ってくれば頭を下げる。

子供たちも見習ってそうしている。



「例年は少なかったが、こんなに大勢が参ってくれたのは初めてだと思う」と尼講が云うぐらいに賑やかに行われた数珠繰りを終えれば、ありがたいことに背中を丸めて身体堅固。

一人、一人が重さを感じる大念珠である。

前日の夕刻、西ノ口垣内の地蔵盆ではゴザを敷いて数珠繰りをしていた。

1時間後には東出屋敷垣内でも同じように数珠繰りをしていたと話す。

西里は新福寺(2組)、西ノ口、陵(3組)、業平東、畑ケ中、東大小路、西大小路、東出屋敷、西出屋敷、新西出屋敷の10垣内。

23日の地蔵盆の数珠繰りはそれぞれの垣内ごとに行われているのか、一年後に聞き取ってみたいものである。

ちなみに西里には3組の愛宕講があるようだ。

それぞれの講に厨子があって巡回しているらしい。



その講中の証しかどうか判然としないが、集落内には愛宕山の刻印がある燈明の石塔が立っていた。

(H25. 8.24 EOS40D撮影)


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